Grim Reaper one

 なんか変。


 そう感じはした。けれど。


「ねー、こっちで遊ぼうよー!」

 あの愛しい声に呼ばれたら、全てがどうでも良くなって。


「うん、今行くー!」

 何もかもを頭の片隅へと追いやり、駆け寄った。




 この世には幸福しか存在しない。本気でそう信じてしまうくらい、幸せでたまらない。

 この世で最も大切な人が一緒。これが幸せでないはずがない。


 おしゃべりして、追いかけっこして、地面に落書きして、川で泳いで、花を摘んで、歌を歌って……

 楽しいことはいくらでもあるし、時間だっていくらでもある。飽きることなく、一点の心配事もなく、遊び続けることができる。朝も昼も夜も一緒。決して離れることはなく。


「ねえ、あの約束、覚えてる?」

 原っぱに寝っ転がって空を眺めていたら、そう訊かれた。

 覚えているに決まっている。「2人でずっと一緒に暮らす」って。

 そう返すと、満足そうに微笑んでくれた。「ありがとう。嬉しい」と。

 忘れるわけないじゃない。何百年経っても、ずっと胸に刻んでおくよ。

 そう言おうと思った。けれど。

 茶碗にヒビが入るように、なんだかはっきりしないけれど、嫌なものが急に頭をピシリと駆け抜けた感じがして、言葉にする寸前で口を噤んでしまった。




 なんか変。時たまだが、そう感じる。

 これは本当じゃない。自分がこの子とこんな風に過ごせているはずはない。

 そんなありえない考えが、ふとした瞬間に脳裏をよぎる。けれど、いずれも刹那のことに過ぎない。

 だって何よりの証拠として、大切なこの子は今目の前にいるのだ。会話もできるし、触れることだってできる。ちゃんと体温も感じられる。

 自分の中にしか存在しない戯言に、貸してやる耳などない。

 



 なんか変。ますます強くなってくる。

 知らない誰かが、呼んでいる気がする。

「――さん」

 何の前触れもなく、不規則に頭の中で響く、わたしの名前。聞こえるとぎょっとして、不安になる。

 姿は見えず、声だけが聞こえる。誰だか分からない、知らない声。さん付けで呼ばれたこともない。大体、自分の名前を呼んでくれるのは、あの子だけのはず。

 空耳だ。気にする必要はない。

 でもそれなら、あの声に呼ばれる度に湧き上がるこの焦りにも似た感情は何だろう。




 なんか変。違う違う。わたしはこのままで幸せだよ。何もいらない。あの子さえいてくれれば、何も……


「――さん」

 どうしてそんなに叫んでるの。


「――さん」

 どうしてそんなに悲しそうなの。


「――さん」

 どうしてそんなに泣いてるの。大事な人を呼びながら泣くなんて、まるであの時の


 ――「あの時」って、いつ?




「ねえ」

 弾かれたように顔を上げた先で、あの子が首を傾げていた。

「あ…… ああ、何でもないよ」

 嘘だと思われないように、精一杯の笑顔を作る。

「そう? なら良かった。今日はさ、あっちで遊ぼう!」

 あの子が指差した先には、見たことのない景色が広がっていた。まるでそこだけ空間が切り取られたように、木々の間にぽっかりと大きな黒い穴が空いている。洞窟かと思ったけれど違う。本当にそこに、暗い暗い穴が存在している。微動だにせず、信じられないくらいの静寂とともに佇んでいる。

 一筋の光明も見いだせない、ただの闇の塊。


 あそこにあんなのあったっけ? 変なの。

 だけどあの子が一緒なら、どんな場所でも楽しいよね。

 手を引かれるままに、足を上げかけた。

 

