Grim Reaper end

 住宅街にて、数m先を脇目も振らず駆けていたシャンが角を曲がるのを目にし、名付なつきは口の端を吊り上げた。

 バカめ。ここから最も近い病院に行くにはその角ではなく、次の角を曲がらなければならない。そこは行き止まりだ。追い詰めた。

 勝利を確信し、後を追って角を曲がった。けれど、そこにフラスコを手にした血糊まみれの死にぞこないの姿はなかった。ただレンガ造りの高い壁が、無表情に立ちはだかっているのみ。


(どこに消えたデス!?)

 慌てて前後左右を見回し、ややあってから目井めいさんの身長でも届かないほどの高い壁の上に佇む二つの影に気が付いた。


 一つは、しゃがみ込むような体勢で、落下しないようおっかなびっくり両手で壁の上辺を掴んでいる、先程薬品を盗んだ人物。

 もう一つは、片手に薬品入りのフラスコを掲げてこちらを見下ろす、ちょうどいい大きさのものがなかったのかオーバーサイズの受刑者服を着た、子どものように小柄で、首に包帯を巻き付けた、ここにいるはずのない……


津々羅つづらさん!?」

 思考よりも先にその名が口を付いて出た。


「何故デス…… そっ、それより! 降りるデス、返すデス!」


「嫌だね」

 見上げて喚く名付に冷酷とさえ言える態度を取りながら、津々羅は確かにこの人は目井さんではないな、と確信していた。


 パイパー(Piper)が噂好きな受刑者から入手したという情報を元に、目井さんが潜んでいると思われる空き家へ向かう途中だった。

 津々羅ほどの凶悪大量殺人犯が脱獄したとあっては、確実に全国がパニックに陥ってしまう。けれどパイパーは、「刑務官さん達は私と、あと仲のいい受刑者達とでごまかすネ。みんないい子達だから協力してくれるネ。こういう嘘は嫌いじゃないネ。だから、行ってくればいいネ」と背中を押してくれた。

 上からはつい先程「今の目井さんは目井さんじゃないんです」という謎掛けのような情報を聞いたばかりだ。状況はほぼ何も把握していない。

 けれど、不義理な自分にさえあの笑った目を向けてくれた目井さんが、こんな温度のない目をするはずはない。




「……ねえ、津々羅さん。名付、殺したくて殺したくてたまらないんデス。この気持ち、あなた様なら分かってくれるデショウ?」

 やがて作戦を変更することにしたのか、名付は突如ガラッと口調を変えた。そんなことで津々羅さんを懐柔できるとでも…… と上は怒りさえ覚えた。だが。


「うん、分かるよ」

 いともあっさりと、津々羅は是認した。

(津々羅さん!?)

 反射的に目を向けた隣に立つ津々羅の顔には、明らかな憤激が浮かんでいた。かつて自分が殺した人々のことを想起したように。

「あいつらは人間を苦しめる。本当なら誰もがやすらぎを覚え、平和にくつろげるはずの家庭ばしょを一方的で残虐な戦場に変える。

 それだけじゃない。被害者は一生心に残る傷を背負って生きなければならなくなる。諦めなくていいことを諦めなければならなくなる。

 ……最悪なのが、被害者自身に幸せな家庭を築けなくすることだ。家族に愛された経験がなく、どうしていいかわからない。だからかつて憎んだはずの毒家族どくかぞくにされたことを家族に対してしてしまい、そして新たな被害者が生まれる。

 許してはならないんだ。連中はこの世に一人でも存在してはいけないんだ。だから、私の行為は悪じゃない」

 迷いのない言い切り方だった。こんなにも禍々しいオーラを纏う人間を、上は初めて見た。


 真相が明るみになってから一年近く経つが、上はどこかで信じきれていなかった。会社の優しい先輩である津々羅と、あの恐ろしい殺人鬼とを結びつけることがどうしてもできなかった。

 けれど、やはり事実だったのだとやっと実感が湧いた。

(津々羅さん……)

