#12 Crown Style

「ねえ、罪滅ぼしに横浜にでも出かけてみましょうか」とアカネは言いました。

 火曜日の一階の食堂でのことでした。彼女は私の隣で揚げの乗ったうどんを食べていました。きつねうどん。私はその横でそばを啜っていました。

「いいの?」と私は幾分いつもよりズレたような声で言いました。「ぜひに」と。

 断る理由などどこにもありませんでした。


 その週の日曜日、私はアカネと待ち合わせて関内まで来ていました。暦はもう師走に差し掛かっていて。駅の目の前のスタジアムは、紅い色の木々たちに彩られていました。

 アカネは待ち合わせの時刻より少し遅れてやってきました。ごめんね、準備に手間取っちゃって、と私に謝りながら。いつも通り彼女は綺麗でした。少し明るい茶色のコートに、スキニーっぽいジーンズを合わせていて、少しだけ覗く、首まで包み込むベージュ色のトップスは、あるいは煽情的ですらありました。

 私たちはそれから横浜のその古くからの市街地をずっと歩きました。日本大通りの広い歩道を横に並び、少し潮っぽい風の吹く、モダンで統一感のある街並みを見ながら。彼女は何も言わずに、私の少しだけ前を、私を導くように淡々と歩いていました。それは非現実的なほど美麗な光景でした。木々とその足元を覆う紅。レンガ調に整えられた歩道。ブラウンに染まった建築。コートに包まれた、揺れるアカネの肩。

「ねえ、こんなところ初めて。すごくきれい」

「きれいでしょ。私も初めて来た時驚いたもの。ああ、横浜ってこういう所なんだ、って」

 彼女は私の声に振り向き、私に微笑みかけました。それは非常に女性的で、あるいは少し母性的ですらある表情でした。私はそれに微笑みを返して、彼女がまた前を向くまでの少しの時間、彼女を見つめていました。

 しばらく歩くと交差点で信号が赤を指していました。私が彼女のぴったり横に立ち止まると、彼女は目の前の茶色いビルを指して、あれが県庁だと私に伝えました。神奈川県庁。堂々とした実質に、ひどく華奢な装飾を纏って、それはある種の品格と、一定の緊張感を、その場全体に確かにもたらしていました。

「帝冠様式」と彼女は言いました。「和洋折衷の建築らしいわ」

「そうなの?」と私は返しました。「どこが日本的なのか、私にはわからないけど」

「私にもわからない。でもほら、屋根に少し軒があるでしょ。たぶんそれよ」

 彼女が笑みを浮かべながら指した、少しだけ外に出っ張っている塔の屋根の先の部分を、私は目を凝らして見ていました。

「目を凝らさないと全然わからないじゃない」

「目を凝らさないとわからないことも、人生には沢山あるということじゃないかしら」

 アカネは不満を漏らす私に、少しいたずらっぽい口調でそう言いました。

「ねえ、建築、詳しいんだね」

「一応そういう学科に居るから。一般教養で取ったのよ、授業を。まあ専攻する気は全くないんだけどね」

 彼女は頬を指で触って、言い訳のようにそう言いました。

それから私たちは、信号が青になって歩き始めてからも、アカネの取って来た一般教養のことについてずっと話していました。彼女はその学部からすればあまり訳の分からない授業を沢山取っていました。平安時代の仏像に関しての授業、日本の戦後処理に関する授業。彼女はすごく楽しそうに、その授業に関する愚痴を冗談交じりに語っていました。それは要点を良く掴んだ話で、彼女の地頭の良さとか、あるいはその授業に関する何らかの愛着が伝わってくるものでした。私はただそれに感嘆していました。そんな話を面白く人に伝えられる女子に、あるいは人にも、あまり出会ったことがありませんでしたから。


 私たちはその後、大通りの突き当りを左に曲がり、県庁を横目に見ながら、海沿いの通りをゆっくりと歩きました。それから、象の鼻公園にある小さな開放的なカフェで紅茶を飲みました。カフェは大部分が綺麗なホワイト・コンクリートで構成されていて。それが芸術的にカットされた部分は、それを守るように、嵌め込みのガラスが覆っていました。

「ねえ、理工の人って、もっと実用的なことにしか興味がないのかと思ってた」

 私は目の前に座る彼女にそう話しかけました。アカネは、紅茶入りのマグカップを手のひらで包みこみ、まるで真冬のように暖をとっていました。

「実用的って、どういうこと?」

「わからないけれど、法則とか、技術とか。そういう有意義で、必要とされること、かな」

「私ね、思うんだけど、有意義なことなんて世の中にはないのよ」

 彼女は紅茶をソーサーに軽く置いて、それから私に軽く微笑みながら言いました。

「例えば、私が将来何か革新的な情報システムとか、運輸システムとかを作ったとして、それに本当に意味はあるのかしら。確かに人はそれによって便利さを享受するかもしれない。でもね、それに振り回される人もきっとそれ以上に多いのよ」