「――さん」

 ああ、またこの声だ。


「――さん」

 やめてよ。わたしはこの子といたいんだ。


「――さん」

 嫌だ、この声。悲しいことを思い出してしまいそうで……


「――るさん」

 そんなに呼ばなくたって。


「――ふるさん」

 もうとっくに忘れられなくなっているというのに。




「――千古ちふるさん!」


 あ……




 世界で一番愛しい声とは別の声。けれど、別の愛しい声。


 上げかけていた足を、静かに下ろす。

 先導して進もうと張り切っていたあの子が、引っ張っても反応のないことに違和感を抱き、振り返る。不思議そうな、怪訝そうな顔。まん丸の澄んだ瞳が、「行かないの?」と言わんばかりにこちらに向けられている。


 今からわたしは…… この子を裏切る。


「ごめんね」

 溶接されたようにくっつき、思うように開かなかった上唇と下唇を、それでも力ずくで開けた。弱々しく、消え入りそうな声で、告げた。どんなに情けなくても、視線だけは相手から逸してはいけない。


 相手が言葉を発する前に先手を打つ。

「わたし、帰らなきゃ」

 数秒の沈黙。相手の声がした。

「どうして?」

 微かな震えの含まれた、その先に続く言葉は、聞かずとも推測できた。


 ――遊んでたいよ。行かないで。


 できることならそうしたいよ。でもね。


「君は……」

 

 告げろというのか。あんな残酷な事実を、最愛の人に。いや、混同してはならない。相手は…… 姿だ。

 頭では理解している。あの子本人を傷つけるわけではない。けれど……


 けれどやはり、告げなければならなかった。


「あの子は、死んじゃったんだよ。もう、いないんだよ。どこにも」

 一語一語を区切るように、明瞭に発音した。相手の様子に、変化はない。


「だから、君はあの子じゃない。どんなに同じでも、あの子じゃない。あの子はあの子しかいない。いなかったんだ」

 ここにいるのがあの子だと思いたい。天地がひっくり返っても成就しない願いが叶ったのだと思いたい。迎えに来てくれたのだと思いたい。約束を果たせるのだと思いたい。


 それは許されない。


「誰もあの子の代わりなんてできない。たとえ生まれ変わりでも、あの子とは違う人。君をあの子と認めることは、できない。

 それに…… わたしがいなくなったら、悲しむ人がいっぱいいるから。戻らなきゃ、いけないの」

 

 言ってしまった。言い切ってしまった。目の前の存在を否定する言葉を。

 あの子に生き写しの存在は、いつしか能面のような表情になっていた。

 これでいい。あの子以外の存在をあの子だとみなすことも、ましてそれに導かれて、新たに出会えた大切な人達から離れ、二度と戻れない場所へ行くなんてできないから。


 一方で。それとは酷く矛盾した感情も抱えていた。

 波のようにどっと押し寄せる後悔と、この存在とまやかしの、けれど幸福な時間を過ごしたことへの回顧。

 その2つを突き詰めてみれば、そこにあるのは。

 

 自分でもあらゆる意味で卑怯な自覚はある。されど、伝えずにはいられない。

 目線を外さず、力強く、けれど穏やかに相手を見つめ。

「でも、ありがとう」

 思いの外、すんなりと言葉にできた。


 この存在との思い出は、全てが非現実のもの。けれど二度と戻ることのないあの子と過ごす幸福を再現してみせてくれた。

 自分の意識の9割は、それをあの子への冒涜だと主張する。けれど残りの1割は、否定するだけで終わらせることはできなかった。


「……そうなんだね」

 無の表情を形作っていた顔は。ふいにその表情をやめた。

 代わりに浮かべたのは、ふんわりと、花が咲いたような笑顔。あの子によく似た、けれどあの子とは違う笑顔。

 つないだままだった手を、するりと解いた。

「じゃあね」

 優しい笑顔と優しい声で、千古が最愛の人物と交わすことができなかった別れの言葉を口にした。

 

