多数枚舌
時は何故か遡り。
夏の暑い日のこと。
「……」
スーツに通した腕の先で、拳を握りしめる。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
それが暑さのせいだけではないことは、分かっていた。
「おやー丹下さん!」
背後からの聞き慣れすぎた声に、一瞬心臓が跳ね上がった。
「
「あー、これはですね……」
全身から雫を滴らせながら、目井さんは語りだした。
「目井さーん! こんにちはー!」
夏休みも終盤を迎えた頃。
遊びに行った帰り道で、通りすがりの目井クリニックの前で出くわした目井さんに挨拶をした
「おお、お2人! ちょうどいいところに!」
「すいません。あなたの言う『ちょうどいいところ』は嫌な予感しかしないので帰らせてください」
「ちょっと試してほしいものがあるんです! ほら!」
水住の予感をフル無視して2人を病院の入口まで押して行く目井さん。
自動ドアの上には、何やら細長い黒い機械が取り付けられていた。
「これ何ですか?」
「ミストを出す機械です。作ってみたんです。きっと涼しくなると思うので、是非体験してみてください!」
「わー、すごい! あの町中でもよく出てる霧みたいなやつですよね!
みなっち、やってもらおうよ!」
「いやだから、嫌な予感しかしないって」
「ではでは、スイッチオーン!」
目井さんがスイッチを押した。
途端、3人の頭上に、ミストどころか大量の水が降り注いだ。
「なんか水分の量の調整を間違えていたらしくてですね。
それで、水住さん達に『確かに涼しくなったけど、これはミストじゃない』とお説教されてしまいまして」
「は、はあ」
「映画の『ミスト』って、結末を知った上で観ても落ち込みますよね。EDの曲が悲鳴みたいなのが余計にもう」
「は、はあ」
「ところで、丹下さん」
「はい?」
「ここで何をされてるんですか?」
もう一度、心臓が跳ね上がった。
「……ここ、知り合いのお家でして。遊びに来たんですよ」
嘘をついたんだ。背筋がゾワゾワした。
口の中もゾワゾワする。
「スーツで、ですか?」
「就活の帰りなもので」
また嘘をついた。
さっきよりもさらに、口の中が気持ち悪い。
「そうなんですね。では、私はこれで。就活、応援してますよ!」
目井さんは、ようやく背を向けて去って行った。
「……」
丹下は深くため息をついてから、意を決して一軒家のインターホンを押した。
そんなつもりはなかった。
こんなことになるとは思わなかった。
ただ、バイトしていた店が潰れてしまって。
これからどうやって収入を得ようかと悩んでいた時に、SNSであの投稿を見つけて。
高収入のバイトを紹介してくれると言う相手に言われるがままに、特殊なメッセージアプリをダウンロードしたり、自分の個人情報や家族のことを教えたりした。
……本当は、この時点で自分がまずいことをしているかもしれないのには気付いていた。
でも、目先の生活費が欲しくて。違和感には目をつぶることにしてしまった。
その違和感は正しくて。
命じられた仕事は、高齢者からキャッシュカードを騙し取るというものだった。
断る前に、「断ったら、お前の個人情報バラまいたり、お前の家族に危害を加える」と脅された。
だから、あの一人暮らしの高齢者の家を訪れるしかなかった。
あらかじめ「キャッシュカードが不正利用された可能性がある」という嘘を信じ込まされている高齢者に「銀行の者です」と身分を偽って、キャッシュカードを受け取った。
「これで安心です。ありがとうございます」
あの高齢者の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
バッグにあのキャッシュカードが入っている。まるで爆弾を運んでいるような気分だった。
小さい頃、閻魔大王が嘘をついた人の舌を抜く絵を絵本で見た。
痛そうで、とても怖くて、自分も嘘をつくまいと決心した。
何か悪いことや、ミスをしてしまった時は、隠さずに正直に言うように心掛けた。
正直に話すと、確かに怒られることもあった。
でも、事態が悪化する前にやり直すことができた。怒られるどころか「早く教えてくれてありがとう」と言われることもあった。
だから、この生き方で良いのだと思えていた。
なのに今、とんでもない大嘘をついてしまった。自分の利益のために……