 酷い寒気がする。何も言葉にならない。目を強く閉じ、頭を垂れた。


「そうデスそうデス。名付、それと同じで殺さなきゃいけないデス。返してくれるデスね?」

 名付の心を表現する目井さんの弾んだ声。聞きたくないのに、聴覚は勝手にそれを拾った。




「同じじゃない」

 同じ聴力が次に捉えたのは、先程と寸分たがわぬ堂々たる声だった。


「……はい?」


「私には今も腹の中で渦巻き続けるとてつもない憎悪がある。でも、あなたにはそれを感じない。はっきり言って…… 何もない。恨みも憎しみもないのに、誰かを殺そうとしてる。そんなことを実行しようとするっていうのが、私には分からない。

 それにね、殺してもそこでおしまいじゃないの。あいつらを殺したことで、確かに被害者達はそれ以上あいつらに傷つけられることはなくなった。

 だけど別の、傷つかなくていいことで傷つけてしまった。酷いことをされた記憶が消えるわけでも、愛された記憶を得られるわけでもなかった。世間も徒に騒がせ、怖がらせてしまった。

 何より、目井さんを苦しめた。私の正体を知ってからもあの笑った目で接してはくれるけど、きっと心の中ではいらない自責の念を抱えてる。毒家族殺しを止められなかったって、ずっと後悔してる。私は人生の恩人に、そんな仕打ちをしたんだ。悔やんでも悔やみきれない。私もまた、許されてはならない悪なんだ。

 殺しじゃない、別の道を探せば良かった。今ではそう思ってる。あまりにも遅すぎて取り返しはつかないけれど。

 で、あなたは本当に後悔しないって自信、あるの? 誰を殺そうとしてるか知らないけど、誰であれ殺せば全て終わるなんてことはないよ? 必ずそこから始まってしまうんだ。別の悲劇が」

 いつしか、あの熱気にも似た怨恨は薄れていた。


 世に言われるように、津々羅がとんでもない犯罪者であるのは間違いではないと理解した。

 一方で、「信じられない」という感想を抱くことも間違いではなかったのだと、上は思えた。


「あのデスね……」

 フラスコを手にした相手を睨みあげる名付に、今度は上が口を開いた。

「色々なこと、してくれましたよね」


「あ?」

 上は、しっかりと名付を見据えていた。

「生きる場所があのヤバい会社だけじゃないことも、世の中には面白いものがたくさんあることも、あなたは教えてくれましたよね。逃げてもいいって、教えてくれましたよね」

 ……こいつ、何言ってるデス? と内心戸惑う名付に構わず、上は流れるように訴えかけ続けた。

「あなたに『邪魔』してもらえなかったら、たきさん達や素敵なホラー映画に出会うことも、自分で撮影する楽しみを知ることもできなかった。最初はうざいと思ってしまっていました。でも今は、アレを『邪魔』してくれたこと、心から感謝してるんです。あなたのおかげで幸せなんです」

 縋るように、懇願するように、けれどそこに恐怖の色は皆無で。むしろ愛おしささえ感じさせていて。名付の瞳ではなく、それよりもずっと奥にいる誰かに向けて語りかけている。


 そうか、こいつ、名付に向かって話してるんじゃない。

 名付が気付いたのと、上が次の言葉を放ったのは同時だった。

「だから、あなたが虐げられているのだとしたら私がそれを『邪魔』します。無力なので大したことは何もできません。それでも、できることをします。何度でも『邪魔』します。させてください。

 ――目井さん!」

 絶望的な状態の患者様を前にした目井さんによく似ている、と思った。


 地震かと思ったが、違った。一度だけ大きく揺らいだのは、自分の、否、目井さんの脳だった。

 遅れて、混紡で何度も殴打されるような激痛がやってきた。

「あっ…… う……」

 目井さんの両手で、目井さんの頭を抱え込む。

 痛い。痛い。痛い。

 ダメだ、呑まれる。

 その場にしゃがみこんだところで、名付の意識は途切れた。

 



