第8話 隠れ家

●真視点




 オレは今、上野たちに追われている。


「待てよ。これ以上、逃げるとブッ殺すからな崎山!」


 背中に容赦ない罵声が矢のように降り注ぐが、言われたに通り足を止めるほど素直には生まれついていない。


「だったら、なおさら、逃げない理由が見つからねえよ!」


 オレは肩越しに振り返り、しつこい雨のように付きまとってくる上野たちに応酬する。


 上野と取り巻きたちは親の仇を追うような必死の形相を張り付けているのに対して、一緒につるんでいたまだら金髪の男は薄い笑みを浮かべたまま、ひとり後方を歩いている。加勢する気配がないから、戦力外と思っていいだろう。どことなく薄気味悪さが漂うが、気にしている余裕はない。


「駅へ向かって、人混みにまぎれよう」


 勇ましく先陣を切る真之助に続き、駅の裏口から西口へ続く通路を抜けた。


 構内に侵入すると、ちょうど電車の到着時刻だったのか、改札口からどっと人が現れた。たちまち、人の往来に行く手を阻まれてしまった。


 このままでは追いつかれるのも時間の問題かもしれない。


 しかし、そんな不安はすぐに驚きに飲み込まれる。


 度肝を抜く。とは、モーゼが海を割った奇跡を目の当たりにした人たちが作った言葉ではないだろうか。


 オレの目の前にも同じような現象が起こっていた。


 人波に一本の逃げ道ができていたのだ。


 恐らく、真之助が霊力を使ったのだろうが、真之助が駆け抜けた一線はわざと人が忌避きひするかのように空間にぽっかりと隙間を生み出していた。


 モーゼの「海割り」ならぬ、真之助の「人割り」で現れた道を通り抜けた途端、人の入り乱れが起こり、道は跡形もなく姿を消した。


「クソが!」


「退けよ、邪魔すんじゃねえよ!」


 悔し気に地団太を踏む上野たちに向かって、オレはざまあみろとばかりに中指を立てた。


「おとといきやがれっての!」


 すっかり有頂天だったこともあり、放送禁止用語のひとつや二つお見舞いしてやろうと思ったときだった。


まこと、危ない」


 危ないというわりに危機感が希薄な真之助の声で、前方へ顔を戻した。が、遅かった。


 背後の上野たちにすっかり気を取られ、勢い余って通行人にぶつかってしまったのだ。


「すみません」と慌てて頭を下げると相手の男は小さく笑った。


「こちらも前を見ていなかったから、お互い様だ」


 和解を意味する握手だろうか。右手を差し出している。


 躊躇ためらいがちにその手を握り返すと、男は満足げに頷いて、駅前交番の方向へ立ち去った。


「男性の胸に飛び込むなんて、ずいぶんと大胆なのね」


 いつの間にか、目の前に安藤さんのすまし顔があった。その後ろからは案の定、のっそりと三田村さんが現れる。


「待ちくたびれたよ。さあ、行こうか」


 まさか、こんなところで足止めを食らうとは。


 オレは肩を落とした。


 逃げても逃げても運命からは逃れられない。お釈迦様の手のひらで転がされた孫悟空の気持ちが今ならわかる。


『三田村に気をつけた方がいい』


 藤木さんの言葉がむなしく響いた。



 ※ ※ ※



 小さな雑居ビルの長い階段を上ると、陽気なドアベルの音がオレの憂鬱を吹き飛ばしてくれた。


 三田村さんと安藤さんに連れられてやってきたのは「Cafe・cachetteカフェ・カシェット」という喫茶店だった。


 cachetteカシェットとはフランス語で隠れ家を指すらしく、その名前の通り、地元に住むオレが今まで見つけられなかったほど人目に付かない場所にあった。


 確かに存在しているのに見つけられない。いるのに見えない。まるで、幽霊のようだなと思いながら、真之助の横顔を一瞥する。


「三名で。適当に座るよ」


 カウンター奥に向けて三本指を立てた三田村さんを先頭に、RPGの勇者一行のようにぞろぞろと店の奥へと進む。


 高校生やカップル、サラリーマンと様々な客層で空席が埋まっているから、知る人ぞ知る名店なのかもしれない。


 入り口から一番遠いテーブル席にオレと真之助、その正面に三田村さん、安藤さんが並んだ。


 腰を据えて、改めて店内を見渡すとその雰囲気のよさに胸が躍った。


 ぬくもりを感じる板張りの内装に、アンティーク調の調度品。天井から垂れるランプ型のライトはほっと息を吐くような橙色の灯りで手元を照らす。


 また、店内に配置された観葉植物もセンスがいい。背丈やボリュームのある植物が、客同士の視線が重なり合わないようにパーテーションの役割を果たしているから、寛ぐには充分すぎるほどだ。


