#29 Escort

 それから私たちは厳島神社の本殿をじっと参拝していきました。手を、ずっと繋ぎながら。それはあるいはとても罰当たりなことだったかもしれません。女神様にしてみれば、もしかすればそれはきっと少し不愉快なことだったような気がするのです。神社は綺麗でした。本当に、厳かでした。床の下にずっとたゆむ水も、綺麗に塗られた道も、天井から釣り下がる灯りたちも、全てが。だけれど、私はそれをずっと平常心で、敬虔な気持ちで見ることが出来ませんでした。私は本当に自分でも訳が分からなくなるほどドキドキしていたのです。気持ち悪くなるくらいに。


 私はもうアカネの気持ちが全く分かりませんでした。

 客観的に見れば、それはただの女友達との一般的な交流でした。だから、常識的に考えれば、私が通常ではない感情を抱いているのは、ただ私がおかしくなっているだけに違いないし、彼女は何か特殊な気持ちを抱いているはずがないのです。実際に、アカネはいつもとほとんど同じような態度でいるように見えました。けれど、私はどこからか彼女から特別な優しさを受け取っているように思ったのです。客観的に、もしくは具体的に、彼女のどこが違っているか、そんなことは全く分かりませんでした。けれど、その眉の少しの動きとか、あるいは腕の少しの曲げ方とか、そういう全体的で総合的なもの達が、曖昧な形ながら、私を暖かく見つめてくれているように思ったのです。


 私たちは本殿から退出して、端に小さな水の流れのある道を、港の方まで、ゆっくりと戻って行きました。軒のある商店が立ち並ぶ光景は、本当に日本的で。それが計画された、打算的なものだと分かっていても、私は安心感を抱きました。

 私たちは海沿いを歩いて行きました。商店街より、入れる店数が少なく、鹿の多く棲む道を、手を繋いで。私はいくつかお土産を買おうとして、彼女に助言を頼みました。結局はもみじ饅頭を買うことに決めましたが。お土産は、結局美味しさより値段より何より、デファクトスタンダードか否かが大きいのです。

 いくつかの中身がミックスされている、詰め合わせを、私は三つほど買いました。それから、バラのを二つ買って。私たちは店内に座り、それをゆっくりと食べました。

「美味しい」、と私は言いました。

「美味しい」、と彼女は言いました。

 それからアカネは外を行き交う人と、お饅頭の整然と並ぶ店内を見つめて、私に静かに語りかけました。まるで、諭すように。

「ねえ、本当に不思議だと思わない? こんなに人がいて、こんなに商品があって。結局は、みんな自分なりにそれぞれ選択することが出来るんだから」

「でも、それはそうなんじゃないかしら。結局は個人の積み重ねでしかないんだし」

「そもそも、個人が、意思決定を出来ること自体が、とても不思議なのよ」

「私たちは消費期限とか値段とか有名度とかそういうものをミックスして総合的な判断を下すことが出来る。それはね、すごいことなのよ。何をどれくらい優先すべきか、まず何から見るべきなのか、そういうことを私たちは無意識的に考えて行動しているのだから」

 確かに、そうかもしれない、と私は思いました。彼女は続けました。

「でも、私たちは具体的にどれをどれくらい重要視しているか、自分でも言葉に出すのは難しいのよ。そうでしょう? 私たちは、まだ自分たちの行動を全ては把握できていないの」

「全ては把握できていない」

「そう。知能というのはそういうことなのよ。ブラックボックスなの。そしてね、だから、もし私たちが人間と同じくらいか、それよりずっと良い性能の知能を、人工知能を、生み出すことが出来るとしたら、それは人間がそれに負けたわけじゃないの。私たちは、自分自身に勝ったことになるのよ」

「自分自身に勝ったことになる」

「そう。無意識や、そういうものに、一定の法則を見出して、理性的に自分たちの感情や行動を束縛する条件を、見出せたということになるのだから」

「できるの、そんなこと」

「やろうとしているのよ、少なくない、しかもひどく頭のいい人間たちがね」

 彼女はお店の人が出してくれた、熱いお茶の入った小さなコップに、口を付けながら、そう言いました。眉をひそめて、熱そうな顔をしながら。

「ねえ、あなたは、そういうこと、しようとしてるの?」

「そういうことって」

「そういうものの、開発」

「私じゃ、無理よ。そんなに頭良くないもの、私。でもね、私は超えてほしいと思ってるのよ、それに。人間という存在を。人間が、一番賢いなんて、そんな既得権益、捨ててもいいと思ってるのよ。私たち、そんなに綺麗な存在ではないもの」

「それ、人間が知能に負けたことになっていない?」

「人類全体レベルでは勝って、一人の人間レベルとしては負けるってことよ」

「複雑」

「そう、複雑」

 アカネはそう言いました。それから私に微笑んで、こう続けました。

「でもね、この世の中にはもう、単純なことなど一つもないのよ」

 私たちはそれから港について、汽船で宮島口まで戻りました。


 広島駅行の路面電車に乗って、行きと同じ駅まで、私たちは揺られて行きました。そこは観光路線でもあり、一方で生活路線でもありました。一目で地元の人なのだと分かる人たちも、沢山乗り合わせていましたし、それに市内まで直通で行けるという点を除けば、広島の市街地までは並行するジェイアールの方がずっと早いのです。

 ゆっくりした旅でした。

 私はそれに乗っていると、逆にいつもの東京の街並みを想起させられました。今、私がこの二両の小さな電車に揺られている時、小田急線はきっと、十両の大きな車体に人を散々に詰め込み、ひどく速く神奈川の西へと走っているのです。私は快速急行の車内を想像しました。高い湿度、伝わる人の生温い熱、吸音されて、それでも小さく響く、誰かのイヤホンからの音漏れ。次の駅へ着いてくれ、と私は思いました。早く、と。全員がきっとそうであるように。神経が擦り減っていくようでした。私はそしていつも通り成城学園前で電車から一度降りて、各駅停車を待つのです。ホームを埋める人ごみ。


 それから私はふと新宿駅のことを思い出しました。

 あの時。新宿三丁目の駅からの地下街を、人ごみにまみれて歩いていたアカネの姿を。

「ねえ、新宿って、よく行ったりしない?」

「新宿? どうだろう、あまりかもしれない」

 彼女は少し考えて、でもあっさりとそう言いました。「どうして?」

「ごめん、ううん、何でもないの」

 つまりは、あれは本当に僅かな確率の偶然だったということなのか、と私は思いました。私たちを結びつけたのは、幸運という存在だった。そう思うと、私は何だか嬉しい気持ちになりました。あるいは、私の見間違い? でも、そんなことはきっとない、と私は思いました。あれは彼女だったのです。誰が何と言おうと。

 私はそんな気持ちでした。

 それから私たちは電停で降りて、その時にアカネは私の手を掴んでくれました。エスコートされているみたいだ、と私は思いました。嬉しかったのです。

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