逃がした贖罪は大きい
もう何も見えない。皮膚が何かに触れているのかどうか、それすらも分からない。
分かるのは、すすり泣く声が聞こえることだけ。
布団に横になった私の周りに満ちる、家族や親族、友人達の悲嘆に満ちた声。
こんな私の死でも、悲しんでくれる。それはありがたいことで。
けれど、私にそんなことをしてもらう価値はない。
結局、誰にも告白せずに逃げ切ってしまった。私は、卑劣な卑怯者だ。
もうどれくらい前のことだろう。入社して間もないある日の深夜、私はバイクで帰路を急いでいた。
少し離れた街での仕事で、しかも思った以上に長引いてしまったのだ。無茶を言ってきた上司への苛立ちを抱え、冷静な運転ができていなかった。早く帰って休みたいという気持ちも強かった。
前を見て走っていたつもりになっていた。けれど、目にしたものを脳内で正確に認識してはいなかったのだろう。
周囲に建物もないような道で、突如として人間が目と鼻の先に現れるはずなど、ないのだから。
今でも鮮明に記憶に刻まれている。
あの人の驚いた顔。
バイクのライトを反射して眩しく煌めいた片眼鏡。
咄嗟にかけたブレーキが間に合わず、柔らかいものにぶつかった感触。
信じられないくらい遠くに跳ね飛ばされる
我に返った時には、全てが終わっていた。
先程まで生きていたその人は、今やものも言わず、硬いアスファルトに寝そべるだけの存在となっていた。ほうぼうに散らばった片眼鏡の破片の中で。首を、両手足を、ありえない角度に、ありえないくらいに曲げて。
首が後ろに大きくしなって、後頭部と背中がくっついて、顔が空に向けられていたのが特に強烈だった。どんな表情をしているのかは、確かめられなかった。
この時点で、「最悪」以外に私を言い表す言葉を思いつける人間はいないだろう。
だが、この次の私の行動を知れば、もはや「最悪」という言葉すら生ぬるいとどんな人間でも思うだろう。
私は救急車も警察も呼ばず、大慌てでその場を走り去ったのだから。帰宅してすぐシャワーを浴びてベッドに飛び込み、眠りについたのだから。
それ以降、最大の趣味である運転をきっぱりやめた。バイクでも車でも、ハンドルに触れただけで全身ががくがくと大きく震えるようになった。
あの道を通ることも、二度となかった。もし花束でも置かれていたら、一見しただけで正気を失ってしまう自信があった。かなりの遠回りになっても別の道を使うことにした。事故の数カ月後には、会社に無理を言って遠方に転勤させてもらった。
交通事故に関するニュースや新聞記事が見られなくなった。自分の犯行が取り上げられていたらどうしようという倉皇に支配されていた。配偶者や子ども達とニュースを見ている際に何かしら交通事故の話題が出たら、そのたびに急いでチャンネルを変えていたので怪しまれ、そのたびに必死で無理のある言い訳をした。
警察が怖くなった。財布を落として困っても、届け出を出すことができなかった。
最も恐ろしいのは眠ることだった。眠るたびに大切な人達に、鬼のような形相で「人殺し」と罵られる夢を見た。毎晩毎晩、一日も欠かすことなく、同じ夢を見続けた。「死は眠りの兄弟」とはよく言ったものだ。私は毎晩処刑されるような気持ちでベッドに就いていたのだから。
罪を犯した上に、その罪と向き合いすらせず全て放り出して逃げ出した。恐怖心に負けて。
あの日から私は、心から喜びを感じたことがなかった。四六時中感じていたのは、ひたすらに無数の針に心臓を貫かれ続けるような激痛だけだった。
けれどそれを悟られないよう明るく振舞い続けた。そうすることを止めたら、周囲の人は即座に訝しみ、私の罪を暴き、責め立てると思った。あの夢のように。
逃げていなければ重い十字架を背負うことになっていただろう。けれど逃げたことにより、それとは比べ物にならない、遥かに重い十字架を背負うことになった。
……いいや、私はやはり卑怯者だ。この期に及んで自己憐憫ばかり。それより何より、私がしなければならないのは殺したあの人に対する謝罪なのに。
ついぞ自分からあの事件について調べることはなかったから、あの後どうなったのかは分からない。けれど、私が何事もなく生き続けることができてしまったということは、あの事件は未解決のままなのだろう。
殺されたあの人には、叶えたい願いがあったかもしれない。その実現に向けて頑張っていた最中だったのかもしれない。それを私は、無にした。なのにとうの私は、様々なものを得ながら、生きた。
私は、地獄に落ちなければならない。
いつの間にか、皆の声は聞こえなくなっていた。
ああ、遂にか。
塗りつぶされていく意識の中、私は、私を罰しようと襲い来るであろう存在を思った。
とある人物がそうして天寿を全うする数十年前、つまり現在。
問題の事故が発生した直後のこと。
バイクで人を跳ねてしまったその人物は、パニックのあまりその場からすぐさま逃走した。
そう、どう見ても死んでいるからと、被害者の生死すら確かめぬまま。
(………………はっ!? あれ、あれ? 小生、何故公道で横になっていたのでございましょうか? これはマナー違反でございます、早く起き上がらなければ!
あら、何でございましょうか、身体がうまく動かない?)
状況が掴めないながらもどうにかこうにか身を捩っていた
(おやおや、よいしょ、でございます)
心の中で掛け声をかけ、首を起こす。取り返しのつかない曲がり方をしたはずの首はしかし、普段通りの位置に向き直った。外傷も特には見当たらない。
(あと、手足もでございますね)
関節を無視したようにデタラメな方向にカーブを描く腕、脚、指。それらはけれど、何事もなかったかのように佐豊の意志に従って動き、元の通りになった。
(いたたたた、でございます。何でございましょう、記憶が飛んでいるのでございましょうか? 何かの拍子にどこかで頭を打って、それと同時に色々なところが曲がってしまって倒れたのでございましょうかね?
先日のことでございました。よく考えてみたら、お辞儀をするとお相手の顔が見えなくなるのって失礼なんじゃないかって思えてきたんでございますよね。で、隣町の
それだけでなく、手足や指の関節も、違うタイプの土下座をやりやすいようにと全て自由自在に曲げられるように手術してくださったのでございます。
土下座も日々進化し続けているでございますからね。患者様に誠意を示すためには、時には関節を反対側に曲げて土下座をする場面もございますから……
それはそうとして、この程度の痛みなら帰って冷やせば収まりそうでございます。大したことはございませんね。あ、なんかキラキラしてると思ったら片眼鏡割れてしまったんでございますね。破片ちゃんと集めないとマナー違反でございます……
よし、これで全部集めたでございますね。さあ、帰りましょうでございます)
つい先程運命が大きく変わってしまった人物の存在など知る由もなく、佐豊は頭痛がする以外は何事もなく、元気に自宅へと帰っていった。
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