第9話 トイレには神様がいる

 ホームルーム終了後、オレは一階の男性職員トイレにいた。


 別に探偵の真似事をして友人Aがトイレに入っていたかどうか調べていたわけではなく、ひとり直向きに小便器を磨いている。


 というのも、一緒にトイレ掃除を割り当てられた友人Aが早退してしまったからだ。


 真之助に手伝うよう声をかけてみたのだが、「霊力はお付き人を守護する以外に使ってはいけないんだ」と都合のいい掟を言い訳に断られた。


「あいつ、トイレ掃除してから帰ればよかったのに」


 ブツブツ言いながらもすでに脳裏には別件が浮かび上がっているのだが。


 平沢のことだ。


 聖子先生がほとんど勢いで「警察に通報する」と言ってからの平沢の震えが気になっていた。もしかすると風邪の前兆かもしれないし、尿意を我慢していた可能性だってある。しかし、胸の中に霧のように広がった疑惑はいつまでも滞留し続け、ついに収まり切れなくなり、口を飛び出した。


「平沢、なんだけどさ」


「ああ、震えていたこと?」


 真之助があっけらかんと言うものだから、拍子抜けをしてしまう。


「気づいてたんなら早く言ってくれよ。ひとりで悶々としていただろうが」


まことはどう思っているの?」


「疑う気持ちはあるけど信じたくない。半々だな。できれば、外部の人間が教室に侵入して、友人Aのカバンに財布を入れたと信じたい」


 そうすれば、誰も傷つかないで済む。現実味のない願いは、風に吹き飛ばされそうな声で発せられた。


「ま、平沢君が犯人だと決めつけるのは早計すぎるよね。何かを知っているだけかもしれないし」


「きっとそれだ。侵入者に出くわした平沢が脅されている可能性だって考えられる」


「まずは友人A君の無実を証明しなくちゃ」


「証明なんかなくなって、あいつは財布を盗っちゃいないんだ」


 友人Aは嘘や偽りといったジメジメとした湿気や後ろ暗さとは無縁の人柄だ。まだひと月程度の付き合いであっても、あいつはやっていないと断言できた。過去を知った上でも。


 過去はいつまで重い足かせになるのだろう。人が変わりたいと望んでも、変わることを許さない周囲が重い荷物になりはしないだろうか。人生は決断次第でたった今からでもやり直せるはずなのに。


「いいかい、捜査には順序ってものがあるんだよ。無実を証明するためには目撃者の証言が必要だ。友人A君のアリバイを見つけるんだ」


「今度は刑事ごっこかよ。真之助はテレビに毒されすぎ」


 真之助がテレビドラマの刑事を意識して、顎に手を添え呻り始めたとき、空気が動いた。


 トイレのドアが勢いよく開かれ、二階堂が慌てふためいた様子で駆け込んできたのだ。気のせいか顔色が悪い。


「すまんが、トイレを使わせてもらうぞ!」


 言うが早いか、真之助の身体を通り抜け、ひとつしかない個室へと飛び込んだ。


 オレは個室から聞こえてくる雑音を耳に入れないために声を張り上げる。


「どこか具合が悪いんですか? 顔が真っ青ですよ」


「午後から腹の調子が少しばかり悪くてな」


「お昼に何か変なものでも食べたんですか?」


 すると、思い当たる節でもあるのか、二階堂がハッと息を呑んだ気配があった。


「いや、そんなことはない。絶対にない。あってたまるか」


「何を食べたって言うんですか?」


「いいか、芦屋には黙っていろよ。実はな、ついに俺にもモテ期がやって来たらしい」


 二階堂は悪事の密談でもするかのように声を潜ませる。


「モテ期?」


「ああ。昼休みに聖子先生から手作りクッキーをいただいたんだ。昨日、学校をお休みしたときに迷惑をかけたからと言ってな。それはそれはこの世のものとは思えないほどの味だったが、せっかくの気持ちだから有難く全部いただいたんだよ。手作りで重要なのは味よりも気持ちの方だからな」


