第9話 崎山家の食卓

 階下から「ご飯よ」と母さんの呼ぶ声がして、リビングへ向かうと、怨霊男は金魚ののように後ろから付いて来た。


 いや、正しくはいてきた、だ。


 怨霊が背後から憑いてくるというホラー映画のような構図に多少気味が悪くも、煩わしくも感じるが、オレが「憑いてくるな」と言ったところで、話を聞いてくれる相手ではないから、諦めるしかない。


 リビングのドアを押しやると、キッチンから漂う揚げ物のにおいが鼻孔をくすぐった。怨霊男による恐怖と興奮で喉の渇きを感じる余裕さえなかったのに、途端に空腹に襲われるものだから、食欲とは意思と関係なく現金なものだ。

 

 手っ取り早く、喉も腹も満たそうとして、冷蔵庫のオレンジジュースをコップへ注ぎ、そこにストロー・・・・を突き挿した。

 

 もどかしくも、口内にじわりじわりと水分が補給され、枯渇した大地に恵みの雨が降り注ぐかのように萎びた細胞が息を吹き返していく。

 

「歩きながら飲んでいるとおばあちゃんに叱られるわよ」


「へいへい」

 

 母さんの注意が飛んで、家族全員が揃うはずの六人掛けテーブルに目をやるが、上座にばあちゃんの姿がない。

 

「ばあちゃんは?」

 

 オレは下座側の真ん中の席へ腰を下ろしながら、向かいに座る父さんに訊ねた。


「お義母さんは具合が悪いそうなんだ。食欲がないんだって」

 

 黒い細身のフレームのメガネをかけた、いかにも人の良い顔をしている父さんは、悲しげに瞳を揺らした。


 父さんは婿養子であるのに「尊敬する人はお義母さん」と豪語するほど、ばあちゃんとすこぶる仲がいい。互いに晩酌を好むから、席も隣同士だ。

 

 だが、今夜の食卓にはばあちゃんどころか、アルコールも見当たらない。


「ほら、まことの部屋の窓ガラスが割れたでしょう。それがショックだったみたい」


 母さんが父さんの隣に腰を下ろしながら言った。


「おばあちゃんはもう休んでいるから、明日、真からも元気出すように言ってあげてね」


「わかったよ」


 怨霊によるたたりを、守護霊様の怒りが引き起こしたことと信じてきっているのだから、ショックを受けるのも無理はないのかもしれない。


「そうそう加奈かなのことなんだけど」


 話すタイミングを見計らっていたのか、聞くともなしに母さんは言った。


「加奈は部活で遅くなるって」


「ふうん」


 オレは相槌を打ちながら、コロッケを口に運んだ。


「科学部の部長の家に部員みんなで集まってるんだって。近々、研究の発表があるみたいよ」


「そうなんだ」


 ロボットのように箸を動かし続ける。


「あとで父さんが車で迎えに行くんだけど、真も一緒に来るかい? 帰りにコンビニでスイーツ買ってあげるぞ」


 父さんがハンドルを握る振りをした。ハンドルのみならず、スイーツ男子であるオレの心まで握ろうとしている魂胆が丸見えだ。


「オレは遠慮しておくよ」


 努めて笑顔を貼りつけた。我ながらぞっとするほど素っ気ない返事になったと思う。


 オレはお椀を伏せてある左隣の空席に一瞥いちべつをくれた。妹の加奈の席だ。つんと尖った感情が心に落ちる。



 お兄ちゃんなんて大嫌い──。



 いつか加奈が言い放った言葉が甦ったとき、思考を破るように右隣の空席から声がした。


「今日の夕飯も恵子けいこさんの得意料理、冷凍食品だね」


 いつの間にか怨霊男が席に着き、にこにこと笑っているではないか。


 ふてぶてしくも家族の一員のつもりなのか、ここにいるのが当然のような顔をして、団らんに加わっている。他人の家に迷い込んできた猫の方が立場をわきまえているってものだ。


 オレは狼狽ろうばいして、床に落とした箸を拾おうとしたが、狼狽がまた新たな狼狽を呼び、コップを倒してしまった。石油が湧出するようにあっという間にテーブルがオレンジジュースで染まる。


「もう何やってるのよ」


「ごめん」


「服は大丈夫かい?」


 父さんが布巾を取ってくれたり、食器を移動させたりと、食卓が一気に慌ただしくなる。


「お前、どうして隣に座ってんだよ」


 自分以外の人間に怨霊男の姿が見えない仕組みをようやく理解し始めたところだったから、オレは声を潜めて言った。


「どうしてって。私は怨霊だからね、どこへでも憑いていくんだよ。あのさ、真にお願いがあるんだけど」


 怨霊男はテーブルに肘をついて、妖しく微笑んだ。夜空のように深く澄んだ瞳が細められ、色気が花びらを散らすように舞った。上機嫌に引き上げられた唇が再び開く。


「テレビの番組を変えてよ」


「は?」


 布巾を手にしたまま、唖然あぜんとした。


 テレビの画面では、お笑い芸人が司会者を務める人気のクイズ番組が賑やかに繰り広げられている。ゲストが珍回答を出し、台本通りの空笑いがオレの鼓膜をかすめていった。


「今の時間、裏番組ではグルメ番組がやってるんだよね。ぽっちゃりの男の人が美味しそうにモリモリ食べて食レポするやつ。崎山家は毎週この時間はクイズ番組を見るって決まってるでしょ? 先週は仕方がないから、隣の佐藤さんチで見て来ちゃったよ」


「お前の事情なんか知るか」


「ほら、早く番組を変えてってば」


「無茶言うなよ」


「今日は都内で絶品スイーツ巡りの特集なんだから見逃せないんだ。甘い甘いホイップクリームに口でとろける濃厚な生チョコ、神ってると思わない? ねえ、予習しておいてさ、今度食べに行こうよ」


 どいつもこいつもスイーツ男子のオレを甘い言葉で惑わせる。父さんはまだ良しとしても、怨霊男は幽霊であるし、一緒にスイーツ巡りをする義理もない。


「やだね」


「ケチ」


「ケチってなんだよ!」


 男のペースにまんまと飲み込まれ、オレは声を荒らげた。


 すぐさま母さんと父さんの驚いた瞳がこちらを向く。端から見れば、オレがいきなりひとりで喋り出したように見えるのだろう。


 精神の正常値を振り切った人に寄せるような同情と気の毒さを織り混ぜた表情を前に、オレは慌てて言いつくろった。


「今、ハエがオレの周りを飛んでてさ! コロッケに止まろうとしたのを追い払ったら、オレのことを『ケチ』だって言い捨てて飛び去ったんだ」


「ハエ?」


 父さんがいるなずのないハエを探し、天井をきょろきょろと見上げた。


 ハエが喋るはずがないだろうと言わない辺り、父さんの人の良さの表れだ。そこが気の強い義母ばあちゃんとの円満な関係作りに一役買っているのだろうと心底尊敬する。


「ハエ叩きはどこに置いたかしら」


 今度は母さんが席を立った。


 ひとまずごまかせたようで、オレは疲弊ひへいした精神ごと背もたれに体を預けた。


「チェッ。真は意気地なしだなあ」


 怨霊男はつまらなそうに口を尖らせ、だが、どこか嬉しそうに足をばたつかせた。小さな子供が初めて行ったファミレスで、お子様用の椅子に座り、大はしゃぎで足をブラブラさせているのを彷彿ほうふつさせる。


 怨霊男はオレを困らせて面白がっている。


 この先、オレは一体どうなってしまうのだろうか。

 

 額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、未来を案じた。

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