 誰にも言ったことはなかったが、名付は、密かに目井さんを尊敬していた。

 「死神」が見えているわけでもないのに、どんなに重症を負った患者様でも決して見捨てず、命懸けで助けようとする。

 自分もああなりたいと思った。「死神」が足元に現れてしまった人も、投げ出さずに救える医者になりたいと……




「名付さん」

 自身を呼ぶ耳障りな声。

 見ずとも誰かは分かったが、緩慢な動作で目を開けてみた。

 何もない、自分達以外には誰もいない、けれどどこであるかは容易に理解できる暗闇の中、ボロボロの白衣を着た長身が見えた。

「ドクトル目井」

 返す声は、懐かしい自分自身のものだった。


「申し訳ありません」

 陳謝の面持ちで、けれど目だけは優しく微笑んでいて。

「……謝る必要ないデス。あんたはただ、名付を理解できなかっただけデスから」


「……」


「無駄デス、かえってイライラするデス」


「……」


「一応聞くデス、なんでそこまでして死にたがらないデス? 長い時が経てばいずれ必ず全て風化するデスよ? 喜びも努力も苦しみも、どうせ全部無駄デスよ? だったらここでみんなで一斉に平等に消えちゃえば楽だと思うデス」


「そうかもしれませんね。

 ですが、ほんの一時ひととき、小さな幸福が存在するだけでもいけませんか? いずれは無くなるとしても、他には苦しいことばかりだったとしても、生きてさえいればほんの少しだけ楽しいことに出会えるかもしれないんです。だから、私もそうですし、他の全ての命も少しでも長く生きていてほしいと思うんです」


「たった一つの幸福を待つために?」


「はい」


「非効率デス」


「だとしても、せっかく生まれてきたんです。一回くらいは生まれてきて良かったと思いたいじゃないですか。

 それに、本当に命に意味がないのならば、誰も生まれてきていないでしょうし、医者が存在するはずもないと思うんです。いつか終わるのを避けられないとしても、ただ自分なりに『楽しかった』と思えたのなら、それでいいと思うんです」


 敵と表現してもいいはずの目井さんと自分がこうして冷静に会話できていることを、ふと不思議に感じた。

「そんなに死にたくないデスか?」


「はい」


「そこまで名付を受け入れたくないと?」


「これだけはお伝えします。


 ……そうか、んデスね。あなた様のようには、もう決してなれないんデスね。どんなに名付に脳内で暴言を吐かれても、「二度と名付さんを『悪者』にしたくない」なんて理由で誰にも相談せず抱え込んだ性格の持ち主である、あなた様のようには。

 でも、名付があなた様のようになれないのはあなた様のせいではない。諦めた名付自身の責任。だから、今こんなにも落胆しているのはおかしいデス……




「もういいデス」

 ふううーっ、と真っ暗闇の頭上を見上げ、長い息を吐いて、宣言した。

「殺すのは、もう止めるデス。その代わり、違うことを諦めないことにしたデス」


「違うこと、ですか?」


「あんたがただ一回の幸福を待って生き続けるというのなら、名付はただ一回のあんたの死を、あんたの中で待つデス。

 まさか忘れてはいないデスよね、あんた自身もいつか死ぬってこと。命を諦めず、身骨砕いてでも助けようとするあんたも、いつか死ぬ。

 なら、名付はその瞬間を感じたい。命が大切でたまらないあんたが、命を失う瞬刻。生に希望を持ち続けたあんたが、全ての希望を失い、ただの絶望に落ちるまさにその時。

 そんなの、この世のどんなとも比較のしようがないほど素晴らしいに決まってるデス。あんたが死ぬ。ああ、想像するだけで鳥肌が立ってくる。

 誰よりも近くでそれを観賞できるのなら、蘇生させられた苦痛に耐える意味もあるってもんデス。きっとそれが、名付の最高の幸福になるデス。

 もちろん早い方がいいデスが、いつまでも待つデスよ。何せ、いつまでも共にいるデスから」

 話を聞いているのかいないのか、表情一つ変えず直立不動の目井さん。

 一旦言葉を切ってから、名付はとどめを刺した。

「たとえ言葉が聞こえなくても、姿が見えなくても、名付は決してあんたから離れない。何十年でも何百年でも、あるいはひょっとしたら明日か明後日か、はたまた今からほんの一分後か。ともかく、その時まで。あんたが忘れても、名付は忘れないよ。

