#16 Christmas
「クリスマスね」と梨紗は言いました。
「そうね」と私は返しました。「もうすぐ。あと一週間」
「予定、あるの?」
「一応はね」私は何でもないようにそう言いました。「あなたは?」
「私も、もちろん」彼女も何でもないようにそう言いました。
私が、教室内のこんな他愛のない話を覚えているのは、あるいは後悔があるからかもしれません。人は、どちらかと言えば、その場では蔑ろにしてしまった、日常的な出来事の方を悔やむ傾向がありますから。私もその御多分に漏れていないのです、きっと。本当、馬鹿みたいですよね。常に緊張感を持って、冷静に周りの人間関係を認識して、状況を考えて。絶対にできやしないのに、そんなの。
それでも私は後悔せざるを得ないのです。私たちは本当に馬鹿でした。
二十四日をクリスマスイヴだと言うのは、日本人の英語の能力の無さを露呈する風習だと、誰かは言っていたけれど。でも、そんなものきっとみんな分かっていて、それでも使っているに違いないのに。だから、私にはその指摘それ自体が、どうして人は他人の能力を過小評価する癖があるのかという命題を提示しているようにしか思えないのです。
イヴの日、私は彼と出かけていました。
東京でした。東京。とうきょう。トウキョウ。『クリスマスイヴの東京』と言えば、日本人なら誰でも、そこがどんなところなのか、もう大体全てわかるのではないか、と私は推測します。六本木の木々は枝に白い人工の蛍を宿らせ、道はドイツ車やレクサスやそんなものの色たちにずっと染められていました。何だか高級そうに見える黒とシルバー。何だか良い感じの光源たち。包まれる雰囲気は柔らかく、空気は身を冷やす。
つまりはそこは本当に、恋人たちの天国としか形容できない場所なのです。
私達はいつもよりもかなり遅くに待ち合わせて、文明的営みの極致のようなその街を歩いていました。そこには、想像のつかないほどの資本が投下されていて。それが技術やら資源やら人材やらに姿を変えて、結果として黒や白で出来た水平面や垂直壁が出来上がっているのです。街路樹が、直線上に等間隔に開けられた小さな穴からいかにも窮屈に生えているのを見ると、私はそれがいかに徹底されているかを、思い知るようで。
「きれいね」と私は彼に言いました。その言葉は、私に求められたものでした。
「そうだね」と彼は私に返しました。それも求められていることでした。
それから私は彼と手を繋ぎました。見渡す限り、殆ど全ての人たちは皆同じことをしていました。まるで出来の悪いダンススクールみたいだ、と私は思いました。前で手を繋ぐ誰か。はい、やってみて、と講師。ちゃんと確り男女でペアになるのよ。真似する生徒たち。同じ動作。沢山の人々。本当にたくさんの。
今日は、イヴだから。あるいは、見栄もあるのでしょうか。そもそもなぜ人は恋人と手を繋ぐのでしょうか。繋がなければいけないのでしょうか。それが恋人的だから?