「振り回される?」

「連絡にかけていたコストは、他の分野に振り分けられることになるだけなのよ。人の仕事量は結局全く変わらない。だってこの社会は労働時間を価値に変換しているんだもの」

「よくわからないわ」

「私たちの社会にはこんなにたくさんの人がいて、その人たち全員を養える食料も、衣料も、住居もある。だけど人は過労で死ぬ。つまりはそういうことよ。どれだけ表面的に豊かになっても、本質は何も変わりはしない」

 彼女はそう言って私にさっきと同じように微笑みかけました。

「ごめんね、言いすぎちゃった。つまらない話を」

「そんなことない」と私は返しました。「ねえ、さっきの言葉、まるでマルクスみたい」

「じゃあ私ってマルキストなのかしら」

「でもね、知ってる? マルクスって自分はマルキストじゃないって言ったらしいわ」

「本当に? 不思議な話ね。冗談みたいだわ」

「確かにね。もしかして高校の先生の冗談だったのかも」

 それから私たちは顔を見合わせて微笑み合いました。ゆっくりと紅茶を飲み、それから窓の外の海をぼおっと見つめていました。防波堤に包まれた、そもそも内海の東京湾は、ひどく落ち着いて見えました。私たちの雰囲気もそれに呼応していました。

「知ってる? 幕末にはここが横浜港の一番大きな埠頭だったのよ」

「そうなの?」

「そう。百六十年前はここが日本の最先端だった」

「何だか不思議な気分。今では芝生の地面が広がっているだけなのに」

「見えるものだけに囚われてはいけないのよ、きっと」


 私たちは山下公園の埠頭からみなとみらいまで船に乗って移動し、クイーンズスクエアでパスタを食べました。私たちはそれから大規模な商業施設群をあてもなく歩き、キャッチ―でキュートなファッションだとかキャラクターだとかを見ていました。

「こんなところに来るの久しぶりだわ」

「そうなの?」

「私、基本的に出不精なのよ」

 彼女はそれから作ったような笑顔を浮かべながら言いました。

「それにね、いないのよ私、友達ってやつ。わずかにいるのも地元だけだから」

「地元?」

「そう、広島のね」

「知らなかった。一人暮らしだったの?」

「そうよ、一人暮らし。知らないのは当然よ、言ってないんだもの」

 行ってみたい、そんな言葉を私はすんでのところで飲み込みました。端的に言えば、怖かったのです。彼女は、少なくとも私の視点から見れば、決して人との付き合いが上手くできない人間ではありませんでした。だから、彼女が孤独なのは、恐らくは自分の意志で孤独を選んでいるからに違いないのです。その時の私にとっては、踏み込んで彼女に離れられる恐怖の方が、踏み込んでもし得られる期待値より、はるかに上でした。

 私たちは結局一つだけお揃いのストラップを買って、それから家路に着きました。長く過ごしたという意識は私の中にはあまりありませんでしたが、時計を見ると、実際には私は九時間近く彼女と一緒に居たようでした。

みなとみらい線の電車に座ると、私はかなりの疲労に襲われました。それはまるで、知覚が身体の最新の情報を一瞬で更新したみたいな挙動でした。隣に座ったアカネは、私に「疲れたでしょ」と言ってくれて。私がそれに頷くと、彼女は「すがってもいいよ」と優しく微笑んでくれました。私はそれに甘えて、彼女の肩に少しだけ体重を掛けました。

「懐かしい」と彼女は言いました。理由を聞くと、彼女は逡巡するように少しだけ時間を空けて、「昔の恋人を思い出すから」と言いました。

「恋人?」

「そう、恋人。ひどい別れ方をしたけど、まだ思い出す」

「ひどい別れ方なら、私もしたことあるわ」

「たぶんあなたとは違うと思う。それに、きっとあなたよりずっとひどい」

 それから私は眠りにつきました。彼女は大学の最寄り駅で私を起こしてくれました。そのまま電車に乗っていても良かったのですが、私も彼女と一緒にそこで降りました。地下鉄の乗り換え用の改札口まで、私は彼女にぼおっと着いていきました。

「ありがとう」と私は言いました。「楽しかった。夢みたい」

「どういたしまして。それにありがとう。私も楽しかった」

 彼女はそう言って、駅の構内に消えて行きました。

 私はそれからのことをあまり覚えていません。記憶はひどく不連続で。私はその次の日にベッドの上で起床するまでの自分の行動を思い出すことができないのです。正直に言って、電車に乗ってからのこの記憶さえ、あまり確かではありません。輪郭は限りなく曖昧で。だからそれは疲労感の見せた幻想である気すらします。けれど、私にとってこの出来事は真実に他ならないのです。電車の中で感じたアカネの体温や、声や、私を見守るような表情は、私の根幹で生きているのです。これを思い出すだけで、私は幸せな気分になります。そう、今思えば、きっと私はこの頃からアカネのことが好きだったのです。恋愛的に。強く。もっとも、私がそれを自覚するのは、ずっと先のことになるのだけれど。

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