flying ring
美容院「Too Long」にて。
「なんかその、俺のせいで大変なことになってしまい……」
困惑しつつも謝る
「いーやあなたのせいじゃないッス。気合い入れすぎた私がいけなかったんス」
天井に貼り付く「それ」を睨みあげつつフォローする
「でも、
「ええ、それは申し訳ないッス目井さん。私が至らないばっかりに……」
「いえいえ、誰のせいでもありませんよ。今はとにかくなんとかしましょう」
長池同様天井を見上げる目井さん。何故か片手には虫取り網。わざわざ
「それ」との睨み合いはかれこれ二十分ほどは続いているだろうか。最早膠着状態であった。
「……動かないッスね」
「困りましたね。あそこまではどうやっても届かないので降りてきていただかないことには……」
「ああしてるけど、一度動きだすとすばしっこすぎて私でも追いつかないんスよね…… あっ、そうッス!」
髪を伸ばし、洗髪台に置かれたシャンプーを取ってきた長池。フタを外し、中身が見えるようにして高々と掲げる。
「どうするんです?」
「あいつはきっとシャンプーが好物なはずッス! こうしてれば誘われてくるッスよ!」
「そんな、動物じゃないんだから……」
言ってる側から、すーっとシャンプー目掛けて降下してくる「それ」。
「マジ!?」
「よしっ、今がチャンスです!」
そりゃっ、という掛け声とともに虫取り網を振り回す目井さん。がしかし、すっと避けられた。再度挑戦し、一旦は見事に捕らえたものの、網に空いていた結構な大きさの穴から抜け出してしまった。
「えええええ! 穴開いてるじゃないですか! 水住さんのなら大丈夫だと思ったのにー!」
目井さんの絶叫に気を取られ、「それ」がシャンプーをペチョペチョと舐め取っているのに気づかない長池。
「なっ、長池さん!」
「え? ヘアアアアアアアアアア!」
稚内の指摘で慌てて髪を目の細かい網状にし、捕獲にかかるも虚しく、またも
「何今の雄叫び!? そしてまた天井行っちゃいましたね……」
リング状の姿の「それ」。その煌きに目を細め、悔しそうな呆れたような声で言う稚内。
「まだまだ! 諦めませんよ!」
「……もういいです。これ以上お手を煩わせるわけには…… ケアすればいいだけの話ですし」
「いえいえ、なんとかいたしますよ、遠慮なさらず!」
張り切る目井さんの頭上に、天井に上昇したばかりのはずの「それ」が目にも留まらぬ速度で降りてきた。そして、目井さんの頭にがっちりとはまった。
「!? ヘアアアアアアアアアア!」
「雄叫びうつった!?」
稚内のツッコミなど気にする余裕はない。
「目井さん、しっかりしてくださいッス!」
「目井さん、目井さん!」
しばし目井さんを苦しめた「それ」は、しかし降りてきたときと同様、突如として目井さんの白髪から離れ、ふわふわと漂っていった。
「あーもー! 気まぐれな奴ッスねー!」
「目井さん、大丈夫ですか?」
「……やっぱり、諦める……」
どこか虚ろな瞳で何事か呟く目井さん。
「え?」
「ん…… うぐ…… あ、ああ、すいません、大丈夫です!」
頭を抑えたまま、ぱっと起き上がり、目井さんは思案の表情になった。
「さて、本当にどうしたもんですかね……」
「……やっぱり私のせいッス」
全身の髪を垂れ下げ、しょげる長池。
「何言ってるんですか! 元はと言えば俺があんな要望したから!」
「いいえ、私のせいッス。お客様の要望に応えるためとはいえ、本気出しすぎちゃったんス……
予想できなかったんス。光沢のある、ツヤツヤの髪…… いわゆる、『天使の輪』のある髪にして差し上げようとしたら、まさか髪から外れてマジの『天使の輪』みたいに飛び回れるようになるなんて思いもしなかったんス」
「誰も思いませんよ…… 大丈夫です、長池さんに頼んで一瞬でツヤツヤの髪にしてもらうんじゃなく、自分でちょっとずつケアして天使の輪のある髪を目指します。もうあの輪っかのことは気にしないでください」
「稚内さん…… ありゃ?」
「どうしました?」
「天使の輪、いつの間にかあなたの頭に戻ってまス」
「え? あ、本当だ……」
「マジに気まぐれな奴ッスね……」
「こりゃ今後のケアも大変そうだ……」
死闘を終え、稚内を見送った目井さんは、長池にお茶を出してもらっていた。
「ごめんなさいッス、結局来てもらわなくても解決しちゃって……」
「まあまあ、解決したんですから良かったんですよ」
「そうッスね…… でもッスね」
「はい?」
「無理は良くないッスよ」
湯呑を口元に運びかけていた目井さんの手が、ピタリと停止した。
「私、髪を見ればその人の調子がなんとなく分かるッス。今日来てもらった時、正直驚いたッス。苦しそうな色ツヤだったから…… あなた自身がやる気満々だったから、言い出せなかったんスけどね」
鋭い眼力で見つめられているようだった。目の機能を髪で代替している長池だから、そんなはずはない。けれど目井さんには確かに感じられた。
「さっき頭締められた時も妙なこと口走ってましたし……
今日はそれ飲んだらさっさと帰って、さっさと休むッス。医者が倒れたら我々が診てもらえないからってだけの理由じゃないッス。あなたが好きだからッスよ。
……あ、もちろん恋愛的な意味ではないッス」
深刻な口調だった長池は、けれど最後にはおどけるように締めくくった。
目井さんは、唇の端を薄く上げた。
「……ありがとうございます。では、これで」
まだ熱いお茶を一息に飲み干す。空になった湯呑がテーブルに置かれる音が、こつん、と響いた。
――患者様に心配をかけるなど、医者失格じゃないのか?