「つまり不味かったわけですね」


「ああ、不味かった──って、聖子先生に話すんじゃないぞ。そうか、俺はあのクッキーにのか」


 クッキーなら友人Aも食べたではないか。


 お見舞いのお礼にと聖子先生がくれた手作りクッキーをオレの分まで横取りし、お山のボス猿のように意地悪く頬張っていた。


 もし聖子先生が「料理下手」のチートを持っているとすれば、クッキーを口にした二人が食あたりを起こした説明がつく。


 あのとき、オレからクッキーを奪った友人Aに感謝するばかりだった。


 そして、二階堂の話が五時限目の出来事に及んだとき、オレはブラシを止めた。

 

「先生、もう一度言ってください」

 

「だから、五時限目は職員室で作業をしていたんだが、急に腹に差し込みが起こってな。トイレに駆け込んだら、先客が入っていたんだ」

 

「誰だったんですか?」

 

「声をかけた訳ではないからわからんが、だいぶ長いこと入っておられたからなあ。アレは校長先生だと思うぞ。お陰で西校舎までトイレを拝借しに行ったんだ」

 

 真之助と顔を見合わせた。爽快なほど明るい瞳が笑っている。声が重なった。


「きっと友人Aだ」

「きっと友人A君だ」


 オレはトイレ掃除を早々に切り上げ、「紙がないぞ」とひとり喋り続ける二階堂を残して、三年一組へ駆け出した。


 二階堂はトイレの個室に入っていた人物を確認したわけではないが、五時限目、確かに誰かが用を足していた。


『職員トイレでウンコしていたと正直に話せって?』


 きっと二階堂は友人Aの証言とアリバイを裏付ける心強い証人になってくれるはずだ。



 ※ ※ ※ 



 教室へ戻ると、オレはちょうど帰り支度をしていた平沢に声をかけた。


「ちょっと話があるんだ」


「な、なに? 僕忙しいんだけど。あ、明日じゃダメかな」


「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうぜ。時間は取らせないからさ」


 平常心を心掛けていたつもりだった。しかし、いつになくぎこちないオレの様子に何かを察したのか平沢は落ち着きなく目を泳がせたあと、突然、廊下へ飛び出した。


「おい、どうして逃げるんだよ!」

 

 オレの声を振り切って、平沢は三階へ続く階段を上り始めた。体育の授業で足を怪我したばかりとは思えないスピードで階上へ吸い込まれてゆく。


「まさか、足を捻ったのは嘘だったんじゃねえだろうな」


 オレはバタバタと階段を駆け上がる足音を追う。どうやら平沢は屋上へ向かっているようだった。


 屋上の鍵が壊れていることを生徒で知らないものはいない。案の定、鍵は壊れたままで屋上への入り口ドアがぽっかりと口を開いていた。


 一気に駆け上がるところで思わぬ邪魔が入った。


 両手を広げた真之助が進路を塞いだのだ。


「やっぱり深追いはやめよう。元凶の様子がおかしいんだ!」


「今更、平沢を放っておけるわけないだろ」


 オレは巣穴に逃げ込む小動物のように素早く腕の下をくぐり抜けた。毎朝の遅刻で鍛え抜いた脚力を舐めてもらっては困るのだ。逃げ足だけは幽霊の真之助でさえオレには敵わない自信がある。後方から舌打ちが聞こえたがスピードは緩められない。


 階段を上りきり、屋上へ出ると、追い詰められた平沢が眉毛を下げて、フェンスの金網に指を絡ませていた。


「平沢」


「来るな! 来るな! 来るな!」


 歩を進めるオレを威嚇するように平沢は後ろ手で金網を揺らした。充血した瞳には溢れんばかりの涙が溜まっている。


 そのただ事ではない様子にオレは恐る恐る訊ねた。


「まさか、平沢が友人Aのカバンに財布を入れたのか?」


 すると傷を負った動物のように平沢は咆哮ほうこうした。


「だったら何だって言うんだよ。僕はクラスの嫌われ者の芦屋さんをみんなのために追い出そうとしただけだよ!」


「平沢が友人Aのカバンに財布を入れたお陰で、クラスメイト全員が友人Aを疑うことになったんだぞ。あいつは何もしちゃいなかったのに、平沢は無実の罪を着せたんだ。どうして財布なんか盗んだんだよ?」