 これで、最後なんだ。

「うん、じゃあね」

 千古も、精一杯の笑顔で別れを告げた。


 途端、TVのチャンネルが切り替わるように唐突に目が覚めた。




 千古が目を開けた瞬間、二重の意味で目に入ってきたのは、部屋全体を覆い尽くす灰色の、線香に似た香りの煙。

 仰向けの体勢のままごほごほとむせながら手で払っていたら、いくらも経たずに煙はその濃度を失っていき、やがて消えた。


 身を起こし、状況を確認してみる。薄暗い空間。白い天井、白いドア、白いベッド。部屋の隅には、ぐしゃぐしゃに丸められたシーツのようなものが転がっている。どうやら病室らしい。

 立ち上がろうと床についた右手に何かが当たった。掌に収まるほどのルビー色の小瓶。表面に貼られていたラベルの文字に目を通す。

(……なるほどな)

 目が痛くなりそうな小さな文字から自分に起こった事態を把握した。

 と同時に、白いドアの反対側、窓の外から、ドゴドゴと乱暴な殴打の音と、幻影の中で聞いた声。

「ち…… 千古さっ…… ん! ちふ、ケホッ、ちふ……るさん!」

 息も絶え絶えに、何度も何度も。

 飛び上がって窓に駆け寄った。カーテンをレールから引きちぎらんばかりの勢いで開け、鍵も開け、窓を力いっぱい開いた。

つなし!」

 窓から身を乗り出し、大切なその名を叫ぶと、外で自分の頭ほどもある大石を頭上に掲げ、今にも窓に叩きつけようとしていたその人物はピタリと静止した。

 今日は比較的暖かい日なのに、何故かコートに手袋、マフラーに長ズボン、ブーツという出で立ち。極めつけに、何故か頭には水色のバケツをかぶっている。両目の部分にだけ開けられた穴から、サングラスの黒色と、その向こうの驚きに見開かれた瞳が伺えた。

「……千古さん?」

 

「そうだ」

 窓枠に足をかけ、半ば無理矢理に窓から外へと出る。地面に着陸すると同時、ぎゅうううっと音がしそうなほどの力で抱きしめられた。


「千古さん…… 良かった…… どうしようかと……」

 気丈で突飛な言動ばかりで、今も意味不明な格好をしている。そんな同居人の涙声を初めて耳にした。


 そうだ。自分は今朝、「とある理由」でこいつが眠っている間に家を出た。そういった場合は普段ならメモ書きを残しておくのだが、今日はいくらもせずに戻るつもりだったのと、「とある理由」のためにそうしなかった。

 目が覚めた十は、自分の不在に気付いて動揺したのだろう。

 バイトの日でもないし、置き手紙もない。スマホに連絡しても返事がない。どこに行ってしまったのだろうかと不安にさせたのだろう。いてもたってもいられず、ここまで探しにきたのだろう……


「すまなかったな……」


「無事で何よりで…… はあ、はあ…… でも、どうしたんです?」


「これだ」

 千古は先程の小瓶を掲げてみせた。

「以前論文で読んだことがあるんだ。マイナーだが一部の人間にとっては危険な薬品でな。空気に触れると気体となって拡散する。吸い込んだ者は意識を失い、ある夢を見る」


「夢、ですか?」


「『二度と会えない、けれどもう一度だけでも会いたい』そんな存在と再開する夢だ。もちろんそれはただの幻覚にしかすぎず、実際にその存在と会えるわけではない」

 自分で言っていて胸が痛くなったが、続ける。

「眠った状態のまま、その相手と幸せに過ごす夢を見続け…… そうして、幸せな気分のまま命を落とす。そういう薬だ。

 吸い込んでしまった本人が、何かの契機で夢の中で『これは夢だ』と自覚できれば途端に効果を失い、煙ごと消滅するらしいがな。同じ煙を吸った者がいた場合は、そいつも薬品の効果から解放されるらしい。まあ、そんなケースは滅多に無いらしいが……」


 「あの子にもう一度会うまでは死ねない」

 ずっとそう誓い続けていた。

 夢の中で、もう一度会えたと本気で思った。

(……ところだったのか、私は)


