#4 Break Up

 さて、私はそろそろ梨紗のことを紹介しなければならない気がします。梨紗は私にとって高校の同級生になります。でも私たちは大学に入るまでそんなに仲の良い人同士ではありませんでした。大学に入ってから、同じ高校だということで親しくなったのです。

 でもそういうのって結構普通のことだと私は思います。高校生の頃はまだ一人ひとり個性が残っていますし、コミュニティも強固ですから、同級生に何人かくらいは馬が合わない人がいるのです。でも、大学に入れば、高校というクローズドな空間に一緒に居た任意の人には、それでも共通の文化が芽生えているのだということを認識せざるを得ませんから、高校が同じだっただけで仲良くなりやすくなるのです。つまりは、結局私たちはどんどん自分自身の姿から外れていくのです。周りの行動に合わせ、価値観に染まり、感情を隠して。この世界はそうやって回っているのです。


 梨紗はその時、つまり六月の初め頃、高校から付き合ってきた彼氏とちょうど別れたところでした。私はその人を知っています。端的に言えば、普通の人でした。特にこれと言った欠点もなく、少し優しく、ちょっとだけ包容力のある人。でもそういう人って、わかると思うのだけれど、実際にはかなり希少なのです。実際、傍目から見ても、彼女たちは結構幸せそうでした。彼女たちは互いの誕生日にプレゼントを贈り、記念日を祝い、いかにも普通のカップルらしく振舞っていました。彼女は友達に対して、そういうことを隠しませんでしたから、私たちは学年の女子の殆どとそういう体験を共有し、一通り羨ましがり、あるいは見下し、滑らかに言えば、コンテンツとして消費していました。でもそれもつまりは二年で終わりを迎えることになったようでした。彼女は決してそれについて表立って反応はしませんでした。私はそれを夏頃まで知らなかったくらいですから。でも、今思えば、彼女は六月から髪を染め始めていました。それはとても梨紗に似合っていました。茶色の軽いボブカット。そしてそれは同時に、何となく男性受けしそうなアイコンでした。


 梨紗と私は別のサークルでした。それに学部も違いました。私が文学部で、彼女が経済学部。でもいくつかの授業、つまり私にとっては必修で彼女にとっては一般教養に当たるものを、私たちは共通して取っていました。私たちはそれを隣同士で受けていました。私が授業十分前に文学Ⅰの教室に座ると、彼女は授業五分前に私の横に座るのです。前回の授業、意味わかった?、と彼女は私に言いました。まあまあ、と私は答えました。そう、と彼女はそれに返しました。私も、と。それから彼女は携帯をいじっていました。

 私たちはそれでも貴重な関係でした。大学でサークル以外の人間関係を築くのは非常に難しいからです。特に私たちは私立に通っていましたから、大学受験組は本当にそういう機会がありませんでした。結局はどこまで行っても社会なんて不平等なものなのです。サークルに行かなくなればすぐにキャンパスで孤立してしまう、塵みたいなちっぽけな存在、それが私たちでした。今でもそうですが。だから、何の義務も義理もない関係は、それだからこそ逆に好まれるのです。そしてその必要性は私も梨紗も明白にわかっていました。


 私はそれから毎週月曜日には梨紗と文学の授業を受け、水曜日にはアカネと昼食を摂り、金曜日にはサークルに行きました。空は時々曇り、晴れ、それから雨が降りました。月は消え、半分になり、満ち、半分になり、それからまた消えました、恐らく。

「当たり前じゃない」と梨紗は言いました。

「私たちはそういう世界に生きているのよ」

 私はその時偶然彼女と同じ電車に乗り合わせていました。火曜日のことでした。

「でも私、今日の月の形とか、全く見てないのよ」と私は返しました。

「もしかしたら今日も明日も月は全く同じ形で浮かんでいるかもしれないじゃない」

 彼女はそれにため息をつきました。それは何というか、ハスキーなため息でした。


 私は土曜日にサークルに駆り出されていました。理由はもう忘れてしまいました。でもたぶん、そんなに大きなことではなかった気がします。そんなに大儀なことをしているサークルではなかったし、それにその日も結局殆ど雑談しているようなものでしたから。

 私はそれから帰り道に椎名と二人きりになりました。なんてことの無い、ありふれたくだらない理由からでした。帰り道の方向が同じだったとかそんな理由。東京の東側では、使う線によって、適切な駅すら変わってくるのです。

「二人きりだね」と彼は言いました。

「そうみたいね」と私は返しました。

 会話に困窮することもなければ、寄り道の提案もない、なだらかでストレスフリーな行程でした。初夏の都心はアスファルトの香りと排気ガスの匂いに覆われ、それからビルに反射する陽光は容赦なく肌を突き刺していました。

 椎名はどことなく楽しそうに見えました。夏という季節。彼はきっとそれが好きなタイプなのだろう、と私は考えていました。太陽、空、水。風鈴。透明な音。ガラス、氷、それから海。青。誰もが肌を露出する季節。熱。感情的高揚。

 地下鉄の駅に着くと、空調で整えられた現代的な空気が私たちを迎えました。

 私はため息をつきました。街中に、コンクリートをせっせと巡らせ、高層ビルを林立させ、ヒートポンプを使って、私たちは外気を大切に大切に暖め、留めて。そしてその結果として、私たちはより苛酷になった自然空間を追放され、常に適温に調整された、気味の悪いくらい心地の良い人工的な空間に居場所を求めるのです。

 私はそれから椎名と一緒に地下鉄に乗り、何駅か先で千代田線に乗り換えました。

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