#28 (Deep) Red
暫く歩くと、電停が見えてきました。曲線を帯びた現代的な電車は、クリーム色の混じった緑色のその身体に、光線を反射させて、静かに動いていました。
行ってみようか、と、そして彼女は思い出したように言いました。
宮島まで、三百円もあれば、行けるから、と。
私たちはそれから電停まで急いで行って、その電車に乗り込みました。息を継ぐアカネを、殆ど同じことをしながら私は見つめて、ふと視線が合って、私たちは笑い合いました。宮島の駅まではすぐでした。平日の、そんなに混んでもいない宮島口の駅前から、私たちは港まで歩いていって、すぐ来たジェイアールの連絡船で、島まで渡って行きました。
夕日の差す島内は、ひどくロマンティックでした。
基本的に、日本の風景には夕日が似合うのです。
それはこの国が今斜陽だからということではなくて。きっと、ずっと昔からそうだったのではないのかと思うのです。高度経済成長期を舞台とした映画が、夕日の中に佇む東京タワーを中心に描かれるように。木材に、あるいは武骨な鉄材に、赤い光が映えるのが、きっとその理由なのでしょう。もしかすると、私たちが何かを憂う気持ちが、他よりずっと強いのは、そのためなのかもしれませんが。
私たちはそれから二人でしゃもじの並ぶ商店街を抜けて、砂の多く差す参道を、じっと歩いて行きました。アカネを先頭として。人の、でもそこまで多くないその海辺には、音が鳴っていました。砂を撫でる音。繰り返す波が、あるいは人の足が。
私は彼女と並んで石垣の上の参道の、一番端に立って、鳥居を見ていました。石垣の上には、石灯籠がいくつも並んでいて。海岸から最も目立つところに、それが並んでいるのが、あるいはこの神社の本質を表しているようで、私は好きでした。灯台として、海上路を守っていた、その痕跡なのでしょうから。
海上には、朱色の大鳥居が堂々と立っていました。アカネはそれがよく見える場所へ立っていて、私は彼女の左後ろから、同じようにそれを眺めていました。薄い色でした。夕日に照らされて、一層薄く見えてしまっているという側面も、きっとあったのでしょうけれど。周りも、鳥居に決して負けないくらい、ひどく赤く輝いていましたから。
控え目な人工の赤に、自然の色がより鮮やかな色を挿す光景。
現代では考えられない景色だ、と私は思いました。きっとそんな設計など、誰も好まないでしょう。究極的に言えば、現代建築は建築家の理性的で奇抜で歴史俯瞰的な構成のもと建てられるオブジェクトであり、だからこそ周りよりはるかに色彩性を持ったものでなければならないのです。街のあちこちに貼られる広告も、建物の外観も、見られることによってその指し示すもののイメージを向上させなければならないのですから、従ってある程度は注目を引くものでなければならないのです。それぞれがバラバラに、主張し合わなければならないのです。
赤く焼けている空と、灰色な海を結ぶ、ほの赤い鳥居。
調和、と私は思いました。しかも、神懸かり的な。
アカネは石灯籠に片手を置きながら、私の横で同じようにそれをじっと見ていました。目を細めて。対岸には、人の住む街が見えました。私たちの来た場所。本州と呼ばれる島の、廿日市と呼ばれる街。まるで神様からの視点だ、と私は思いました。世界を結ぶ門の向こうに、人の世の中が見える。
隣にはアカネがいました。まるで二人、世界を離れて、何か遠くにいるみたい。
「このままで居られたらいいのに」
「そうね、このままで居られたらいいのに」
彼女の顔が、少し寂しそうで。私は、だから彼女に寄り添いました。
彼女の垂れ下げたその右手の、その指をじっと掴んで、それから背中に抱き着いたのです。左手で、彼女の円周をじっと測りながら、右手で、指を絡ませて。
何となくした行為でした。深く考えたことではなかったのです。
だけれど、私はそうした瞬間に、その意味をはっきりと自覚することになりました。それは何というか幸せに襲いかかられたような気持ちになることでした。彼女の身体は、本当に柔らかく、そして暖かくて。対照に、彼女の手は、ひどく確りした手でした。
彼女は少し戸惑っているようでした。もちろんそこは日本でも指折りの観光地で。一番寒い季節の、しかも平日だとしても、いくらかの人の目がありました。混んでいるとまでは言えないにしても。それに、そこは日本でも有数の聖域でした。理由は沢山ありました。彼女がそんな風にしていることについての。私にもそれは理解できました。
けれど、私はもう彼女から離れることが出来なかったのです。
それは何というか本当に幸せなことでした。私の今まで味わってきた全ての苦しみを、一瞬で全て濯げるくらいに。吐きそうだ、と私は思いました。身体が全然それに追いつけていないのです。感情と身体がアンバランスで、私はもう頭がぐるぐるとしていました。もう全てを投げ出してしまいそうで、内臓も、筋肉も、脳も。私を構成する全てが、もう私を辞めようとしていました。辛い、と思いました。もう訳が分からないのです。でも神経は私にそれをずっと伝え続けていました。彼女の弾力と、熱と。それから悲鳴と、歓喜と、全てを。私はそしてもう何もできないくらいにひどく満ち足りた気持ちになっていました。私はそして自分でも突然に彼女の身体にかける力を強めていました。ふと思えば、自分の呼吸が止まっていたのです。私はもう壊れそうなくらいに痛む胸を無理やりに動かして、何とか肺に空気を入れました。統制された呼吸。
私が力を強めたその直後に、アカネは彼女の身体の力をすっと抜きました。それから、私の左手を、自分の左手で、優しくとってくれました。私は左手を彼女のお腹と腕で、包まれるような格好になりました。私の胸はもっとずっと痛みました。もう生きていけないと思うくらいまでに。
彼女の何か戸惑いに似た感情は、消えたように思いました。
彼女は私の腕をほどいて、でも手は繋いだままで、私に微笑んでくれました。
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