日常は突如終わり、突如再開する

 とろみのついた液体で構成された水たまり。そこから緩慢に身を起こすのにも似た感覚で、目井めいさんは目を覚ました。

 カーテンを透かして入ってきた朝日がクリーム色の天井を照らしている。ここは体力が戻るまで入院することになった隣町の病院であることを、とろとろと思い出す。


 起床したてなのに、胸に微細な何かが詰まっているような違和感があった。

 その違和感が、「寂しさ」と呼ばれる類のものであることくらいは知っていた。

 きっとそんな気分にさせられる夢を見ていたのだろう。けれど、忘れてしまった。内容が思い出せない。

 そのことが、何より寂しかった。


 なんとはなしにカーテンを開いてみた。2階の病室の窓からは、中庭に植えられた散り始めの、されどやはり美しい桜達がよく見えた。

 何も言わずとも自分の中に存在しているあの人物も、同じ光景を見てくれているといいな、と思った。




 深夜。喉の渇きを覚えて自販機でジュースを買い、病室に戻る途中だった患者様はふと足を止めた。

 向こうから誰かがやってくるようだった。

(夜勤の看護師さんか誰かかな? 挨拶しないと)

 そう思いこちらにやってくる存在に目を凝らしたが、何か変だ。異様な速度で左右に揺れまくる動作もさることながら、その容姿。

 顔が、見えない。目も鼻も口も、どこにあるのか分からない。そもそも顔と呼べるパーツがあるのかすら定かではない。顔だけでなく、どこが腕で脚で胴体なのかさえ分からない。言うなれば、全身がのっぺらぼう。

 窓から注がれる僅かな月光を跳ね返しながら、薄暗い廊下に映える無機質な白。細長い山型に盛り上がった、やたらと背の高い何か。全身にあるべき凹凸のない、一枚の布のようなそれが、くねくねと蠢きながらも確実にこちらに近づいてくる。

 ひたひた、ひたひた、確実に。布のような身体からだの端をひらひら、ひらひら、靡かせて。くねくね、くねくねと不規則に全身をくねらせて。

 顔面蒼白になった患者様は、こわばる全身の筋肉を無理やり作動させてその場から逃げ去った。


(あれ、どなたかいらっしゃったんですかね?)

 バタバタという足音のした方に目を向けた目井さん。

(私みたいに目が覚めてしまって、少し歩いていたんでしょうかね? いやー、それにしてもこちらの病院のシーツは触り心地がワンダフルですね。つやつやと滑らかで、肌を優しく撫でてくれているよう。それでいながらぬくもりもあり、おかげさまでいつも安眠です。

 あまりにエクセレントなので中毒になってしまって、ベッドから離れる時もこうして被ったままじゃないとダメになってしまいましたよ。退院前にどこのメーカーさんのか訊いておかないとですね)

 頭から真っ白なシーツを被ってくねくね彷徨きながら、目井さんはそう決めた。



 

 翌日の深夜。別の患者様は泊まりに来てくれた友人と廊下を歩いていた。お互い眠れなかったので、院内を散歩してきた帰りだった。

「おかげでちょっと眠くなったよ」


「こっちも。じゃあ、戻ったらすぐ寝ちゃおっか」

 そんな会話をしながら、病室に辿り着いた。友人に電気をつけてもらい、早速ベッドに横になろうとした患者様。が、もう少しで掛け布団に手が届く、というところでもう一方の手を友人に強く掴まれた。

 不審に思い、友人の顔を見返る。心なしか青く見えた。

「あ、あのさ、ジュース買いに行かない?」


「え? 今はいいよ」

 友人は激しく目を泳がせた。

「いや、行こう! 行こうよ!」

 普段の友人からは信じられない力で強引に部屋から引きずり出される。抵抗する間もなく、友人は走り出した。手をがっしりとつないだまま、無言で廊下を通り、階段を駆け下りていく。

 友人の剣幕に恐怖を感じ、何も言えないままされるがままに引きずられ続けた患者様。1階の受付前でようやく足を止めた友人に、息を整えながら尋ねた。

「はあ、はあ…… どうしたの?」


「うん……」

 友人も息を整えると、患者様に耳打ちをした。

「ベッドの下にね、ナイフを持ってニヤニヤしてる人がいたの」


(あれ、このお部屋の方達帰ってきたかと思ったらすぐ出てっちゃいましたね。どうしたんでしょう)

 疑問を抱きつつベッド下から這い出す目井さん。

(お見舞いに頂いた「これ」を持ったまま、昨日に引き続いてシーツ被ったまま廊下をくねくね歩いてたら、手が滑ってこのお部屋のベッドの下に投げ飛ばしてしまったので回収していたんですよね。

 「これ」、ずっと食べたいと思っていたのであまりにも嬉しくて。退院したら最初の食事にしたいものです)

 一体どんな成分なのか、鮮やかな黄色ではなく、よく研がれたナイフのようなギラギラの銀色に輝くパスタの入った袋に目をやり、再び顔を綻ばせる目井さんであった。




 さらに翌日の深夜。さらに別の患者様はトイレで用を足していた。が、し終わったところではじめてトイレットペーパーがないことに気が付いた。

 どうしよう? と思っていたら、声がした。

「……赤い紙がいいか青い紙がいいか」

 押し殺したような忍び声。

(え?)

 気のせいだ、だってそんな訳が…… と思おうとしたのに、今度は先程よりもはっきりと聞こえた。

「赤い紙がいいか青い紙がいいか」

 ごくり、と患者様は生唾を飲み下した。

 これは、子どもの頃によく聞いた、けれど所詮作り話だと一笑に付していた、アレだろうか。

 「赤い紙」と答えると血塗れにされて殺されて、「青い紙」と答えると全身の血液を抜かれて真っ青にされて殺されるというあの……


「赤い紙がいいか青い紙がいいか」

 血を抜かれるまでもなく、全身から血の気が引くのを感じ取れた。

 病衣のポケットに入れていたティッシュで拭き取り、水を流すボタンを押すと同時に個室から飛び出した。手を洗う余裕もなく、一目散に病室へと駆け戻った。


「隣の個室の方、随分急いで出ていかれたようですがどうしたんでしょうかね?」

 個室から、スマホ片手に通話しながら出てきた目井さん。

「ともかくそんなわけで、退院したら心機一転イメチェンでもしようかと思ってまして。まずは髪を染めるのもいいんじゃないかと思うんですよね。赤い髪と青い髪、どっちが似合うと思います?」


「目井さんはどっちもいけると思うッス! けど、染めなくても今のままで素敵だと思うんスけどね」

 正直な見解を述べる長池ながいけだった。




「なあ、なんでここ最近患者様からの怪奇現象報告が半端なく相次いでるんだ?」


「分からん。こっちが訊きたい……」

 堂喪どうも甲藻こうも病院(院長同士が揉めて、名前が「甲藻・堂喪病院」になったり戻ったりを頻繁に繰り返しているため、患者様達はよく混乱する)の院長二人は首を傾げるばかりだった。

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