第3話:異世界帰りの少年
薄暗い闇の中でカチャカチャと音がする。
ここは、〈アナスタシア〉という大陸の辺境にある洞窟だ。付近の住人さえ寄り付かないその魔窟の遥か地下深くで、数人の男女から成るパーティーが探検を続けていた。
「よし、これでもう安全だぜ」
パーティー内で最年少の少年が、満足気に顔を上げた。この世界で〈レンジャー〉と呼ばれる職業に就いた彼は、トラップを除去するスキルを保有している。
彼は元々、この世界の住人ではない。遠い異世界の、日本という国で生まれ育った少年だ。
彼の名前は
「ありがとう、ワタル」
空色の髪をした少女が、少年に礼を言った。
彼女の名はフィリス=リュクルゴス。滅びた王国を復興させるための旅をしている、王族の末裔である。
「こんなの楽勝だぜ」
「……意外に時間が掛かってしまったな。一旦、地上へ戻ろう」
と、提案したのは壮年の魔道士、ディムだ。彼こそが、古の召喚魔術を使い、渉をこの世界に呼び寄せた人物である。
仲間たちが同意すると、ディムは慣れた杖さばきで地面に魔法陣を描き始めた。
「みな、この陣の上に集まってくれ。ワタル、線は踏むんじゃない。……では、行くぞ。ウォラーレ!」
渉たち一行は、ディムの魔法で付近の村まで瞬間移動した。
地上では、まだ太陽が空の高い位置にあった。洞窟の奥とは比べ物にならない光の奔流が、渉たちの目を眩ませた。
「腹減ったなあ」
渉が言った。長い時間を洞窟で過ごした一行は、まず腹拵えをすることで合意した。
渉たち一行は、村でたった一つの宿屋兼料亭を訪れた。数少ないメニューの中から、各々好きな料理を注文した。
食事が始まってしばらく経った頃、フィリスが渉に話しかけた。
「ワタル、そろそろ元の世界に帰らなくて良いのですか? ご家族やお友達も心配しているでしょう」
それはここ一ヶ月ほどの間、フィリスが定期的に渉に訊ねていることだった。
渉は手と口を休めて、彼女の方に向き直った。
「心配ないよ。しばらく帰らないとは伝えて来たし、あっちでオレがいなくなって困ることなんて別にないんだ」
渉のこの答えはもう、決まり文句になりつつあった。
そう答えながら、元の世界はいったいどうなっているだろうか、という現実的な心配は渉の中にあった。
(帰ったらすっげえ怒られるんだろうな。そういや、宿題もやってなかったっけ)
考えないようにしていた心配事が、渉の頭の中でムクムクと起き上がってきた。渉は脳内でそれらを思考の彼方に追い払った。
なんとかなるだろう、と渉は高を括っていた。真面目に学校に通っていても大したものは得られない。渉はそう思っていた。渉にとって、この異世界で冒険を楽しむことの方がより重要なことだった。
彼は、まさかはるばるアメリカから訪ねて来た
渉の説明を聞いて、いつもなら「そうですか」と引き下がるフィリスだったが、この日は違った。彼女は続けてこう訊ねた。
「なにか、元の世界に帰りたくない理由でもあるのですか?」
「ごほっ」
渉は飲み込もうとしていたパスタを喉に詰まらせそうになって、むせた。
「だ、大丈夫ですか?」
フィリスは、慌てて渉に水を差し出した。
渉は呼吸を落ち着かせながら、なんと答えようか迷った。たったいま頭から追い出した元の世界の色々な心配事について、もう一度考えを巡らせる。
二人の様子を見ていた魔道士のディムが、重い口を開いた。
「お主をこの世界に召喚した私が言うのもおかしいかもしれんが、ここは本来、お主がいるべき世界ではない。
このところ冒険が長くなってしまっているが、いま攻略しているダンジョンではもう、困難な部分は抜けた。私たちとしては、このタイミングでお主にしばらく元の世界でゆっくり過ごしてもらいたいと思っているのだ。
私たちは、お主をこの世界に取り込むつもりはないのだから」
フィリスや、パーティーの残りのメンバーが一様に頷いた。
「そんなあ」
渉は大きく肩を落とした。彼としては、まだまだ冒険を続けたいところだったのだが、どうやら我がままを主張しても仲間たちの顰蹙を買うことになってしまいそうだ。
「そういうことですから、一度、元の世界のご家族やお友達に顔を見せに行ってくださいね」
フィリスの語調は、先ほどまで意思を確認する形だったが、今回は提案を強く勧めるものになっていた。
渉は突然、彼女の掌を自らの両手で包み込んだ。それを見たパーティー内の騎士風の男がガタッと椅子を鳴らしたが、ディムは構わずにゆっくりとお茶を啜っていた。
「フィリス。オレは君が望むなら、ずっとこの世界にいてもいいとさえ思ってるんだ!」
渉のその言葉に、フィリスは顔色ひとつ変えずに即答した。
「――望んでおりませんので、結構ですよ」
騎士風の男がほっと胸を撫で下ろしていた。
打ちひしがれた渉は、一旦、元の世界に帰ることに同意した。
*
一方、渉が通っていた中学校では、二学期が始まって早や二ヶ月近くが経っていた。その間、渉の従姉であるエレナ=スターマインは彼の代役を完璧にこなしていた。
ある木曜日の夜。渉の母、紹子はそんなエレナの偉業を褒め称えていた。
「エレナちゃんは本当にすごいわね。五教科満点なんて見たことないわ」
エレナは渉として受けた中間テストで全教科満点を獲得し、周囲を驚かせていた。それまで毎度のように赤点を量産していた渉を考えると、起こり得ないほどの快挙である。しかし、名門カリフォルニア大学に通う彼女にとっては、逆に誤答をする方が難しかった。
