liquid cat

(ここ数日で急に暑くなったであるよねー。あー、溶けそうである……)


 杓子しゃくし萌音子もねこは内心でぼやき、「マタタビ酒」とラベルのされたボトルの中身を一口飲んだ。

 梅雨明けを迎えた町内を、灼熱の太陽がジリジリと照りつける。頭上からだけではない。アスファルトから湯気が出ているのではないかと錯覚するほど、足元からも高温を感じる。

 顔や腕を滴り落ちる汗を、首からかけたタオルで拭き取る。熱気でムレてきたため麦わら帽子を脱ぐ。金色の頭髪と、それと同色の、猫耳のようにぴょこんと盛り上がった2本の円錐形の髪の塊が露になる。

 帽子でパタパタと扇ぎ、自身に風を送る。大して変わらないが、気休めくらいにはなったかもしれない。


 よたよたと歩き続け、ようやっと目的の場所が見えてきた。「しゃくしアニマルクリニック」という看板の掲げられた、3階建ての建物。自身が院長を務める動物病院だ。

 自動ドアをくぐったと同時、世界が変わったかのように感じた。冷気が全身を優しく抱擁し、火照った身体からだを労ってくれるようだった。

(はああ~。生き返るである~……)


 待合室の患者様に挨拶をし、他の医師や看護師達に帰ってきたことを伝えてから入院室に向かった。

 扉を開いた途端、視界に飛び込んでくる無数の色、色、色。

 具合が悪そうな患者様がいないかどうか確認していく。

 猫、犬、ウサギ、馬、牛、イグアナ、オウム、オオサンショウウオ、金魚、クワガタムシ……

 それそれのケージ内や水槽内の温度も適切に保たれている。皆特に問題はなさそうだ。




 幼い頃から町内の山を駆け回り、ありとあらゆる生物と関わってきた杓子。だからこそできる限り多くの命を救いたいと、猫や犬などのよく飼われている動物だけでなく、爬虫類、鳥類、両生類、魚類、虫などの治療法も必死で努力して学んできた。

 今日など、一般の家庭で飼われているキリンの陣痛が予定より早く始まったようだと連絡を受けて駆けつけたのだ。難産になってしまったが、結果的には母子ともに無事でひとまずはほっと胸を撫で下ろしたのだった。


 ちなみに、杓子の髪型はおしゃれでやっているわけではない。その正体は目井めいさんや長池ながいけをもってしても直すことのできない超絶頑固な寝癖である。




(……?)

 部屋の隅のとあるケージの前まで来て、杓子はふと足を止めた。

 違和感に、金色の白目と縦に細長い黒目で構成された目を見開く。


 このケージには、手術を終えて入院している猫がいたはずだった。茶色に黒い縞模様の、いわゆるキジトラの猫。


 けれど、そこにいたのは面影こそ残してはいるものの、見た瞬間に「あ、猫だ!」と言える類の存在ではなかった。


 ケージの底一面に広がり、今にも格子の隙間から垂れ流れていきそうな、茶色と黒の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような色彩の液体。

 水たまりのようになったその空間の端っこには、追いやられたかのような餌皿とトイレ。それと、飼い主から預かったお気に入りだというぬいぐるみ。うつ伏せにされた、水色のカエルを模したそれの前半身にも、気味の悪い色の水がびっしゃりと染み込んでいるのが確認できた。

 水たまりの中央には、液体の発生源であろう肉塊がごろり、と。

 横たわる毛だるまの肉には4本の足と尾が無く、それらが存在していたであろう箇所から、閉め忘れた蛇口のごとくぽとぽとと滴下している。

 頭部に相当する、エリザベスカラーを装着した部分。こちらに向けられているそれは、どこが目で口で鼻で耳なのかも判別不能なほど溶解し、やはり全体から液体をぽとぽと流し続けている。


 到底信じたくなどなかったが、その塊の色は間違いなくキジトラで……




「あんな症状誰も見たことないである! どうしたらいいか分からなくて…… とにかくこっちである!」

 隣町から駆けつけてくれた目井さんの手を取り、大急ぎでキジトラのケージ前に案内する杓子。

 

 だが。


「……あれ?」


 先程信じたくないけれど目にしてしまった異常は、どこにも存在しなかった。

 ケージの中には、1匹の縞模様の猫が所在なさげに寝そべっているだけだった。


「さ、さっきは本当に…… 溶けてたんである……」


「疑ってなんていませんよ」

 屈んでケージの戸を開け、猫を覗き込む目井さん。

「失礼します、ちょっと確認させてくださいね……

 そうですね、手術したところもちゃんと処置していただいていますし、お元気そうなので大丈夫でしょう」


「……なら、さっきのは何だったのである? 吾輩達みんな見たのに……」


「そうですねえ。ただご本人…… ご本猫は本当になんともなさそうなんですよね。もしかしたら皆さんお疲れなのでは?」


「そういやこのところは手術がやたらと立て込んでたである…… うん、皆には休む時は思う存分休めと伝えておくである」


「杓子先生もね」


「ああ。すまんであるな、わざわざ来てもらって」


「いえいえ」




 ……行ったか。

 

 金色髪の人間と、変なズタズタの布を身に付けた人間が去ったのを確かめ、俺はほっと息をついた。

 危なかったな。危うく全ての猫が頑なに隠し続けてきた秘密がバレるところだった……




 人間連中は壮大な勘違いをしているが、我々猫は本来はこんなモフモフした姿ではない。

 自分の意志を持ち、動き回る水たまり。それが、我々の正体だ。


 この固体としての姿は、もともとは飛んで逃げようとする鳥や虫を捕らえる時などに、あくまで一時的に変化へんげする仮のものに過ぎなかった。

 しかし遠い昔、固体の姿でいる我々のご先祖様達を偶然発見した人間達が「かわいい」などとチヤホヤし始めた。液体の姿の時は見向きもしないくせに。というか、水たまりと「かわいい」ご先祖様達が同一の生物であることにすら気付かずに。


 そこでご先祖様達は集会をして決めた。「これもしかして、あいつら利用すればいいんじゃね? 固体の姿でいれば人間共が勝手に可愛がってくれて楽に暮らしていけるんじゃね?」と。


 そんなわけで、猫は常に固体の、多くの人間が「かわいい」と感じるらしい姿で過ごすことになった。液体の姿だって俺らからすりゃ十分かわいいのに、人間の美意識はよく分からん。

 でもまあ実際、概ねはご先祖様達の目論見通り、我々はアホな人類に甘やかされて暮らすことができている。野良猫達でさえ、「この方が食べ物もらえたりするから」と固体状態でいる場合が多い。というより、最近は先祖代々固体でいすぎたせいで液体になる方法を忘れてしまった、そもそも知らないという者もいるようだが……


 俺は固体姿も好きだけど、液体姿の方が好き。だらーっと力を抜けて、リラックスできるんだ。だから今日も人がいないところでやっていたんだが…… うっかりミスだった。今後は注意しなければな。


 しっかし、人間ってチョロいよな。今の2人だって結局気付かなかった。地球上の他の生物のことを全て知ってるわけでもないのに、よく「人間は地球の支配者だ」と思ってられるよなあ。支配者どころか支配されてるような部分あるのに。まあ、面倒見てくれるのはありがたいけども……

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