えりなのおたより 〈少女の清冽な魂を綴る連作〉
しゃくさんしん
白い森から
拝啓、愛しいパパ。
こちらはもうすっかり秋めいて、朝晩などは肌寒くなってきましたけど、いかがお過ごしでしょうか。そちらはまだ爽快な夏の余韻が町に残っているかもしれませんね。
ここの生活にも段々と慣れてきましたのでご安心ください。味気ない食事も、身体が洗われるようで、かえって気に入ってきたくらいです。
しかし殺風景な病室で一人で寝るのはまださみしくて、大きな窓から星のよく出た夜空を眺めては、パパもこの空を見てると自分を慰めることがよくあります。そちらは星など出ていないでしょうけど。
星ばかりでなく、そちらでは見られないようなものがここにはたくさんあります。
この間なんて、一匹の小さなリスが、開け放した窓から私の病室に迷い込んできました。
窓のところにいてこちらを物珍しそうに見ていて、知らず知らず微笑みのもれるような愛くるしさでした。
戯れにちゅっちゅっと口で音を鳴らしてみると、なんとその子は軽やかな足取りで駆けてきて私の掌に乗ってくれました。いのちのあたたかさが肌にやわらかく滲みました。
綺麗な毛並みの背中を、指の先でそっと撫でてあげると、のどかな様子でじっとしていました。
私の手の冷たさを嫌がってか少しするとまた森へ駆けて行ってしまいましたけど、私は近頃雨の降る日でさえ窓を少しだけでも開けて、あの子がまた来てくれるのを楽しみにしています。
ここのみなさんは、まだ十四歳の子どもの私が珍しいのかとてもやさしくしてくれます。
とりわけちえりさんは、お姉さんがいたらこんな風かと思えるほど私を甘やかしてくれます。
ちえりさんというのは、パパに連れられて私が病院に入ったあの日、パパの顔を微笑みながらじっと見つめていた俯きがちな女の人です。覚えていますか?
ああ、そういえば、あの時ちえりさんは抱いていらっしゃったモフモフのペンギンをパパの胸に寄り添わせていたけど、あれはパパを一目見るなりいい人に違いないと思ったからだそうです。
ちえりさんはペンギンを子どものように大切にしていて、いい人を見ると抱いてもらいたくなるそうです。今度また同じことがあれば抱いてあげてくさいね。パパが抱いてくれなかったことをちえりさんは残念そうにしていました。
でも、次にパパがすんなり抱いてあげると、今度は私がしょんぼりしてしまいそうです。ちえりさんがかなしむのも嫌なのに、どうすればいいでしょう。いつもわがままでごめんなさい。
ちえりさんのペンギンは物心ついた時から傍にあって、誰にもらったものか、どこから流れてきたのか分からないそうです。
私は一人の寂しさで眠れないと、看護婦さんたちの目を盗んでこっそりちえりさんの病室まで行ってベッドに入れてもらうのですけど、そういう折にちえりさんはつらつらと思い出などをお話ししてくれます。生まれてからずっと家にばかりいてパパと遊んでもらってきた私ですから、ちえりさんの過去の悲劇をいつも童話のようにどきどきしながら聞いています。
ちえりさんは孤児だそうです。
色んな人から施しを受けて生きてきたのだと、かなしそうに言っていました。
どうしてかなしそうなのか私が不思議がっていると、きたならしくて堕落した方法で他人に甘えることでしか生きてこられなかったからとおっしゃっていました。
どういうことか分かりませんでしたけど、それ以上聞くのは、はばかられました。
誰からどう与えられたのか知らないペンギンを、ちえりさんは人生でたった一つの、他人からいただいた真実の愛と思っているそうです。
いい人を見ると、ペンギンをくれたのはこの人だろうかときまって思うそうで、ペンギンを抱いてほしくなるそうです。
誰が本当の贈り主かいつか分かるといいですねと私が言うと、ちえりさんは穏やかな面持ちでうなずいて、もう分かってるの、世界中のいい人みんながくれたの、とおっしゃいました。とても幸福な言葉だと思います。
私はその言葉をいつも胸にしまって、パパと離れている儚い身の上を憂う時にいつも思い出すようにしています。パパにもこの言葉を教えてあげたいとずっと思っていました。
大切なことを書くのを忘れていました。ちえりさんのペンギンを絶対に、ぬいぐるみとかおもちゃなんて風に言わないようにしてください。
