#13 Lover(s)

 月曜に私が文学の教室に入った時には、梨紗は既に席に着いていました。私が彼女の隣に完全に腰かけるまで、彼女は下を向いてテキストを流し読んでいたのです。

「おはよう」と彼女は言いました。「一個前の電車に乗れたの」

「おはよう」と私は返しました。「確かに、梨紗、いつもより少し早いね」

 それから彼女はまたテキストに向き直りました。私は荷物を置き終わるとただぼおっと前を見続けていました。授業を準備中の教授は、いつも通り黒板にテキストの文字を機械的に写し続けていました。例え視線が向けられようとも、注意は向けられそうにない行動。教室というのは、不思議なもので。みんなで集まりながらそれぞれに孤独なのです。

 暫くすると、彼女はぱたんと音を立ててテキストを閉じ、何かを確認するみたいに、私を覗き込みました。私は少しのけぞりながら、彼女の薄い弧状の眉を見ていました。

「ねえ、なんで小説って死か性行為の描写があるのがこんなに多いんだと思う?」

「突然どうしたのよ」

「気になったのよ。だって大抵の本ってそうじゃない?」

「たぶん、簡単に主人公の心を描けるから、じゃないかしら」

 大抵の本、という言葉に引っかかりながら、私はそれについて考えを巡らせました。

「それを理由にして、誰かが心の底を吐露するという非現実な行為に読者を馴染ませる」

「でもさ、それってそういう時には人は心を開くものだっていう偏見がないかしら」

「そうなんじゃないの?」

「今はもうそうじゃないと思うの、私。ねえ、私さ、そういうのってもう限界があるんじゃないかと思うの。東京に住む私たちの周りでもう死は頻繁でなくなったし、二十代でも死による喪失を経験していない人もいる。性交も多様化してる。貞操に重きを置く人はもう一切性行為をしないし、一方でそうじゃない人にとっては自由になった。自由に。だから私たちはもうその二つに何か神秘的なイメージを抱くことが難しくなっている」

「そう、なのかな」

「そうよ。きっと。だから、私達には新しい核が必要なのよ。源氏物語から続く、旧来の性と死の物語はもう終わったの。私たちは新しい物語を必要としているのよ」

 彼女はそう言うと私から顔を遠ざけ、私に向かって眉の綺麗に整った笑みを浮かべました。真っ直ぐで、少し勝気な笑顔。

「どう? 私の演説。気に入ってくれた?」

「すごく」

「前のカフェでのあなたの演説の仕返しよ、仕返し」

 彼女は私に向かってそう茶化して笑いかけて。私は彼女に微笑みを浮かべました。


 十二月に入って、私は椎名とまた二人で出かけていました。

 紅葉が見ごろを迎えた頃でした。井の頭恩賜公園は鈍い黄赤に彩られ、落ち葉は池水に揺られていました。私は今のその池を見ながら昔のことを想像していました。木々から落ちた葉たちが、水に染まり、そのまま江戸まで神田川の上を流れていくのです。

「綺麗だ」と彼は言いました。「冷たい美しさがある」

「そう?」と私は返しました。「今ここにあるのは東京的な水と東京的な自然だけじゃない」

 彼は私に向かって少し苦し気な笑みを浮かべて、手すりから離れ、橋の上をゆっくりとまた歩き始めました。私もその後ろを着いて行きました。

 空気が冷たい日でした。息を吸い込むと肺が凍り付いてしまうような。

 私たちは一旦吉祥寺の街に出て昼食を摂り、それからまた公園に帰りました。

 随分と穏やかな日でした。私はあの人を思い出していました。『久しぶりだ』と彼は言いました。『時間を無為に過ごすことが』と。彼はいま何をしているのだろう。そう私は思いました。でも、私には不思議と、彼に対してもう何の未練もありませんでした。よく考えてみると、私は彼に対して未練など一度も抱いたことがないような気すらします。私は彼とあんなに恋人的だったのに。私は内心でため息をつきました。願わくは、いま彼がこんな風に、誰かと無為な時間を過ごしていますように。私はそう思いました。それが私にできる精一杯の誠意ある行動でした。

「もしかして他のところの方がよかった? 申し訳ない」

 私がそんなことをぼんやりと考えていると、椎名は私の顔を覗き込んで、そんな風に言いました。それは切実で。私は彼を半ば蔑ろにしていた自分を少し責めました。

「ううん、違うの。ありがとう。ただぼぉっとしてただけ」

「大丈夫? 今日はやけに静かだから」

「大丈夫、気にしないで。ありがとう。紅葉が見たいなんて言ったの、私なのに。そんな風に思わせて、私こそごめんね」

「いや、違うんだ。ごめん」

 私は、彼の言ったその『違う』という言葉の真意を確かめたくて、促すような微笑みを彼に向けて浮かべました。でも彼はそれから何も言わなくなってしまいました。それから彼は私に少し切なげな微笑を浮かべ、椅子から立ち上がって池の方に向かいました。

 池の淵に立ち止まった彼の横に、私も立ち止まりました。

「胸が痛い」と彼は言いました。

「今日は気温が低いから」と私は返しました。「冷たい空気のせいよ」と。

「そうじゃない」

 彼はそれから私を一瞬で、でも優しく抱きしめました。私は息が詰まるようでした。彼の方が私より長身でしたから、私は彼に文字通り包み込まれていました。彼は何も言いませんでした。私は人の体温と弾力をただ感じていました。コートの生地の少し硬い感触と、でも確りと伝わる肌の柔らかさ。私はただ困惑していて、私の心は渾沌としていました。私は驚いていました。私は怒っていました。そして私は幸せでした。人に包まれていること。それに対する嫌悪感はないこと。優しい包まれ方であること。

 好きだ、と彼は私に囁くように言いました。付き合ってくれないか、と。

 私の思考は頭の中でぐるぐると回っていました。なぜ今彼は私を抱きしめなければならなかったのだろう。私は彼との関係をどうしたいのだろう。そもそも、私は彼のことをどう思っているのだろう。

 それから私は曖昧に頷きました。

 彼をいま傷付ける覚悟が、私にはなかったのです。それに、私は渾沌とした気持ちの基底に、一応は幸せと呼べるだろう何かを持っていました。それでいいのかもしれない。私はそう思いました。抱きついて多幸感を得られる相手と付き合って、何が悪いのでしょう。だって、人は一般にそういう感情のことを『恋』だと呼ぶのではないのでしょうか。

 暫くの間、私は彼に抱きしめられていました。

 それから、私たちはキスを交わしました。柔らかい接吻でした。けれど、それでも私の心は、全く前例と変わりなく、ひどく凪いでいました。

 こうして、私と彼は恋人になりました。私に、少しの違和感を残しながらも。


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