 その時こそ名付とあんたで…… 一緒に死ぬんだ」


 沈黙は、生まれて刹那に破られた。

「そうなんですね」

 大きく頷いた目井さん。

「それでは、もうどなたのことも殺さないのですね。ご自身も含めて」

 名付が感情のない目を見開いたのをどう受け取ったのか、目井さんは目だけでなく顔全体で笑った。

「良かったです」


 ここまで通じないか。

 呆れ半分、けれど別の感情半分に、名付は最後の言葉を告げた。

「じゃあ、その時までさようなら。せいぜい無意味に楽しんで」


 ぷしゅり。

 あっけない音を立てて、名付は跡形もなく闇に溶けた。

「名付さん? 名付さん。名付さん……」

 応えはなかった。




 目井さんは目を開けた。4つの顔と8つの目に覗き込まれていた。

「お……」

 思わずと言った感じで上が漏らした小声が耳に入った。

 背中や後頭部に感じる硬さ。どうやら道路に仰臥位ぎょうがいになっているらしい。

 千古も杓子も上も津々羅も、少しばかり警戒するような顔色。全員怪我などはなさそうだ。

 目井さんは上半身を起こした。少し後ずさった面々を見回し……


 申し訳無さそうに、けれど、笑った目で。

「お騒がせしました。目井さんです」




「重ね重ね申し訳ありません。記憶はほぼないんですが、この様子だとまともに食べてなかったんでしょうね。力が入らなくて」

 千古、杓子、上、津々羅の四人に支えられてどうにか歩きながら謝る目井さんに、上が「さっきから謝りすぎですよ」と言った。

「目井さんが戻ってきてくれた、あの怪しい液体も即処分してくれた、完璧じゃないですか」


「ありがとうございます。ですがご迷惑をおかけした方々には謝罪に行かなければ…… と言いますか千古さん! ご無事だったんですね!」


「いや今更か。隠しても仕方がないから言うが、確かに真っ先に奴のターゲットにされたぞ。つなしのおかげで助かったが、代わりに奴が重症だ」


「あの、」


「だから謝るな。貴様ではないのだから」


「千古氏」


「このタイミングで突然何だ杓子」


「目井氏を一緒に助けさせてくれて、ありがとうである」


「……本当にどんなタイミングだ」

 一部始終のやり取りを、津々羅はくすくす笑いながら眺めていた。

 



「目井様! 目井様でございます!」

 杓子が千古と共に病院を抜け出してしまったと連絡を受け、万一のことを考えて目井クリニックの中庭に集合した隣町の医者達。そんな中、4人に支えられながらやってくる目井さんをいち早く見つけた佐豊さほうが声を張り上げた。


「うわっ、マジだ!? 目井さーん! 半端なく心配かけやがって!」


「おぬしフラフラじゃないか!」


「ハあああああー、杓子サンと千古サンもいらっしゃる。良かったあああああー……」


「大丈夫? 怪我はないのー?」


 一気に駆け寄ってきた隣町の医者達と交代する形で、目井さんから離れる4人。




「あっ、もね~」

 一旦は他の医者達と目井さんを支えた甘井あまいはけれど、杓子に気付き向き直った。

「頑張ったね~」


「……ああ」

 杓子は、久しぶりに微笑んだ。




 既に21時頃であるにも関わらず、中庭には医者達の騒ぐ声を聞きつけた近所の住人達も何人か集まっていた。

「ほら長池ながいけさん、目井さん帰ってきましたよ」

 皆を驚かせないよう大急ぎで血糊の大部分を拭き取ってから、会社の先輩に話しかける上。

「目井さん…… 本当に、本当に……」

 とぎれとぎれに呟く長池は、無数の髪の先端から溢れ出す透明な液体により全身ぐしょ濡れになっていた。

「あなたのせいじゃなかったんですよ、長池さん」


「……上ちゃん、ありがとうッス」


「私は何もできなかったんですけどね…… あっ、たきさん!」

 別の先輩の姿を見つけ、声をかけると、滝は労るように言葉を返した。

「上さん、よく一緒に帰ってきてくれたね」

 

