#32 Los(ing)
三月になった、と言っても、大学生の身には特に公的には何もあるわけではないのですが。普通の大学生にすれば、変化と言えば精々が花粉が飛ぶようになったくらいのことで。休みは三月いっぱいまで続くのです。
私はその年の三月を、アカネとの関係というよりは、梨紗と椎名との関係をメインに過ごしました。アカネとも、時々メールをするくらいはしていましたが。
梨紗には渋谷のカフェで会うことになりました。
私は彼女と会うことを意識して、いつもよりひどく緊張していました。その時、彼女は髪を黒く染め直していて、それから少し無理に明るく振舞っていました。緊張は、すぐ消えることはありませんでしたが、でも次第に消えて行きました。彼女と話していても、何というかいつも通りなのです。やはりアカネは特別なのだ、と私は思いました。
「久しぶり」と、彼女は私に不出来な笑みを浮かべて、言いました。
「久しぶり」と、私は彼女に起きたことを察して、彼女の対面に座りました。
話は誰の目にも明らかでした。私たちは多分にギクシャクとして嚙み合わない雑談を最初にして、それから最後にはその話に向かいました。
「別れたの」、と彼女は言いました。「振られちゃった」と。
私は彼女の話を黙って聞いていました。
結局は、と彼女は言いました。恋愛関係など、どこかで違和感を抱いた瞬間に消えて行くものなのね、と。私、気付いていたの。決して彼は私を本当に好きでいてくれているわけではないのだ、ということを。見ないふりを、ずっと続けてきたけれど、でも結局は、そんなもの永遠には続いていかないものなのね。本当に好きっていうその定義は、私にはわからないけれど。でも、そういう感覚を少なくとも抱いていなければ、付き合うなんていうこと、絶対にできないのよ。できないの。
私は、冷めたロイヤルミルクティーを飲みながら、その話を聞き続けていました。
振られた、と彼女は言いました。けれど、彼女はどちらかと言えば自分が相手を振る理由になるようなことをずっと言っていました。あるいは、そんなものなのかもしれません。別れには、きっと双方に理由が必要なのです。きっかけが、どちらであろうとも。
でも、彼女は暫くそういう話を続けた後、急に涙を落としました。
それは何というか冷静な泣き方でした。特に声を出すこともなく、ただ涙だけが頬を伝い続けていたのです。
ごめん、と彼女は言いました。
私は頷きました。あまり聞いていて心地よいと思えない話を、ずっと聞いて、しかも目の前で泣かれても、私としても、どうしようもないものがあったのです。けれど、でも私は彼女が決して嫌いなわけではありませんでしたし、心配でもありました。
ねえ、私、強がりを言ってた、と、彼女は口に出しました。振られて、本当に悲しいの。それに、罪悪感があるの。私、本当に彼のこと好きだったのか、自分の方でも確証がないの。いい人だったけど、そう、いい人だったから、私、彼を利用してた気すらするの。そしてね、私、何かを失った気分なの。大切なものを。そして、汚れてしまった気がする。
彼女は、そう言いました。
それからすぐ、私たちはカフェを出ました。無表情を好む、渋谷の風景は、私たちを随分と浮いた存在にしているような気がしました。彼女は、やはり何となく泣いた後の顔をしていましたし、私は、何だかひどく沈んだ気持ちになっていましたから。
私たちはそれからどちらも何も言わずに、真っ直ぐ駅に向かって、それから東急線の地下の改札口の前で別れました。もう何もする気も沸いてこなかったのです。
「じゃあ」、と私は言いました。「今日は、ここで」と。
そして、彼女はこう言いました。「ねえ、私。この世界で生きていくのが、ひどく難しいような気分」と。「心配、しないでほしいの、自殺するとか、言っているわけじゃないから。ただ、ただね、何だか、感じとして、もう私、ちゃんと生きていけるのか、自信が無くなってしまったの。この社会の中で、私として」
「わかるわ」、と私は言いました。「きっと、それは、誰でもそうなのよ」
「ありがとう、今日は、本当に。ごめんなさい、あまりあなたに益のない話ばっかり」
「気にしないで、そういう時もあるわ」
謝られると、もう大して悪いイメージも持てませんでした。逆転して、良いイメージの方が勝ってしまったくらいで。
「さよなら」、と彼女は言いました。「また、今度、良ければ」
私たちはそこで手を振って別れました。
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