ちえりさんはそれをとても嫌がります。ペンギンを片時も手放さないほど大事にしていて、深く心を通わせているからです。
そんなひどいことを言うと、ちえりさんだけでなく私も落ち込みます。パパを叩いたりしてしまうかもしれません。そんなことはしたくないです。
つい何日か前にも、ちえりさんはそのことで怒ってしまいました。
からかったのは、みなさんから金剛さんと呼ばれているオジサンでした。
金剛さんは顔が金剛力士像みたいに迫力があるので金剛さんだそうです。
その日の、五時のお歌の時間でのことでした。
きっかけは確か、ちえりさんがペンギンの歌声に、綺麗に歌えるようになりましたね、とほめながらペンギンの頭を撫でてあげたのを、金剛さんがけらけらとお笑いになったのでした。
からかう金剛さんに、ちえりさんは傍にあった椅子を投げつけてしまいました。
私もみなさんも怯えて何もできないでいるうちに、看護婦さんたちが泣きじゃくるちえりさんの手足を縛ってどこかへ引きずっていきました。
激しく怒ったり泣いたりすると、いつもそうして連れて行かれるきまりです。どこに行くのか私はまだ知りません。
でも連れて行かれた人はみなさん、数時間して戻って来てもしばらくはぼうっとしてしまってお話しもしてくれません。
その日のちえりさんもそうでした。
夕食の時間に戻って来ましたけど人形のようになってしまっていました。艶やかな長い黒髪がぼさぼさに荒れていて、いつもうっとりするように白い顔が青白くなっていました。それでもペンギンだけは強く抱いていました。
その日の夕食はみなさん静かでした。いつも夕食の時にだけ許されるテレビもつけてもらえず、話す人もなく、白く清潔なひんやりする食堂に食器の音だけが微かに鳴っていました。
なんとなく気のつまるような思いで窓の方に目をやると、森が夜の暗がりに沈んでひっそりとしていました。
つまらないことを想い出してしまいました。
なにか他のことを書きたいです。
近頃の私の日々の過ごし方といえば、パソコンもゲームもないからでしょうか、風や草木に親しみをおぼえるようになりました。
はじめは手持ちぶさたでしょうがなしに、窓から病院の周りを囲む森を眺めたりしていたのですけど、いつからか葉の彩りの移ろいなんかに心が弾むようになってきました。
先生に最近ようやく許してもらって、朝にはきまって森を歩いています。
このごろの朝の森はとても美しいです。
風がふいている感じがしないのに冷え冷えとして、あてもなく歩いているだけで心が澄んできます。
夜と朝の境の、やわらかい白い光が、木々を透かしてぼんやり漂います。明るいとも暗いともつかないような曖昧な光で、まるで世界のどこかですやすや眠っている貴婦人の、夢の中に迷い込んだような気になります。ここの森はそういうどこかに本当につながっているかもしれません。
だいたいいつも、おぼろげに霧がかかっています。天使たちの吐息が揺らめいてるような、慎ましやかな神々しさです。
霧に静かに洗われて、木々たちは凍りついたように清らかです。
青々として愉快な夏の木々も好きですけど、こういう姿も私は大好きです。そのひっそりとしていて清潔な感じに救われます。
時々、鳥たちのさえずりも聞こえますけど、夜も明けきらないうちですからどこか恥ずかしそうで、遠慮がちです。
私は朝日が強まるまで、ずっとそうして森の中を散歩します。
そのうち次第に足が地面を離れます。
これはいつもということではなく、霧のかかりぐあいの美しさによるもので、静かであればあるほど、清らかであればあるほど、すぐに私はふわふわとしていきます。
一日のうちにこれよりも幸福な瞬間はありません。
霧にとけていくように心がぽっかりしてなにもかもを失っていきます。
救われるのです。
朝日が強くなるにつれて私はまた地面に落ちていきます。
霧が私のなかから抜けて、森からも消えていきます。
一日のうちに最もさみしくなるのはその瞬間です。
パパと一生会えないかもしれないなんて、思ったりしてしまいます。
またかなしいことを書いてしまいました。
ここにきてから、わけもしらず涙の流れることが多くなりました。
はやく迎えにきてください。
九月二十四日 白い森から あなたのえりなより
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