#2 Turn Around

 私は、それから先、サークルの新歓とか、そういう機会に、彼女のことをついでに訊いてみました。そう、アカネを初めて見たのは、大学一年生の、四月の半ばくらいのことでしたから、その頃は私は華の一女でした。だから私の待遇は軒並み割と良かったのです。私が何か聞けば誰かは答えてくれました。


 最初は、ただ単純に場が静かになったから聞いてみただけでした。黒い服で、それからスカートが原色で、そして理工学部の女子学生を知りませんか、と。そう、私の学校は文学部の掲示板の隣が理工学部掲示板でした。不思議なものです。もしかすると大学の上層部は、極北と極北は結びつくみたいな思想を隠し持っているのかもしれません。

 ......それは置いておいて、誰も私のその疑問には満額回答をしてくれませんでした。今思えばそんなもので個人が特定できるわけがないし、それにアカネはどのサークルにも入っていませんでしたから、私と彼女が結びつく可能性など絶望的でした。それでもほとんどの人は回答はしてくれました。基本的に優しい人が多いのでしょう、と思います。それが表面的か、本質的かという問題は置いておいて。

 最後の方には私は食い入るようにその質問をぶつけるようになっていました。あんなに傍に居るのに、つまり、私と彼女は一週間に二度も三度も、掲示板と掲示板の間、その一点何メートルの距離まで接近するのに、彼女の素性も分からなければ能動的に会うこともできないという現実に、私は納得できなくなっていっていました。彼女を見かける度に私はもどかしくなり、彼女の情報が入らない度に私はもどかしくなりました。


 結局、新歓の時期も終わり、それでも私はまだ掲示板の彼女を知れずにいました。二つの選択肢しかないことは、諦めの悪い私にも明白でした。このまま忘れるか、それとも直接声を掛けるか、の二つです。


 私は、最初はこのまま忘れてしまおうと思っていました。縁がないのだろう、と私はその時感じていましたし、それにいざ話す段階になっても、話題がないのではないかと危惧していました。でも、五月の湿った、これからの暑さを予言するような空気の中を、一人颯爽と歩いていく彼女の姿を見てしまうと、私は結局声を掛けざるを得ませんでした。

 私、無意識的に声を出してしまっていました。待って、だか、あの、だか。私その時の自分の言葉すら覚えていません。なんて人間だろう、と私自身も思います。


 彼女は私の言葉に振り向きました。初めて見つめられたその目は、とても深く、そして光を吸い取っていました。どんな光も。天井からあふれ出す蛍光灯の透明で白い光も、掲示板を照らす淡く古っぽいオレンジの光も、私の目を反射した光も。私は何も言えませんでした。彼女は疑問げに顔を傾け、それから私をまるで評価するように淡々と見つめていました。それは地獄のように綺麗な目でした。そして彼女はとても白い肌をしていました。私はそれに軽いファンデーションの影を認めました。でもそれは私よりずっと表面的で、薄く、そして本質を隠さないくらいの量でしかありませんでした。彼女は本当に綺麗なのだと私は実感しました。信じられないくらい、恐ろしくそうなのです。

 そして彼女は聞き間違いだったというように瞬きをし、それから背を向けようとしました。私は喉から息を出しました。これが最後のチャンスだ、と私は思っていました。今思えば別にいくらでもチャンスなどあったと思うのですが、でも人間とっさに適切な判断などできませんし、それにこの機を逃していたら次に声を掛けるもっと良い機会はなかったかもしれませんから、まあ適切な判断だったのかもしれません。すみません、私、秋川と言います、と私は言いました。結構な声が出てしまっていました。自分で思い出して恥ずかしくなります。でも何度も言いますが人間とっさに適切な判断など出来やしないのです。そう考えると、名前を口走ったその時の私を、私は最大の賛辞と最高のもてなしを持って褒め称えなければならないのかもしれません。

 彼女は一瞬、凍った場の空気に呼応するように、虚を突かれた表情を浮かべ、その後は口に手を当てて小さく声を出して笑いました。笑わないでくれよ、と私はシャツにへばりついた冷や汗を感じながら思いました。でも今思うとそんなもの笑ってしまって当然な気がします。突然見知らぬ女の子に呼び止められたと思ったら、その子が急に大声で自分の名前を言い始めるんですから。

 ......いや、でも私、もしそんなことされたら笑うというより恐怖を感じるかもしれません。やはりアカネは大分変った人なんでしょう。あるいはその時の私がよっぽどコメディ・チックだったのかもしれません。何となく、後者なような気がします。ああ、恥ずかしい、本当に。


 それはともかくとして、こうして私とアカネは知り合いました。五月の真ん中の、晴れた、陽気でうららな日でした。その時私はまだ大学の一年生で、東京都内から横浜の郊外まで、気だるげに電車に乗っていました。アカネは数式を積分し、私はロシア語の文法に苦しんでいました。

 そう、思えば不思議で、考えれば至極当たり前のことなのですが、私たちはその時、二年後の今のことなどひとかけらも知らず、でもそれを順調に構成しようとしていました。

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