 平沢は黙り込む。


「今まで盗った財布はどうしたんだよ?」


 もう一度訊ねると、平沢は絞り出すように言った。


「本当のことを話したって、どうせ崎山君は信じてくれない!」


「言ってみなきゃわかんねえだろ」


「話したら信じてくれるっていうの?」


「信じるよ」


 平沢はオレの顔に嘘が浮かんでいないか慎重に見極めているようだった。毛穴の奥まで写すカメラのようにじっくりオレを観察してから、信用に値すると判断したらしい。重たそうな口が開かれる。


「実は……成瀬さんに頼まれたんだ」


「成瀬さんに?」


 平沢の悪い冗談だと思った。犯人だと疑われたことで罪から逃れるために言い放った無責任な冗談だと。現に成瀬さんも盗難事件の被害者なのだから。


 オレは首を左右に振って、居心地の悪い空気を笑い飛ばそうとした。


「成瀬さんがそんなことするわけないだろ。小動物みたいに小さくて可愛い女の子は正義じゃねえか」


 俯いた平沢が肩を震わせた。冗談に笑ってくれている、そう思った。


 ところが、甘い期待は大きな油断を誘っただけで、実際は違ったのだ。


「……じゃないか」


 再び、顔を上げた平沢は見る見るうちに怒りの感情で顔を上気させ、大声で喚いた。


「やっぱり嘘だったじゃないか、僕を信じるって言ったのに!」

 

 平沢はオレに馬鹿にされたと受け取ったのか、巨体を揺らしながら突進してきた。


「落ち着け。オレが悪かった」


「崎山君の嘘つき!」

 

 瞬く間の出来事だった。両肩に鈍い衝撃が走った。背中にフェンスがぶつかり、突き飛ばされたのだとわかる。


 まるで、力士が子供を土俵の外へ押し出すような手際のよさで、やすやすとフェンス側に追いやられたのだ。


 逃げようと試みたが、ときすでに遅く、平沢の太い腕はオレの胸倉を締め上げ、揺さぶり始めた。


「僕じゃない、僕が悪いんじゃない、悪いのは全部成瀬さんなんだ」



 ──真之助!



 呼吸がままならない苦しみの中で真之助を見ると、真之助は鉄扇を構えたまま、誰かに何かを叫んでいる。


 真之助の視線はいつの間に現れたのか黒い和服姿の男に向けられていた。黒い衣装を身に纏った男はオレを助けようとする真之助の邪魔をしているようだった。


 成瀬さんに憑いたというストーカーの特徴を思い出す。


 血が通っていないような青白い顔に、生気のない鋭い目、艶のない総髪そうはつに、黒装束。まるで、死人のような男──。


 成瀬さんのストーカーがなぜここに?

 

 しかし、疑問はすぐ別な思いにさらわれてしまった。


 背後にあったはずのフェンスが外れ、死が間近に迫ったからだ。


 金属が地面に叩きつけられる音が遠く足元の方から聞こえ、「次はお前の番だぞ」と地面が大きな口を開いて待っているようだった。


 踏ん張ってはみたが、ついに身体が宙へ投げ出された。



 死ぬ──。



 そう思い、ぎゅっと目をつぶる。しかし、それもいいかもしれないと思う、もうひとりの自分が内に存在した。


 ここ数日は真之助の登場で忘れてかけていたが、もう三年も前から人生に絶望していたのだ。何度も屋上に足を運び、この場所から飛び降りるイメージを鮮明に思い描いていた。


 死は憧憬であり、甘美な誘惑だ。


 睡魔のようにいつの間にか忍び寄って来て毒のように全身へ巡る。


 オレは知っている。


 人生はやり直せないこともある、と。

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