入れ物の中
自分の父親がしていたのはとんでもないことだったんだと、今なら
魚田が3歳の時、魚田の母親は他に好きな人ができたからと、家を出て行った。
その頃から、父親は魚田に当たり散らすようになった。
どんな方法であれ子どもに当たる時点でひどいのだが、この父親の当たり散らし方はとりわけひどかったと言えるだろう。
まず、父親は風呂場に行き、洗面器になみなみと水を張る。
次に、我が子を呼ぶ。
そして、我が子の頭を掴み、怒鳴りつけながら水に顔を押しつける。
工程としては、文字で書くとこれだけだ。だが、魚田の心身の苦痛はこんなあっさりしたものではなかった。
握りつぶされるのではないかと思うほどの力で後頭部を掴まれ、激痛に感じるほど冷たい液体の中に無理やり顔を沈められる。
「出ていかないで、出ていかないで」という願いと裏腹に、空気が泡となって鼻から出ていく。肺の中身が減っていき、どんどん息が苦しくなっていくのが分かる。普段意識しなくてもできる呼吸が、意識してもできない。
生命の危機を感じ、逃れようと小さな手足をばたつかせるが、抑えつける大きな力の前には全くの無意味。
脳がぎゅーっと押し縮められていく感覚と共に、きつく閉じた両目が作り出した真っ暗闇が白み出す。
死んじゃう、死んじゃうよ。
特に身近に経験したことはないはずの「死」という概念なのに、思い浮かべずにはいられなくなる。
そのあたりで、大きな手が髪を引っ張り上げる。
顔が水面から離れ、大量の雫をダバーッと滴らせる。
ハーッ、ハーッと大きく口を開け、愛おしい空気を少しでも多く取り込もうとする。
でも、ほんの数秒後には、再び顔を水に浸される。
それを何セットも何セットも繰り返す。
その間中、父親は我が子に全く責任のない様々なことを、まるで全部我が子のせいであるかのように怒鳴り続ける。
魚田はこれを、ほぼ毎日されていた。
殴る蹴るといった虐待では身体にあざや傷が残り、周囲に勘づかれる可能性がある。
だからこういった形の暴行を思いついたのだろう。なんて卑劣で、狡猾なんだろう。
父親としても、事情が事情だけに人に相談をするのがためらわれたのだろう。やり場のない気持ちを抱えていたのだろう。自分を裏切った女の血が混じった子が憎らしかったのだろう。
しかしそれは、虐待の免罪符には全くならない。子どもに八つ当たりするなんて子どもじみたことするよりも、遥かにいい解決策があったに違いないのに。
魚田は、今ならはっきりそう言える。
幼い頃からそんなことをされ続けた魚田は、恐ろしいことに「自分は悪い子だからお父さんに苦しいことをされて当然なんだ」、「どこの家でも、悪い子はああされるんだ」と思い込んでいた。
おかげで自尊心は極端に低く、(こんな悪い子がみんなと一緒に遊んだら迷惑なんじゃないかな…)と考えてしまい、なかなか友達ができなかった。
(それに気付いた父親は「友達すら作れねえのか? お前気持ち悪いもんなあ!」などとさらに暴言の材料にした)
また、幼稚園や小学校や公園で先生や親に叱られている子を見かけるたびに、(あの子、今日はいっぱいお水につけられちゃうだろうな。かわいそう…)とあらぬ同情をしていた。
何かがおかしいと気付いたのは小学1年生の時、1人の友達と下校していた時だった。
「この前授業参観あったじゃん? あの時緊張しちゃって、すごい珍回答してクラスみんなに笑われちゃってさ。うちの親も見てる前でだよ? 恥ずかしかったよ〜」
魚田はゾッとした。この前の授業参観にうちのお父さんは来なかったけど、もしも自分がそんな間違いを犯したらいつも以上に怒鳴られながらいつも以上に何度も水に押し込まれるに違いない。テストの点が悪かった時や、お手伝いが上手くできなかった時はいつもそうだから。
この大切な友達も、罰として苦しいことをされたんだろうな…
恐る恐る訊いてみた。
「その後、おうちで大丈夫だった?」
友達はしかし、苦笑いを残しつつもあっけらかんと答えた。
「まあね。夕食の時にみんなに笑われたけど」
…あれ?