 そこまで考えが至り…… ようやっと、とんでもないことに気が付いた。

「おい…… 目井めいはどこだ?」


「はあ…… どうしたんですか? はあ……」


「あいつが、私を……」

 続けようとした。けれど、そんなことが吹き飛ぶほど、さらにとんでもない事態に気が付いた。真っ先に気付かなければならないことだったのに、今更やっと気が付いた。


 空は雲ひとつない、清々しいほどの青空。遮るものもなく、降り注ぐ日光。

 どれくらい薬で眠らされていたのか見当はつかないが、どう考えても今は夜ではない。昼だ。

 全身を日光にさらさないようにと精一杯努力した服装。けれどそれでも充分ではなく。

「はあ…… はあ……」

 苦しそうな息は、泣いているためだけでも窓を割ろうと奮闘したためだけでもなく。


「き…… 貴様…… なんてこと……」

 驚愕、後悔、自責、悲嘆、恐怖、憤怒、その他名称も分からないありとあらゆる感情でごちゃ混ぜになった千古は直後、一層ごちゃ混ぜになった。




 虎のような咆哮。耳をつんざく、雷鳴にも少し似た、怒りに満ちた悲しそうな咆哮が、たった今自分が抜け出してきた病室から。


 続いて、バリーンとこれまた大きな、窓ガラスが割れる音とともに、金色の影が病室から躍り出た。

 四つん這いのその人物は、迷うことなく、十の腕から千古を奪い去った。


「あ」

 勢いで被っていたバケツが弾き飛ばされ、日よけのためにと包帯をぐるぐる巻きにした顔が顕にされた。

 けれど十はバケツの方ではなく、千古を奪った人物の方に片手を伸ばした。




 瞬く間に地面に仰向けにされ、右頬に強い風を感じた。いや違う、右頬をえぐるように引っかかれたんだ…… と認識した直後に先端の尖った爪を左の眼窩に突っ込まれる。一瞬のうちに奥の方を掻き回されたかと思えば、乱暴に抜き出された。左目も一緒にボロリと零れ落ちた。

 喉に、耳に、額に、顎に。千古の首から上を無差別に切り裂き続ける、十枚の爪。透明な雫。


 その爪の持ち主は、喚いた。


「お前が…… お前がっ……! 似音子にねこをっ、似音子をもう一度殺したであるか!」




 夢でも幻覚でも良かった。もう一度似音子に会いたかった。優劣だの何だのなんて関係なく、子どもの頃のように平和に過ごしたかった。

 それは叶った。最後に見た、憎悪に満ちた表情とは程遠い、幸せそうな様子の似音子。そこには何の気まずさも怒りも遠慮もなかった。ただひたすらに楽しい時間だった。


「ねえ、あっち行こう?」

 似音子の指し示す方向には、大きな闇。

 いいかもしれない、と思った。似音子と一緒なら、このまま闇に堕ちていくのも悪くない、と……


 なのに、あと一歩で闇に届く、というところで唐突に現実に引き戻された。あれほど現実感を伴っていた似音子も闇も跡形もなく消え去り、残されたのは病室の隅でシーツにくるまる自分だけだった。

 混乱していたら、外から誰かの話し声。耳を澄ませ、様子を伺ってみた。それにより、自分に何が起こったのか、誰のせいで似音子と自分が引き離されたのかを理解した。

 後は単純に、何も考えず、似音子をもう一度奪った「犯人」に飛びかかった。


 金色の双眸から光るものを零し、千古の腹に胡座をかくような体勢で。

 杓子しゃくしは ひたすらに切り刻みまくった。

 


 

 千古に痛覚はない。そのはずなのに、身体の奥の奥の奥に存在する、形を持たない器官が痛みを訴えているようだった。


 びちゃびちゃ、ぶちゅぶちゅ


 四方八方に撒き散らされ、辺りの色を刻々と変え続ける千古の血肉。

 片手を伸ばしたまま固まった十は制止しなかった。できなかった。

 凄絶な現場を、ただただ呆然と眺めるだけだった。


 血液を美味しそうだと思わなかったのは、初めてだった。

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