「私は本当に何もしてないんです…… ええ。でも、目井さん戻ってきましたよ。目井さんは目井さんのままで、無事に……

 やったーーーーーーー!」

 今になって歓喜が爆発した。

「シャ、上さん?」


「目井さん生きてた! 良かった、本当に良かった! 良かったよー!」

 滝を全身全霊で抱きしめたまま、上は子どものように何度も飛び跳ね続けた。




 千古は人の間をすり抜け、院内へと駆けた。廊下を急ぎ、十の病室の扉をガラリと音を立てて開いた。

「千古さん?」

 ベッドに横たわり、こちらを向いた十の目には、包帯ではなくいつものサングラスが装着されていた。

「目、もういいのか?」


身代みしろ先生が、今日から二時間ぐらいずつ光に慣らしていってもいいんじゃないかっておっしゃいまして。

 ……うまくいったんですね?」

 そう微笑む十と、確かに目が合った。

 千古は、大きく頷いた。




 津々羅は一人、幸せな喧騒に背を向け、自身が行かなければならない場所へと姿を消した。




「上め。滝困っとるやん」


「ですが、本当に困っているだけだったらあんな風には笑いませんわ。……良かったですわねエスクリビール(Escribir)さん。これで長池さんも元気になりますわよ」


「……熊さんなんてどうでもええんや」

 そっぽを向くエスクリビールにくすりとしてから、狗藤くとうは傍らのレインコートを着込んだ一里間ひとりまに話しかけた。

「良かったですわよね」


「……はい。思い切って出てきて良かったです」

 フードの下から、チカチカと静かで、けれど暖かなオレンジ色が見え隠れした。

 その側から、また嫉妬したらしい鶏のゴールデンエッグが一里間の脛をつつこうとしていたので狗藤は大慌てで抱き上げて制止した。


 細蟹ささがにとウサギのぬいぐるみを抱きしめた上司は、そんな部下達を静かに見つめていた。




「うっ…… ぐっ…… いっ……」


食郎じきろう


「食郎さん」


「あ?」


「泣いて、いいんだよ?」


「泣いていいんですよ?」


「……」

 一拍置き、喚きながら涙腺を崩壊させた食郎の肩に、非口とデンス(Dence)はそっと手を置いた。




「大丈夫?」

 へにゃへにゃと地面にへたり込んだ水住みなずみに驚き、声をかける魚田うおた

「大丈夫大丈夫。なんかちょっと腰抜けちゃっただけだから……」


「安心したから?」


「あんまり認めたくないけどそうなのかな……」


「みなっち、目井さん苦手なのにね?」


「い、いや、やっと虫取り網返してもらえると思って…… あの、あー……」

 見苦しい言い訳を繰り出す水住に、魚田はそっと口元を緩ませた。




 隣町の面々に囲まれて杓子と共に体調の確認をされ、問いかけに応じつつも、目井さんは上の空だった。

 名付はあの恐ろしい計画を中止してくれた。けれど、結局名付の心を救うことはできなかった。またしても、救えなかった。

 突き放したくなかったけれど、どうしてもどうしても殺しという考え方を受け入れることはできなかった。

 名付はいなくなったわけではない。先程から頭の中で呼びかけても返事はない。謝らせてさえくれない。それでも、名付は間違いなく存在している。虎視眈々と、自分が死ぬのを今か今かと…… 待っている。

 もう誰も殺さない、傷つけない。自らを殺すことも傷つけることも決してしない。名付が同じ過ちを犯すことは二度とない。


 分かっている、これは完全に自分のエゴだ。けれど本当は。

 こんな形じゃなく、共に生きていきたかった。




「目ー井さん」

 とある声に不意に意識を引き戻された。

 両親に付き添われながら、こちらに向けられた単眼が微笑んでいる。


「おかえり」


 目井さんはそっと頷いた。


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