口の中が気色悪い。さっき嘘をついた舌が入っているからだ。
自分の意志とは関係なく蠢いているような気がする。ヌルヌルと、まるで別の生き物のようだ。口の中がいっぱいで、息苦しいような感覚もある。
この後は、奪ったキャッシュカードを、指定された駅のコインロッカーに入れるようにと指示されている。
でも……
一旦自宅に戻った。
机に置いたカードとしばらくにらめっこをしてから、丹下は決心した。
やっぱり、やめよう。このままキャッシュカードを警察に持って行って自首しよう。
自分は何かの罪には問われる。それでもこれ以上あの高齢者に被害を与えなくて済む。あの犯罪集団について自分が知っていることはわずかだが、それでも情報提供をすることで何らかのダメージを与えられるだろう。
そうだ。それがいい。そうしよう。
ああ、それにしても、嘘をついてしまった。
閻魔様に舌を抜かれてしまう。
ああ、舌、口の中、苦しい、気持ち悪い…… 口の中だけじゃない。全身もムズムズして……
目井さんは、病院にかかってきた電話を取っていた。
「もしもし?」
「目、目井さん……」
「その声は、丹下さんですか?」
「は、はい……」
丹下の声は、どこか苦しそうに聞こえた。
喉に何かが詰まっているような、首を絞められているような声。
「どうしました?」
「い、今すぐ、来てくだ……
あー、ごめんなさい! なんでもないです!」
唐突に、声が明るくなった。
「あの?」
「ごーめんなさいねー。なんでもないんです、あはは!
気にしないでください! お忙しい中ごめんなさい! じゃっ!」
ツーツーツー
電話は切れた。
明るい声を一瞬信じそうになった目井さんだったが、騙されなかった。
「ごめんなさい」の「い」と、「じゃっ」の「じ」が重なって聞こえたから。
まるで、全く同じ声の2人の人物が、そこだけ同時に喋ったかのように。
「丹下さん!」
丹下のアパートに駆けつけた目井さん。
インターホンを押してもノックをしても応答がなかったことから、ドアを蹴破って突入した。
「ああっ! やっぱり……」
部屋の中央にいた丹下の様子に、目井さんは声を上げた。
微動だにせず床に転がる丹下。目が虚ろで、
その全身のありとあらゆる箇所から、半月状の薄いピンク色の肉が無数に生えていた。全開になった丹下の口にも、同じ肉がぎっしりと詰め込まれたように生えていた。
その一枚一枚が、意志を持っているかのように、ピラピラウネウネと動くさまは、まるでイソギンチャクの触手のようだった。
「大丈夫だから! 大丈夫だから! こいつのこと助けないで! 悪い奴なの! あはは!」
電話で目井さんを騙そうとした、丹下のやたらと明るい声。それが無数の薄い肉…… 丹下の全身に生えた舌から、発されていた。
「ごめんなさいね丹下さん…… 痛いですよ」
目井さんはピンセットを取り出して、丹下の右頬に生えた舌を一枚挟んだ。
「こいつ悪い奴! 助けないで!」
挟まれた舌はそう叫んだ。
「……信じません」
目井さんは舌を強く引っ張った。微量の出血を伴って、嘘をついた肉は抜けた。
「ごめんなさいね。あの時、私が気付いていれば……」
生えた舌を全て抜き終わった目井さんは、出血の処置などを行うために病院に連れてきた丹下に頭を下げていた。
「……」
「あの症状は、嘘をついたことに対して強い罪悪感を持った人に現れるものなんです。
嘘つきな人のことを『二枚舌』と言ったりしますが、あの言葉はあの症状から来たものなんです。
罪悪感が暴走して、体の持ち主を死に追いやるために嘘をつくんです。
生えた舌を抜けば助かるんですが…… ただ一度この症状が出た人は、その後の人生で二度と嘘がつけなくなってしまうんです」
申し訳なさそうな目井さん。しかし、返ってきた丹下の声は明るかった。
「良かった。もう嘘をつかなくていいんですね……」
「……」
「良くなったら、すぐに警察に行きます。それで、全部正直に話します。あのお年寄りにも謝罪します。
逮捕されるだろうし、今後の人生は大変なものになると思います。
でも、自分がしたことなので……
何より、もう嘘をつけないなら、それがいいです」
ベッドに横になったままそう言う丹下は、どこか安堵しているように見えた。
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