さよなら木霊

斉藤ハゼ

中野さんと僕

二〇〇九年九月十九日 羽田ー札幌

第1話 中野さんと僕と五泊六日

中野さん、という女の子と知り合ったのは本当に変なきっかけだった。

ソプラニーノリコーダーという笛がある。ソプラノより一回り小さな、ファから高いレまで出る、ちょっとマイナーな存在。小学校で使うのはソプラノ、中学になってアルト。一般に縁があるのはその二つ。僕がソプラニーノリコーダーを知っているのは、笛マニアだからとか趣味がリコーダー演奏とか、そういうわけじゃない。結婚式の余興で、何故か友人四人でお祝いの歌を披露することになった。そういうのができる人間は自然と集まっていることが多い。一人がギターを弾くといい、一人は合唱で鍛えた喉を披露するといい、一人は南米かどっかの太鼓を叩くといった。

「おまえは?」

みんなの目線が僕に集まる。どうしてそんな目で僕を見る。世の中の人間すべてがステージに立って音楽を披露できるわけじゃないんだぞ。でも、彼らはその眼差しが含む傲慢さに気付いてはいない。いい、奴らなんだ。

「小学校でやった楽器……笛とか、鍵盤ハーモニカとか」

よし、それならお前はソプラニーノリコーダーを吹け、南米風にアレンジした「乾杯」でもやろう、と誰かが言い出した。それ、お目出度いのか。僕の頭の中には、駅前にいるストリートミュージシャンが演奏する「コンドルは飛んでいく」の、哀愁切々とした響きが鳴っていた。

調べたところ、ソプラニーノリコーダーは大きな町の楽器店に行けば売っているという。普段乗らない路線の電車に乗って買い求めに行ったそれは、ガラスケースに陳列されてはいたが二千円かそこらの、懐かしいほどチープなプラスチック。アイボリーの吹口、焦げたブラウンのボディ。楽器店なんて何年も足を踏み入れていなかったから、そわそわとしてしまう。買い求めて、店を出たところで、後ろから呼び止められた。

「お客様! あの、クライネソプラニーノをお求めではなかったですか」

「いや、あの、大丈夫です、これで」

「ソプラニーノでよろしかったですか!」

はい、よろしいです。よろしいです。ただでさえ知らない土地で、よくわからない物ばかり売っている店で、心がざらざらしている時にこの仕打ちは辛かった。

やっとの思いで手に入れたソプラニーノ。築二十五年のアパートでそっと息を吹き込んでみると、ふぉぉぉぉ、と音とも息ともつかぬ弱々しい音がした。これでは、ドかソかもわからない。もう少し息を強めると、もう空気を裂くような音だ。ぎょっとしてそれだけでもう吹く気持ちがどこかへ飛んでいってしまった。運指表、ガーゼをくくりつけて唾を拭くのに使う棒、それらと一緒に封印。こんな凶悪なもの家で鳴らせるはずがない。上下左右から苦情がきてしまう。仮に全く隣に音が漏れていなかったとしても、はっきりとした保証がない限り僕の心を強く乱して練習どころの騒ぎじゃない。

笛係を押しつけた連中にメールで相談してみると「公園か土手で吹け、ドナドナを吹け」「エアリコーダー」「スタジオ入り。意外に安いヨ」など、まことフリーダムな意見の中に「カラオケ屋で大丈夫」という人間性を感じる返事があった。僕は人間性の回復を賭けてカラオケ屋で練習することにした。

金曜の夕方、スーツ姿のまま駅前のカラオケ屋で「楽器の練習をしたい」と申し出ると、店員はこともなげに「うぃ」と短く音を発しただけで、僕を部屋へと導いた。問題ない、ということだろう。ソフトドリンクがくるまで楽譜をじっと睨み、彼が去ったのを確認してからおもむろにソプラニーノに息を吹き込んだ。ぴぃよ。ぴぃ、ぷひゃー。アルトリコーダー以来のバロック式の運指。指ならしにメリーさんの羊など吹いてみる。十五年くらい吹いてなかったわりには、うまいと思う。子供の頃、ヤマハ音楽教室に通っていたおかげで、音楽の授業は得意だった。市の音楽コンクールに出たこともある。ランドセルを背負った帰り道はドラゴンクエストやファイナルファンタジーの曲を吹いては笑っていた。おお、僕は、できる。だんだん楽しくなってきた。楽譜を見つめてながら、ゆっくりと指の動きを覚えこむように吹き鳴らす。