「こんなことはナンでもありません。
それよりショーコ、渉はいつ帰って来るんデスか? もうこれ以上、渉の代わりはゴメンです」
エレナは毎日のようにそう訴えていた。
紹子の反応はこの日も同じだった。エレナに対して申し訳無さそうに首を振った。
「それが、何の連絡もないのよ。困ったわね」
エレナは深々と悲嘆の溜め息を吐いた。
その時、誰かが階段を降りて来る音がした。エレナと紹子が驚いてそちらを見ると、二人のよく知る人物が居間に現れた。
「母ちゃん、ただいま。あれ? エレナ、来てたの? 今、フロリダじゃなかったっけ」
渉だった。二ヶ月近くも留守にしていたにも関わらず、まるで少し友達の家に遊びに行っていたかのような軽い雰囲気だった。
「ずいぶん遅かったわね」
紹子はそんな渉の態度には慣れたものだったが、エレナはそうではなかった。
「ワタル! 今まで何シテたのよ! あなたがいない間、ワタシがどれだけ苦労したと思ってるノ!」
エレナは、今にも掴みかかるような勢いで渉に詰め寄った。
「え、なに? エレナ、どうしたんだ? 何かあった?」
渉は彼女の剣幕に後退りしながらも、悪びれたところのない調子で訊ねた。エレナが自身の身代わりをしていたという事情をまだ聞いていないので、無理もないことだが。
「とりあえず、イッパツぐらい殴っても良いでしょ?」
エレナはそう言って拳を固めた。
渉は、慌てて両手を構えて盾代わりにした。
「良いわけあるか! なんでそんなに怒ってるんだよ。……痛てっ! ぐはっ」
渉の疑問に誰かが答えるより早く、エレナの怒りの拳が次々と渉に襲いかかった。いくつかのパンチが渉のガードをすり抜け、肩や脇腹にダメージを与えた。
それから一分が経つ頃、渉は床に頬をこすり付けて突っ伏していた。
「うぅ……。オレがいったい何をしたっていうんだ……」
「ジゴウジトクよ」
エレナは少しだけストレスを解消できたが、まだ渉に対する怒りは消えていなかった。
息子が姪に殴られる様の一部始終を見届けた紹子は、ようやくフォローらしい言葉を掛けた。
「あなたがいない間、エレナちゃん大変だったのよ。そのぐらいで済むなら安いもんね」
「え……?」
その言葉を聞いても、渉には今ひとつピンと来なかった。が、ひょっとしてこういうことだろうか、と思ったことを口にしてみた。
「まさか……オレの代わりに学校に行ってくれてた、とか……?」
エレナと紹子が大きく頷いた。
渉はばっと飛び上がって、エレナに土下座した。
「おおぉぉ、そうだったのか! それはすまんかった! ありがとう、エレナ様!」
渉は何度も床に額をこすり付けてエレナに頭を下げた。そんな渉の態度を見て、エレナの怒りは少し収まってきた。
「……明日からは、ちゃんと学校に行ってネ」
「あぁ、もちろんだよ」
渉は力強く胸に手を当てて誓った。
(……よかった。これでもうチュウガッコウに行かなくて済むわ)
エレナは心の底から安堵した。
*
翌日、久しぶりに登校した渉はクラス中の注目を集めた。誰もが渉を見て驚き、何度も見返してはヒソヒソと友達同士で話し始めた。
(……まあ、しばらく来てなかったし、初日はこんなもんかな)
渉はそんな風に考え、深刻に捉えることはしなかった。
すると、ホームルームが始まる直前に、青い顔をした浦田が渉に話しかけてきた。
「お前、坂口なのか……?」
渉は浦田の言葉に呆れた。
「なんだよ。しばらく会わない内にオレの顔、忘れちゃったのかよ」
だが、浦田は青い顔のままだった。
「……お前、だって性転換して女になったんだろ。どうやって元に戻ったんだ?」
「はあ!?」
渉は素っ頓狂な声を上げた。
(オレが性転換しただって!?)
寝耳に水だった。渉は当然、性転換などしていない。しかし、浦田の態度は冗談を言っているものではなかった。もしや……と、渉の頭の中に一つだけ思い当たることがあった。
(まさか、エレナが「オレの代わりに学校に行ってた」ってそういう意味だったのか……?)
信じられないことだったが、あの母親ならやってもおかしくはない、と渉は直観的に思った。また、それを仮定すると、エレナがあれほど怒っていたことにも説明がつくように思えた。
しかし、どういう話になっているのか正確なところを把握しておかないと、ボロを出してしまいそうだ。
(なんかよくわかんないけど、適当に誤魔化しといた方が良いよな……)
そう思った渉は、次のように返事をした。
「……え、えーと。ま、まあ気にするなよ。たまにはそんなこともあるだろ」
浦田は眉根を寄せて険しい目つきをした。
「いや、気にするし。普通はそんなことあるわけねえだろ」
「アハハハッ。そうだよなぁ」
渉は無意味に笑ってみせたが、そうするしかなかったというのが実情だ。
「…………」
浦田はまだ胡乱気な目をしていたが、丁度良いタイミングでホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「おーい、みんな。席に着け」
担任教諭の橋本が教室に入って来た。浦田は「チッ」と舌打ちしながら自席に戻った。
渉はこの日の授業が始まってからも、休み時間などで数名の生徒に囲まれたり質問を受けたりした。が、適当な言い訳を作ってその場から逃げたり、のらりくらりと当たり障りのない返事をして、なんとかその日一日をやり過ごした。
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