夕刻の町を歩きながら、そんな意味の嘲り口調が、脳内に満ちる。
気にしないように、自宅へと歩を進める目井さん。
――どうせ完璧になんてできっこないんだ。もう頑張らなくていいんじゃないか? 毎日言っているだろう。「諦めろ」と。
(……諦めませんよ)
心の中で、目井さんは自分にしか聞こえない脳内の声に返す。
――何度言わせる? まさか、まだ気づいていない、なんてことはないだろう。
いくつもの苦痛を、悲しみを見て、いくつもの死を見て、とっくに理解しているんだろう?
「自分に全ての命を救うことなんて不可能だ」って。
足が止まる。凍りついたように、その場から身動きできなくなる。
(! そんな、こと……)
言葉が詰まる。
――分かってるんだろう、認めようとしないだけで。あんた、もう限界迎えてるぞ?
ぎりぎりと頭が痛む。「あれ」を実行した日以来、毎日のようにあるこの頭痛。決して慣れることのない、この痛み……
(ですが、救いたいんです、皆さんを……)
頭を抱えることすらできず…… それでも、続けた。
(もちろん、あなたのことも)
ぼたぼたぼたっ
小さな液体の粒が額から頬を伝い、地へと吸い込まれていく。雨かと思えば、自身の冷たい汗だった。
――いい加減にしろ。
一層激しさを増す頭痛と、冷酷な声。
――もう結構だと言っているんだ、そういうのは。おかげでこっちは生きたくもないのに生かされてんだよ。
もうさあ、いいじゃん。こっちも辛い、そっちも辛いなら、選ぶべき手段は一つでしょ?
じわっ
頭の中央にあった固体が、焼けた鉄板に載せたアイスクリームのように一気に溶けるイメージが湧いた。
――だからさ、後のことは……任せてよ。
水を張った容器に垂らした絵の具のように、溶けた何かがさあーっと広がっていく。
(!)
必死で意識を保とうと努める目井さん。普段はできていた。けれど、今回は先程頭を激しく刺激されたダメージが今になって響いてきたせいもあってか、止まらない。止められない。
小さなシミが、拡大していく。堰き止めようとしても、防波堤をも破壊するかの如き勢いで。
呑まれる、呑まれる。
侵食されていく。頭が。心が。
――あまねく生命を救いたいんだよね? 安心して。代わりに「救って」あげるよ。みんなみんなみーんな。あんたの望みとは違う形で、だけどね。あはは。
そんなことを意味する、残酷な言葉。
(ダメ…… です。そんな、こと…… あなたを…… に、したく、ありませ……)
体内が霧に支配されているようだ。ぼんやりして、何もわからなくなりそうで…… それでも、目井さんは抗おうとした。
――言ってるじゃん、無理するなって。ほら、もうおやすみ。永遠に。
(嫌…… です)
塗りつぶされていく。自分の全てが。
――さーて、まずは何しよっかなー。あ、個人的な主義的に、特に生きててもらっちゃ困る人が一人いるんだよねー。手始めにあいつを…… 殺そう。
(……)
目に入っているはずの見慣れた町の光景を、脳が処理できておらず、何も見えない。
真っ白だ。何の感覚も分からない。眠い。とてつもなく眠い。
それでも。
訳のわからないまま、途切れる寸前の意識を奮い立たせ、目井さんは叫んだ。
(やめてください…… ――さん!)
その名を叫んで…… それから、何もわからなくなった。
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