笑われただけで終わり? お水に入れられないの…?
その日から魚田は、水住や、その他の数少ない友人達にそれぞれの家族について質問するようになった。
友人達以外の子達の何気ない会話にも盗み聞きのように耳をそばだて、家族の話題が出てきたら注意深く聞いた。
とにかく聞いて聞いて聞きまくった。
そしてある結論にたどり着いた。
「聞いた限りでは、他の子達は誰も家であんなことをされてはいない」という結論に。
悪いことをしたら叱られる子はいる。でも、言葉で注意されるだけで暴力には至らない。
そもそも、普段うちのお父さんが「お前のせいだ」と言って怒る事柄は、どれも自分のせいではなさそうだ。他の子達はそれで怒られたことはないらしいもの。
何より、みんなたまに喧嘩したりはするけど、普段はおうちの中でビクビクすることもなく、家族とお話をしたりお出かけしたりして楽しく過ごしている。
「楽しく」過ごせている家族がいるなんて。
…もしかしたら、自分も本当は楽しく過ごしていいんじゃないの?
そうできてないのは、お父さんのせいなんじゃないの?
魚田の世界はひっくり返った。
今まで絶対だと信じていた父親は、大きな間違いをしているようだった。
とは言え、いつも偉そうに魚田を物のように扱う父親に意見するのは怖すぎる。
お父さんのことを話したらおかしいと思われてしまいそうな気がして、友達や周囲の他の大人に相談することはできなかった。
どうすればいいのかが分からなくて、一人で悶々とする日々が続いた。
もうすぐ春休みに入るというある日、学校帰りの魚田は公園のベンチに座って俯いていた。
その日は家に帰るのが怖かった。
朝、仕事でトラブルがあったらしい父親が電話で大声で怒鳴っていたのを思い返す。こういう時は、学校から帰った途端に八つ当たりされる可能性が高いのだ。
でもここで時間をつぶしていても、いずれは帰らなきゃいけないし… でも帰ったらたぶんすぐ洗面器行きだし… でも…
ボロボロのスニーカーを視界に入れながらぐるぐると考えていた時だった。
「さっきからずっとここにいるけど、どうしたの?」
頭上から聞こえてきた声に、堂々巡りの思考を止めて顔を上げた。
ベリーショートの茶髪の、知らない大人の人が心配そうに魚田を見ていた。
魚田との身長差は10cmくらいであろう、小柄な人だった。
「…」
「知らない人に話しかけられても無視しましょう」という学校の先生の言葉は頭にあったが、なぜかこの人は大丈夫な気がした。味方になってくれる気がした。
魚田はざっとではあったが、お父さんがひどいことをすること、今日は特に機嫌が悪そうだから帰りたくないこと、でも帰らなきゃいけないことを話した。
ベンチの隣に腰かけたその人は相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
「そっかそっか、それは… ひどいね」
そして、服のポケットから2つに折りたたんだメモを取り出し、魚田に手渡した。
「ごめんね、私には何もしてあげられないけど、辛いならそこに連絡したら必ず助けてもらえるよ。電話でもメールでもいいんだよ。
…ごめんね。でも、大丈夫だよ」
そして、背を向けて去って行った。
怪しいと思わないでもなかった。
でも、自分の話をこんなに聞いてくれた大人の人は初めてだった。
それに「大丈夫」って言ってくれた。信じていいはずだ。
メモを広げてみた。
記されていたのは、スマホのものと思しき電話番号とメールアドレス。
そして、その持ち主の名前。
「…⁉︎」
魚田は目を見開いた。
帰宅すると、すぐさま父親に風呂場に連れ込まれた。
タイル張りの床には、すでに満々と水で満たされた洗面器。
「テメエがバカなせいで、お父さん仕事失敗しちゃったじゃねーか!」
後頭部を殴るような勢いで水の中に我が子を押し込んだ。
ドタバタともがく身体。
ああ、イラつく。コイツの、全部コイツのせいで…
ぽん。
ふと、小さな頭を抑えつける右腕の付け根、肩のあたりに何かの重みが加わった。
