第17話 そして、ゴングは鳴らされた

●真視点




 車のヘッドライトが幽霊坂に広がる闇を切り裂くようにして通り過ぎた。


 一台、また一台と、スピードを上げて走り去ってゆくのは、恐らく幽霊の噂のせいだろう。


 恐怖に震え上ったドライバーたちが、さっさと坂をやり過ごそうとして、アクセルを踏み込むのだ。


 しかし、それも今日で終わる。


 この坂道で泣いていたが、莉帆りほと一緒にあの世へ帰ることができたのだから、今後、幽霊が目撃されることはないだろう。これでようやく幽霊坂も本来の名前を取り戻すことができる。


「いい子たちだったね」


 真之助が空を仰ぎながら、感慨深げに言った。


 つられて視線を上げると、すでに星が瞬いており、それなりに夜が深まる時間帯だった。


「こんな形じゃなくて、できれば莉帆が生きているうちに会いたかったな」


 すると、真之助はオレの顔を覗き込んで面白がるように目を細めた。


「ははーん。さては、莉帆ちゃんに彼女になって欲しかったとか思っているんじゃないの? 惚れやすいなぁ、男心と秋の空だ」


「んなわけ……ねえじゃん!」


 ムキになって声を荒げてみせたのは、オレの考えがいちいち真之助に筒抜けでしゃくだったことも大いにあったが、本当の理由は胸に残る罪悪感を隠し通すためだった。


『一緒に死んでくんない?』


 そう莉帆から誘われたとき、一瞬でも天秤が死の方へ傾いたことを真之助は知らないのだ。


 だから、不都合な話題を挿げ替えるため、「それにしても」と声高に言った。念には念を入れ、少しでも陽気に聞こえるように明るい表情まで取り繕った。


「おいねも心配性だよな。守護霊界の掟を破ることに怯えるなんてさ。真之助と喋るくらいどうってこともないのにな」


「おいねちゃんは責任感が強いからね」


 どことなく真之助の声が沈んで聞こえるのは、オレの心に蔓延はびこる後ろめたさのせいだろうと、さらに笑い声を上げてみた。


寿々子すずこさんも言ってただろ? 仮に守護霊界の掟を破ったとしても、結局は『バレなければ結果オーライでございます』って」


「あれは寿々子さんがまことを騙すためについた嘘なんだよ」


「オレを騙すためって、寿々子さんはそんなことしねえよ」


「いいや、真は騙されたんだ」


 このときになってオレは真之助の様子がおかしいことに気づき始めた。いつもの真之助ならば、乱暴に決めつけることは言わない。珍しく余裕がないように見える。


「寿々子さんが真に近づいた本当の理由は」


 真之助は強い口調で続けた。


「成瀬さんを守るために真を利用するつもりだったからだよ。だから、守護霊界は寛容だと嘘をついた。守護霊界の掟はね、校則なんかとは違って、真が思っているよりもずっと恐ろしいものなんだ」


「恐ろしいって……どういう意味だよ?」


 真之助に掟を破ったらどうなるのか、前に学校の中庭で訊ねたことがあった。そのときは有耶無耶うやむやにされ、オレも深く追求しなかったのだが、今答えに窮する真之助の不自然な沈黙にザラザラした空気が混じっていることに気がついて、そこに全ての答えがあるような気がした。


 まさか──。


 ひとつの憶測が打ち上げられた。


「まさか、おいねが話していた昨日逮捕された守護霊って……」


「寿々子さんのことだよ。彼女は私の目の前で逮捕されたんだ」


「どうして?」 


 引き際を失った笑みが痙攣した。


「守護霊界の掟を破ったからだよ。掟を破れば逮捕され、おとがめを受けることになる。生者の世界も私たちの世界も御定法ごじょうほうによって成り立っているからね」


 今度はどんな感情も乗っていない声だった。淡々と事実のみを述べるアナウンサーのようであり、無機質なAIのようでもあり、それが余計にオレを苛立たせる。


「寿々子さんを助けてやればよかったじゃねえか。真之助ならできたはずだろ?」


「何度も言うけど、私たち守護霊は掟の前では無力なんだ。どうすることもできない。でも、心配はいらないよ。成瀬さんにはちゃんと新しい守護霊が付いているから」


「オレが心配しているのはそこじゃねえよ!」 


 守護霊界も生者の世界のように御定法で成り立っていると言ったのが、胸をざわつかせている。

 

「逮捕された寿々子さんはどうなるかを訊いてるんだよ。お咎めは叱られれば済むって話だよな?」


「寿々子さんは極刑に処せられた」


「ふざけんな!」

 

 頭の中で試合開始のゴングが鳴った。


 真之助の胸ぐらを掴んで引き寄せると、真っ赤な怒りの炎に燃えるオレの姿が、青々と冷えた静かな瞳に映っている。


「そんな大事なことをどうして黙っていた?」


「真には真実を受け入れられないと思ったから」


「嘘だ、寿々子さんを見捨てた卑怯な自分を見せたくなかったからだろうが!」


 どんなに待ち望んでいたことか。


 真之助の整った顔に拳をぶち込む夢がこんなに早く実現するとは思ってもみなかった。


 繰り出したパンチがゴッと鈍い音を立て、真之助の頬にめり込んだ。貴重な美術品を無残に破壊するような背徳感が湧き起こったのも束の間、真之助が体勢を崩した隙をついて、二発目、三発目と続けざまに拳を振るうち、興奮で上書きされた。


