the witness in the darkness

 はあ、はあ、はあ…

 落ち着け、落ち着け、落ち着け…


 一旦パーカーのフードを脱ぎ、マスクも外す。両手を広げ、大きく深呼吸をする。肺が新鮮な酸素で満たされていく感覚。バクバクと暴れ続けていた心臓は、完全にとはいかないまでも先ほどまでと比べれば通常通りの動きに戻ってきていた。


 手元に目をやる。握りしめているのは、赤黒く濡れた30cmほどの鉄製の置物。


 足元に目をやる。後頭部から置物についているのと同じ色の液体をドロドロと流して横たわっているのは、職場の部下。


 俺が悪いんじゃない、俺が他の奴らにしたセクハラを告発するとか言い出して、そうやって俺の人生をメチャクチャにしようとしたこいつが悪いんだ。

 そうだ、俺は悪くない。これは立派な正当防衛だ。




 休日の深夜、つまり20分ほど前、この家に忍び込み、背後から置物で頭を殴った。ゴルフクラブでボールを打つよりも、ずっと重くて堅い手ごたえがした。

 ギャッ、と甲高い声とともに、部下は床に倒れ込んだ。

 うつぶせた頭に、何度も何度も力いっぱいに凶器を振り下ろした。そのたびにばっ、ぱっと血しぶきが飛んで壁や俺の服にまだら模様を作った。

 

 こいつ、ちゃんと死んだよな? これだけ出血してるし、だんだん身体も冷たくなってきてる… うん、大丈夫なはずだ。


 ここまで来る時も誰とも会わなかったし、顔もしっかり隠しておいた。アリバイトリックも使ってるから俺がやったとは思われないはずだ。


 あ、あそこの小窓はカーテンないのか… でもこの時間帯にこのあたりをうろつく奴なんてまずいないし、あんなところから人んちを覗いてる人間なんていないだろ。


 何も心配はない。これで俺の平穏な生活を乱す奴はいなくなった。

 明日も休日。遠くの山に凶器を埋めにいけば、万事オーケーだ。今日はさっさと帰ってゆっくり寝よう…

 安堵のため息がもれる。口元が緩む。念のため返り血を浴びた服を持参してきた服に着替え、来た時と同じように顔を隠した。




 あ? こんな早朝に誰か来たみたいだ。こっちは山に行く準備してるのに。

 まあいいや、とっとと終わらせよう。


 はーい、どちらさまですかー


 え… 警察? 「ちょっと伺いたいことが」って、え? え?

 なぜだ!? なぜバレた!? まさか誰かに見られていたのか!? そんなバカな!


 誰が!? 一体、誰が!?




目井めいさーん! あの人起きた!」

 黒いキャップをかぶった人物は、嬉々として食事中の目井さんの元に駆け寄った。


「おお、ついにですか!」

 目井さんは食事を中断し、「あの人」― 先日家に侵入してきた職場の上司に頭を殴られたが一命は取り留め、意識不明の状態が続いていた患者様の元へ向かった。


 しばらくして戻ってきた目井さんは、患者様はまだボーッとしているが、そのうち意識もはっきりしてくるだろうから大丈夫だとキャップの人物に説明した。


「いやー、本当良かった! しかもタイミングいいよね、あのバカ上司の有罪が決まった翌日に起きるって」


「そうですね。あの方が亡くならずに済んだのも、上司の方が殺人犯にはならずに済んだのも、あなたがあの日事件を目撃して、すぐに私のところに飛んできて知らせてくださったおかげです。私からもお礼を申し上げます」


「はは、そうだよね!

 …ウチの身分のごまかしとか、しばらく病院に住ませてくれたりとか、色々ありがとう。

 もう全部終わったわけだし、そろそろウチを元に戻してくれるかな? 仲間もそろそろ戻ってこいってうるさいし」


「ええ、私はかまいませんが… あなたはよろしいのですか?」


「何が?」


「せっかくあなたが助けた方が目を覚まされたんです。何かお話をされてみては? あの方も命の恩人であるあなたとお話したいかもしれませんし」


「『恩人』、ね」

 キャップの人物はフッと軽く笑った。


「『ウチがあなたの命を救えたのは、町中で勝手に一目惚れして、時々勝手に窓から覗いてたからだよ』なんて言えないでしょ。気持ち悪がられる。それに、もしウチがあんたらだったらこれってすごく悪いことなんでしょ?」


「ですが…」


「いいんだよ。どうせ絶対に叶いやしない恋なんだよ。最初から分かってる。

 そもそもウチの言葉もあの人には通じない。ウチらの言葉を分かってくれるのは、この町では目井さんだけだもんね。まあ、1人でも分かってくれる人がいるのはありがたいけど。今回はそのおかげで助かったし。あんたまさかこんなことまでできるとは未だにびっくりだよ」


「そう思っていただけているのならありがたいです。

 …でも本当は悔しいですよね。事件を目撃したのは本当なのに、『あなた』が『あなた』であるというだけの理由で誰にも信用してもらえないなんて。ここまでしないと証言もさせてもらえないなんて」


「まあ… ね。でも、あんた達と同じになってみるのもなかなか楽しかったよ。けどめんどくさいことも多かったし、ウチはやっぱ元の姿の方が好きかな。

 はい! そういうわけだから、早く治してください! お願いします!」


「…分かりました」




「はい、元の通りにさせて頂きましたが、どこか痛いですとか、違和感があるとかはありますか?」


「カア」


「なんともありませんか。良かったです」


「カア」


「『あんたのおかげで警察やら裁判やらで『人』として証言させてもらえて、あの人の助けになれた。本当にありがとう』ですか。いえいえ、こちらこそあの方の命を助けさせていただいてありがとうございます」


「カア」


「『あの人をよろしく』ですか。もちろんです。おまかせください」


 目井さんの頼もしい返答を聞いたは、最後にもう一度「カア」と小さく鳴くと、開かれた窓から雲ひとつない青空へと飛び去っていった。

 心なしか、最後の鳴き声は安堵のため息のように聞こえた。

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