振り向いた先には、見知らぬ人物。
「ああ? なんだテメ…」
罵倒しようとした言葉はしかし、途中で途切れた。
家の中に見知らぬ人物がいることの異常性に気が付いたから。
厳密には「見知らぬ人物」ではなく、ニュースで見たことがある人物なことに気が付いたから。
そういう理由もあった。
しかし、1番の理由は、
言い切る前に、首を落とされてしまったからだった。
抑えつける力が消え去ったことと、唐突に現れた生臭さに気付き、水中からパッと顔を上げた。
振り向いた目に飛び込んできたのは、あたかも当初からそういう色であったかのように壁も床も天井も電気もバスタブもシャワーも石鹸もシャンプーもリンスもタオルも一面真っ赤に染まった浴室。
それと、返り血をかぶってはいるが、コーヒー色のフルフェイスのヘルメットをかぶり、首から下は全てがチョコレート色の大きなマントで覆い隠された誰か。
たった今父親の首を胴体から切り離した、大きなハサミの柄を両手で握っている。本当に大きなハサミだ。全長で本人の身長と同じくらいはある。
魚田も、その人物には見覚えがあった。
「首斬りスパロウ…」
名を呼ばれた殺人鬼は、魚田をしばらく無言で見つめた。
が、やがてマントを翻し、廊下を駆けて行った。
魚田は床に置かれた、さっきまで自分が顔を付けていた洗面器に目をやった。
驚愕の表情のまま固まっている生首の横のそれは、まるで水が全て入れ替わったかのように、気味の悪い赤い液体をたたえていた。
父親の死後、魚田は近所の親戚に引き取られることになった。
親戚達は親切で、魚田は今まで味わったことのない幸せな暮らしを送れるようになった。
でも、全てが良くなったわけではなかった。
入れ物の中に入った水が、怖くてしかたなくなった。
洗面器、バスタブ、洗面台、バケツ、プール、コップ、ペットボトル。とにかく何かに入れられた液体は、あの日風呂場で目にした洗面器の中身と同じように全てどす黒く赤い血に見えて、パニックになってしまうのだ。
雨やシャワーは問題ない。池や川や海なども魚田からすると入れ物に入っているという感じはしないので平気。だが、それでも泳ぐことは怖くてできないし、しばらく眺めていると気分が悪くなってしまう。
自覚はなかったが、あの洗面器の光景は相当強く心に焼き付いてしまっていたようだった。
心はまだ、「入れ物」から出られていないのだ。
周囲は魚田のそんな症状を理解しており、外面の良かった魚田の父親が殺されたことで発覚した虐待のことも知っているので、色々と配慮をしてくれている。
水泳の授業を受けなくてすむようにしたり、容器の中に水があるのが見えさえしなければ大丈夫だからと、飲み物を渡す際は中身が見えない水筒に入れる、紙パックのものにするなど。
また、定期的に
親友の水住が言っていた。この病院にはサンマやサメがいると。
特にサンマは、入ってすぐ、待合室にいるのだと。
でも、魚田は見たことがない。
確かに待合室には、大きめの水槽も置けそうな棚がある。でも、魚田がカウンセリングに行った時に、そこに水槽が置かれていたことは一度もない。
魚田は知っている。周囲のみんなが優しいことを。
だからもし、自分が「こんな症状が出るようになったのは自業自得なんだ」などと言おうものなら、絶対に否定されることを知っている。
「君は何も悪くないよ」、「自分を責めないで、大切にしてあげて」、「私達こそ、あなたがあんなに苦しんでいたのに気付かなくて本当にごめんね」
そんな風なことを言うのだろう。
そして、きっとそれは何一つ間違っていないのだろう。
自分は何も悪くないし、楽しく過ごしていいのだろう。
それでも、心のどこかで、ほんの少し、ほんの少しだけ、思ってしまう。
これは、あの日、公衆電話からあのメモに書かれた番号に電話をかけたこと。
そして。
首斬りスパロウを見た瞬間。
「ああ、本当に来てくれたんだ」と思ったことの報いなのではないかと。
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