 そして、四発目。腕を振り上げたところで、冷や水をかけられた。


 真之助の瞳が涙で滲んでいたのだ。


 理性が一気に立ち戻って来る。


 通常、生者のオレが幽霊である真之助に触れることなど叶わない。


 触れられるときがあるとすれば、物体と霊体が接触できるよう霊力を調節したときだけ。


 つまり、真之助はわざとオレに殴られたことになる。


 寿々子さんの最期を黙っていた詫びのつもりか、それとも彼女を助けることができなかった自分を罰したつもりなのか──。


 重い荷物を手放すように真之助を解放し、オレはその場にしゃがみ込んだ。


 真之助をぶっ飛ばすという夢が叶ったのに、感動も達成感も湧いてこなかった。


 あるのはただ、後悔ばかり。


 無抵抗の真之助を殴ってしまった後悔と寿々子さんを助けられなかった後悔。


「イヤだ、そんなのイヤだっ!」


 膝頭に額を擦り付けても、打ち付けても、悔恨かいこんの念は消えてくれなかった。


 極刑──すなわち、寿々子さんに下された沙汰は現世でいうところの死刑にあたる。


 しかも、『極刑に』ということは、すでに刑が執行されたあとであることを意味するのだ。


 絶望が四方八方から押し寄せてくるようだった。だから、おいねは最後まで真之助を心配していたのか。


 オレには受け入れられない真実。悔しいが真之助の言う通りになってしまった。オレは負けたのだ。


「成瀬さんと一緒にいるときの寿々子さんは幸せそうに笑っていたじゃねえか。それなのに成瀬さんを守るため、命を張った結果がこれじゃあ、報われねえよ」


「でもね、寿々子さんは後悔していないはずだよ」


 感情の嵐が鎮まり、涙が引いた頃、真之助の柔らかな声が降り注いだ。


「お前に何がわかるって言うんだよ……」


「私も同じ立場だから、彼女の気持ちが理解できるんだ。さっき、おいねちゃんたちと出会う前に、人は遅かれ早かれ必ず死ぬと話したけど」


 ともすれば、反発しそうになる気持ちを抑えて、オレはガードレールに腰を掛けている真之助を見上げた。


「お付き人には生きて欲しい。最期の瞬間まで寿命を全うして欲しい。それが守護霊たちの共通の願いなんだ。寿々子さんが成瀬さんを、おいねちゃんが莉帆ちゃんを、孝志たかし君の守護霊が孝志君を思う気持ちだって同じさ」


「じいちゃんの守護霊も?」


「そうだよ。残念ながら孝志くんは亡くなってしまったけど、孝志君の守護霊は人一倍その気持ちを持っている人だったから、彼の苦しみは果てがないと思う」


 真之助はじいちゃんの守護霊の顔を思い浮かべているのか、遠くを眺めるようにしている。


「お付き人をずっと傍で見守っているとね、いつの間にか絆が生まれるんだよ。それは親と子に近い絆だね。私たちにとってお付き人はみんな可愛い子供のようなものだから、身をていして守りたいと思うのは当たり前のことなんだ。それができた寿々子さんはむしろ幸せ者だ」


「でも、守護霊が死んだら意味ねえじゃん」


「意味はある。貴方たちは私たちの生き甲斐なんだから」


「生き甲斐……」


「死んでいるくせに生き甲斐を語るなって顔をしているね。まあ、親子とは言っても、お付き人側は守護霊の存在に気づいていないから、守護霊側の一方的な押し付けに過ぎない関係なんだけどね!」


 反則だと思った。


 真之助が笑ったのだ。


 湿ったところも、影もなく、カラッとした、陽気な、穏やかな笑顔で。


 まるで、太陽のようなその眩しさの前では、これまでオレに影のように付きまとっていた死への憧憬など存在できるはずもなかった。


 こんな笑顔を見せつけられては、いい加減、腹を括って決断するしかないではないか。


 もう二度と死にたいなどと願ったりしないと。


 そして、真之助に掟を破らせるようなことはしないと。


 オレの命をこれほどまでに大切に思ってくれる存在は、きっと守護霊真之助以外にはいないのだろうから。


 真之助のためにも、寿々子さんのためにも、オレは死ぬわけにはいかないのだ。


「それにしても、さっきのパンチ結構効いたよ」


「トーゼン、本気で殴ったからな」


 オレたちは家路に向かって歩き出した。


 未だかつてないほど素直な気持ちで、真之助と肩を並べることができたのは『お付き人と守護霊は家族!』そう言ってはしゃいでいた真之助とおいねの言葉の温かさが胸にしみていたからだ。


「真之助は案外子供の扱いが上手いんだな。おいねもすぐに泣き止んだし。正直、見直したぜ」


「別に扱いが上手いわけじゃなくて、私にも妹がいたから慣れているだけだよ」


「妹がいたのか」


「いたんだよ。可愛い、可愛い妹が」


 真之助の口ぶりから、生前は妹で苦労したのが手に取るようにわかった。同じ兄貴としての勘だ。


 親近感に胸が躍ったとき、スマホが鳴った。


 画面には母さんとある。


 夕飯の時間になっても帰ってこないオレにしびれを切らしたのかと思い、謝罪の言葉を準備して、通話ボタンをタップする。


「真、今どこ?」


「家に帰る途中だけど」


 すると、予想もしない悲痛な声が吹き込まれた。


「加奈が帰ってこないの!」


 第二ラウンド開始のゴングが鳴り響いた。

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