 森の中の秘密基地のようで、真之助も物珍しそうにキョロキョロしている。


「ここ、気に入った?」


 氷のようにひんやりとした声をかけられ、オレは安藤さんに向き直った。


「はい、すごく。小さい頃に押し入れの中に秘密基地を作ったことがあったんですよ。少年の心をくすぐるというか、それを思い出しました」


「なら、よかった」


「よかった?」


 どういう意味なのか訊ねるようとすると、なぜか三田村さんが身を乗り出した。噂話をするときのように片手でメガホンを作り、声を潜める。 


「ここ、安藤のおすすめのカフェらしいんだ」


「そうなんですか。でも、どうして小声なんです?」


「隠れ家だから、あんまり大声で人に教えるなって安藤に言われていてね」


 すると、間髪入れずに安藤さんが横から口を挟む。


「それがマスターのこだわりだから」


「だ、そうだ。ま、俺も今日初めてきたんだけど、居心地がいいよね。俺も常連になっちゃおうかな」


「三田村サンは通わないでください。わたしの居心地が悪くなります」


「キミの言葉は凶器になるって、小さい頃からよく言われなかった?」


 急所にダメージを受けたかのように三田村さんの顔が歪められる。


「崎山クンは好きなものを頼んでね。ここは三田村サンの奢りだから」


 安藤さんの容赦ないダメ出しがとどめを刺した。


「はあ……」


 オレは腫れ物に触れるようにして、安藤さんからメニューを受け取った。


 そこでひとつ気が付いたことがあった。


 相変わらず安藤さんの表情は凍り付いたままだったが、心なしか雰囲気が和らいだように感じたのだ。


 もしかすると、お気に入りの喫茶店が褒められたことで、喜んでいるのかもしれない。


 そう思うと、相性が最悪そうな三田村さんと安藤さんのやり取りが信頼の上に成り立っているように見えてくるから不思議だ。


 珍しく饒舌な安藤さんからいくつかおすすめのメニューを教えてもらうと、ちょうど頃合いを見計らったように、水の入ったグラスが置かれた。


「いらっしゃいませ」


 明るい声に視線を上げると、品のいい笑みを浮かべた女性が立っていた。五十代だろうか、こざっぱりとしたショートヘアーにカフェコートを纏った立ち姿が様になっていて若々しい印象を受ける。


「ご注文はお決まりでしょうか」


 三田村さんは安藤さんから今し方、推されたばかりのコーヒーの名前を出す。


「俺はcachetteカシェットブレンドコーヒーにしようかな」


「わたしも同じく」


「真君はどうする?」


「オレはクリームソーダにします」


「私はフルーツタルト!」


「それじゃあ、ブレンドコーヒーを二つとクリームソーダをひとつ、お願いします」


 代表して三田村さんが全員分の注文を告げると、店員さんは一礼してカウンターへ戻っていった。


 そこでひとり不満をあらわにしたのは真之助だ。タコのように唇を尖らし、眉間に不満を刻んだ顔はさっきまでの頼りになる守護霊と同一人物とは思えないほど大人げない。


「どうして、私の分も注文してくれなかったんだよ。何でも好きなだけ注文していいって言ったのに」


 真之助は犬がブルブルと体を揺するように体を右左に反転させながら喚いた。


 その振動でコップの水が波立ったが、オレは三田村さんたちに怪しまれる前に、「近くで工事でもしているんですかね」と先手を打った。


「一生のお願いだから、追加で注文してよ。私のフルーツタルト!」


 真之助がどれだけ叫ぼうが喚こうが、一生のお願いは生きている間にこそ効力を発揮するものだ。すでに一生を終えている真之助は天変地異が起ころうとも、それを行使する権利がない。


 オレは真之助の声が聞こえないふりをして、カウンター側へ顔を背けた。


 カウンターにはグラスを磨くマスターらしき男性がいる。


 年齢的に見て女性の夫のようだ。夫婦で経営しているのだろう。


 言葉や態度で示しているわけではないが、お互い空気のように必要不可欠な存在として尊重し合っている関係に何だか憧れる。


 オレもいつかそんな風に寄り添える女の子に出会えればいいなあとぼんやり思った。


 きっとそれは成瀬さんではないのだろう。残念だけど。

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