篠宮 悠の平生オブリビオン

花炭 白

プロローグ

「久しぶりね」


初対面の彼女は僕にそう言った。


「.....はじめまして」


よく意味が分からず、僕はとっさにそう答えた。




どこからか聞こえる部活動の掛け声、夕日が差す廊下、そして他クラスの教室を横目にのぞくと何人かの女子生徒が和気あいあいとおしゃべりをしている。


そんな、青春の1ページと呼ぶにふさわしいであろう情景を瞳に映しながら、部室へ歩みを進める。


この公立 川嶺かわみね高校は全校生徒約600人のいたって普通の進学校だ。ゲームの強さで序列が決まったり、魔法を教えるファンタジーな世界観は皆無。クラスメートはこれまた良くも悪くも普通で波乱の予感は微塵も感じない。思春期男子(僕)の淡い期待を裏切る現実の無情さは入学当初の僕の心にささくれ程度の傷を与えた。


今、僕が向かっているのは“文化研究部”だ。そもそも部活には入っていなかったのだが、我らが1年3組の担任 あおき先生に 「篠宮君、部活入ってないんでしょ? よかったらうちに入らない?」と、面談の時に言われたのがこの部に入ったきっかけのようなものだ。

「すみませんが、お断りさせt...」

「あ、入部届はもう記入済みだから大丈夫よ」

さっきの提案はなんだったのか、二言目には入部することの強要ときた。先生は生徒名のところに俺の名前、“篠宮 悠”と既に書かれている入部届を持っていた。部活名は“文化研究部”...

「ちょ、いくら先生でもそれは...」

「じゃあ部活への参加は来週からだから」

先生は(それ以上の追求は泣きを見るわよ?)と言わんばかりの笑みを浮かべていた。ほんと、なぜこうも独身女性の冷笑って怖いのだろう。

後で聞くと先生は、入学から二ヶ月の間の俺の言動の協調性のなさ(自覚はないのだが...)を問題視したらしく、部活という集団でそれを学ばせようとしたらしい。

なんだかそういう“口実”だ、と聞こえなくもなかったが...


――まあ、嫌々やらされる苦痛なんてすぐに“捨てられる”のだけど.....



人は嫌なことがあったら忘れたいと思うし、出来ることなら経験したくもないと思うのが普通だろう。でも、そういった負の感情というのは必ずしも当人に傷を与えるわけではない。いや、傷を与える“だけ”ではない、というのが適切だろうか。不幸自慢というのは人と会話していて結構話題に上がるし、幸福というものは対義語である不幸というものなしでは認識されないだろう。プラスのものがどれほどプラスなのかは、不幸との差によって実感するものだから。人は負の感情にすがって生きていると僕は思っている。


しかしながら、そんな負の感情にすがりたくてもすがれない人物がいる。それが僕、篠宮 悠だ。

さかのぼること三年と二ヶ月前、中一の僕は数学のテストの点が悪かったことに対する“悔しさ”を捨てた。消した。そしてなくなった。残ったのは心の虚無感だけだった。この出来事については、残滓ざんしだけが残っており、もう具体的には思い出せないのだが。

僕は嫌なことを心から排斥することができるようになった。よくラノベの異能バトルものを読んでいると、「主人公は最初、どうやって自分の能力を知ったのだろう」と思う。普通に過ごしていればまず、異能なんて使わないし、それはすなわち自身の異能を自覚できないことを意味する。


――では僕は自身のこの特性をどうやって知ったのか


――差出人不明の手紙で教えてもらったからだ


まあこの手紙に関しては僕もよくわかっていない。梅雨のある日、登校したら引き出しの中に入っていたのだ。手紙には「もし自由に不満を捨てることが出来たら、あなたはどうしますか」と、印刷されていた。ちなみに手紙はその日の下校時にこつ然と消えていた。

テストの件の違和感でその手紙の言わんとしていたことはなんとなく察しがついた。


確かに負の感情は必要なものだと思っていた。思っていたのだが、やはり理屈と感情は違うもので、最初は半信半疑、そして、「簡単に感情を手放してていいのだろうか」という気持ちで、この特性を使うことに関して抵抗があった。だが慣れというのは恐ろしいもので、あまりに簡単に嫌なことを忘れられるものだから、いつしか僕は負の感情を手放すのが癖になってしまった.....。





なんて、まるでこれから物語でも始まるかのような、回想や心の中の独り言で基本設定を説明するラノベチックな話はさておき、目的地である部室についた僕は扉を右にスライドさせ、夕日に沈むその部屋へ足を踏み入れた。

腕時計は午後五時三分を指している。

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