堂々巡り。
でもそれは心地のいいことでした。冷たい空気の中で、手だけはとても、とても熱くて。それは胸が苦しくなるくらいのものでした。幸せだ、と私は思いました。私は抱きました。彼の腕を、ぎゅっと。幸せだ、と私は思いました。
太陽が落ちると、辺りは本当に綺麗に彩られました。
木々に宿る電気蛍たち。ビルの窓は光るタイルのよう。本当に滑らかな、アスファルトや建物の外壁たち。磨き上げられたみたいなそのテクスチャが跳ね返し、生み出す、濃淡を持った光の粒たち。
これ以上何を望むものがあるというんだろう、と私は思いました。
ここは東京で。しかも一等地で。私はまだとても若くて。今はクリスマスイヴで。隣には、隣には、そう、恋人がいて。彼とは気が合い、触れていると幸せな気持ちになれる。
これ以上何を望むものがあるんだ。
私たちは新しげで、それからひどく大規模な商業施設の中で夕食を摂りました。イタリアン。品のいい味。ああ、すてきだ、と私は思いました。ほんとうに素敵。私は彼に微笑みを送りました。そうすると彼は私に微笑みを返してくれました。その微笑みは彼が私を大切に扱ってくれていることがわかるような、本当に優しくあるいは儚いもので。そこは本当に、つまりはそういう空間でした。
窓の外では、現代人しか見ることを許されないだろう、ひどく輝く灯りが沢山燈っていて。店の中は同時に、明るく清潔な雰囲気で統一されていました。壁のアナログ的な陰影。恐らくは実用上の意味は全くない、木材で出来た飾り柱。シンプルでクリーンな印象を与える、鞄用のバスケット。
レストランから出て、私は彼と手を繋ぎ、一緒にずっと歩いて行きました。腕すら絡ませて。素敵な日でした。私はそうしていると本当に幸せな気分になれました。息を吐けば白く空が染まり、腕からは人の温度が、人の腕特有の複雑な感触を通じて、熱いくらいに伝わってくるのです。私はその時彼に完全に心を許していました。
私は彼の進む方にただ歩いていました。
「新宿とここと、どっちがいい?」と彼は言いました。
少し揺れのあるその声を聞きながら、私はその意味を掴めずにいました。どっちでもいい、と私は答えました。私は思考を半ば捨てていました。現実感は遠くに行ってしまっていました。全てどうだってよかったのです。私は人の体温に完全に毒されていました。
導かれたのは綺麗なホテルでした。
一瞬、私は本当にひどく怯み、でも怯みながらそれはあるいは当たり前のことなのかもしれないと思い直しました。二人の間に流れる雰囲気は本当にそうでしたし、それに今は聖夜でした。私は確かに少し前まで帰ることやそういう現実的なことを忘れていました。それにもう私たちは十九でした。今までとは、恐らくは、違ってしまっているのです。だから、それはやがては訪れるだろう当然の帰結だったのかもしれません。でも、私にとっては、その忘却は彼へのある種の信頼があったからなのです。
私は考えました。これでいいのだろうか、と私は思いました。『構わないじゃない』、と誰かが言いました。『いい? 人というのは穢れていくものなのよ。生命と、それに関するものに対して、穢れる、あるいは、穢れている、というイメージを持つのが、文明なのだから』本当にそうなのだろうか、と私は考えました。それに、そもそも私は本当に彼のことが好きなのだろうか、と私は思いました。『好きな人と繋がる、というのが、本当に健全な発想なのかしら』、と誰かが言いました。『いい? それは統治機構でしかないのよ。私たちは私たちの感情を出来るだけ安定な形で制御するシステムを社会に組み込んでるだけなの』あるいは、そうかもしれない、と私は納得しました。そうなのかもしれない。
「ねえ、ちょっと待って」
でも私は殆ど無意識的にそう口に出していました。「ほんとうにごめんなさい」
それからはひどく簡単なことでした。親が心配するから、という言葉が、殆どノータイムで口から出て来て。それに続いて次々と紡がれる言葉たちも、それは全く頭で生み出されたものではなかったのですが、説得力を持った一つの論理を形成していました。
彼は私のその言葉を聞いて、ちゃんと場の空気を取り繕ってくれましたが、でもあるいは少し寂しそうにも見えました。本当にごめんなさい、と私はまた繰り返しました。申し訳なさそうな顔すら浮かべながら。私は内心で自分に恐怖感すら抱いていました。まるで悪女みたい、と。悪女。ある種の。あるいはそれはとても理不尽な感情だったかもしれませんが、それでも。
私達は都営線の駅まで殆ど何も言わずに歩き、そして不格好に手を振って別れました。
家に帰ると、時間は随分と遅くになっていました。私は親に適当な理由を言って、それからベッドに横になりました。横を向いて、見慣れた、少しあせたような白い壁を見ていると、今ここにいなかったような可能性が、浮かんでくるように思えて。私は背中にあまり気持の良くない汗を浮かべていました。私はシーツをきゅっと掴みました。それから顔の右半分を、枕に押し付けるように埋めて、脚を折り曲げました。
目を閉じた後の暗闇の中で、私は暫くの間意識を持ったままでいました。
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