僕の心もほぐれて興が乗ってきた時、不意に、誰かに覗かれている気がした。僕が顔を上げた瞬間、扉にはまったガラスの前から、人影がぱっと消えた。紺色の制服みたいだった。安普請の壁を突き刺すソプラニーノの音色が気に障ったのだろうか。リコーダーを吹く手を止めて、暗い目で窓を見つめていると紺色が戻ってきた。制服と体のバランスが奇妙にちぐはぐな、小さな女の子。長い髪の毛を高い位置で二つ結びにしている。年は中学生くらいだろうか。そっと窓からこちらを見る。当然、様子を伺う僕と目が合う。彼女は、みるみる頬を紅潮させた後、ぺこりと黙礼して廊下を走っていった。ぱたぱた、という音が聞こえそうな走りっぷりであった。

その中学生みたいな女の子が中野さんだった。

それから、どうやって僕と中野さんが知り合いメールをしたり本を貸したりするような間柄になったかは割愛する。あまり大事なことではないからだ。

ある日、中野さんからメールがきた。彼女のメールは顔文字がほとんどなく、絵文字が控えめに添えられている。内容は、僕が九月の連休(シルバーウィークというのだそうだ)に予定している、北海道旅行に同行したいというものであった。冗談混じりに、行ってみたい? と聞いたことはある。だけどそれは社交辞令のようなものであって、忙しい高校生の(彼女は驚いたことに高校生だった)彼女が五連休+平日一日、計五泊六日もの間、北海道に来れるはずもないと思っていた。聞けば、ちょうど試験が終わって秋休みの時期で、二十四、二十五日はもともと学校が休みになるのだという。彼氏がいないのは知っていた。けれど、部活動を熱心にやっている彼女が、貴重な休みを長たらしい旅行に費やすなんて。

今回、僕が企画している旅行は「北海道&東日本パス」という普通列車に限り五日間乗り放題になるフリーパスを使って、鈍行列車で好きなバンドの北海道ツアーを追っかけるというものだ。毎日何時間もローカル路線の列車に乗り、文章を書いたり、好きな音楽を聴いたり、知らない風景を見たり、そういう、うすらぼんやりとした旅。どこからどうみても若い女の子の喜ぶようなものではない。だけど、僕の話を聞いた彼女は、「先輩みたい」とつぶやいた。

中野さんの先輩に、電車に乗って遠くの海で詩を書く、とても「素敵な」「あこがれの」人がいるんだそうだ。ベースがうまくて、ボーカルもこなせて、作詞も手がけて、美人で黒髪艶やかなしっかりもの。どんな完璧超人なんだ。もっとも彼女が語る「先輩」たちの話はどれもこれも面白く少し現実離れさえしていた。彼女がその先輩たち全員を、深く敬愛していることがよく伝わってくる。

そんな憧れの先輩みたいな経験、ひらたく言えば真似がしてみたい。あわよくば先輩にすごいね、って言われたい。でも一人でどこか行くのもまだこわい。そうした気持ちが僕と一緒に行きたいと言わせたようだった。

僕は最初断ろうと思った。僕はグループ旅行というものが苦手だ。ふいに目に留まったささやかな、くだらないものをじっくり見たい。自分のペースで歩きたい。ご馳走を食べたいときもあれば、コンビニのパンで済ませたいときもある。知らない土地に刺激されて自分の心にたくさん言葉が溢れてくるときに誰かに話しかけられるのは苦痛だ。僕は、自分のエゴのために断ろうと思った。

彼女は、断ろうとする僕の表情を読んで必死にしゃべり続けた。ご迷惑はかけません、荷物も自分で全部持ちます、好き嫌いだって我慢します、云々。

前々から中野さんの持つ空気、気配に好感は持っていた。猫のような。密やかな。近いのに他人を嫌な気持ちにさせない。向かい合ってお茶を飲んでいて、僕がぼんやりとしゃべらずにいるとき、一緒にぼんやりできる女の子。映画を見る時、隣の座席にいても気配のない女の子。でも、自分の世界に入ってしまうのではなくて、ちょっとだけこっちのことを気にかけてくれる女の子。可哀想なくらい必死な彼女の表情を見ているうちに、この子となら、旅を楽しくすることはあっても、旅を損ねることはないだろう。そんな予感が身の内に湧いてきた。

「……いいよ」

「わ、嬉しいです!!」

僕は彼女にいくつかの条件を伝えた。ご両親に許可をとること。金銭や荷物に関して全部、自分のことは自分でやること。僕はたまに気ままにふるまうけど、中野さんもまた僕に遠慮しないこと。でも、好意まで遠慮しないこと。

彼女はそれらの言葉をひとつひとつメモにとり、わかりました! と大きくうなずいた。

昨日は最終の打ち合わせを兼ねて簡単な買い物をした。今日はこれから羽田空港で落ち合うことになっている。どんな、六日間になるのだろうか。

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