竜宮輝夜記 時めきたるは、月の竜王/糸森 環

角川ビーンズ文庫

登場人物紹介/一章 華やかなるは、月の秘儀 其ノ一

◆◆◆登場人物紹介◆◆◆


◆紗良(さら)

神竜に奉仕する、神奴冶古(かめやこ)として召し上げられる


◆由衣王(ゆいおう)

半神半人の竜のひとり。桔梗の里の主


◆月時王(つきじおう)

半神半人の竜のひとり。紅梅の里の主


◆多々王(たたおう)

半神半人の竜のひとり。春椿の里の主


◆小瑠王(こるおう)

半神半人の竜のひとり。曼珠の里の主


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




獣は微睡む。


獣の花が香るまで、

その眠りは誰にも妨げられることがない。


百年がすぎ、二百を超えようとも。


獣は宵の帳の奥で、息を潜めて眠り続ける。







 天がふるえた。

 あらしおとずれのようだった。ごうおんとともに海面が波打つ。はまの木々がかたむき、葉を散らす。

 これはりゆうほうこうだ。いかりに満ちたその激しい鳴き声が天をき乱し、れつぷうを招く。

「竜の君」

 彼女はくるう天を見上げて、つぶやく。

 すみいろの厚い雲を割って竜が降りてくる。長いどうたいあらあらしくうねらせ、じゆうおうじんに宙をめぐりながら、地を目指す。

 どうして、と彼女は泣きたい思いで竜を見つめる。今生ではもはや二度と会うことはないだろうとかくしていた。自分は生まれ育ったこの地で散る定めなのだと。

 だから来世に夢を見た。もしも生まれ変わることができたら、毎夜、こいするように月を見上げて、あなたのさちおもおう。

 そのとき、ひとめだけでもいいからあなたにいたい。そんないのりをこめて。

 ──けれど、本当の望みはちがう。

「つむじ曲がりな心やさしい竜の君、あなたのそばで、生きたい」






 天の都にあるりゆうぐうで、どうやら三日月の秘儀が行われたようだ。

 そのしるしに、地上を照らす月光のみちからきらびやかなぐるまがするすると降りてくる。

 天空暮らしの貴人が乗る輿こしで間違いない。屋形をいろどる数々の花。りようそでおおう絹の糸毛の色は優美な月白、う鳥がしゆうされたせんりようの帳、くびにおさまるのは黄金のとらりんを表す大きな銀の車輪は、まわるたびに《りん》ぷんのようなあわい光を放つ。

 神車のわたりに気づいた地上人──里人たちは、そのげんそう的な光景にしばらくれていたが、やがて顔をこわらせる。里人にとって高貴なる者の存在は、自分たちの生活をおびやかすまがかみに等しい。おまえのむすめほまれあるに選ばれた、これは大変なぎようこうであるゆえ真心をくして大役を果たせとのたまい、もなく愛する家族をさらっていく。

 神車は月光の路をちゆうで曲がり、海岸へ向かっている。里人たちがそちらを見やると、ちょうど数人の海女あまあわてた様子で駆けつけてくるところだった。






「大漁だわ……!」

 その夜、一人の乙女おとめが浜辺でかんに打ち震えていた。

 年のころは十五、六だろう。こしかけた岩に垂れるくらいばされた豊かなくろかみのようにんだ大きなひとみころもは腰と胸に巻かれた布のみで、白魚を思わせるみずみずしいはだだいたんさらされている。全身をらしてかがやくその姿は月から舞い降りたひめがみか、あるいは漁師をまどわす人魚かというほどはかなげで愛らしい──はずが、残念ながら色々台無しというよりほかになかった。

 本来はふっくらとした愛らしいくちびるなのだろうがいまは寒さでむらさきいろに変わっている。なおかつ顔にはよくぼう丸出しのみが広がり、みような具合に口角がゆがんでしまっていた。見開かれた目はぎらぎらと光り、えたけもののようなせまふんただよわせている。

「でもどうしたんだろ、今日に限ってあわび栄螺さざえがこんなに採れるなんて……。あっ、やった、鮑玉が入ってる!」

 わきおけには今夜のしゆうかくである貝が山盛り。そのひとつを慣れた手つきで割り、乙女はぐふりとあやしい笑い声を上げる。

 鮑玉とはしんじゆのことだ。漁村に暮らす里人は、海のめぐみの一部をにえとしててんしんけんせねばならない。が、こうした小さな玉なら、この一帯の海女を取り仕切るみのかしらも目こぼししてくれるときがある。

 他の海女たちは、さすがにづきであっても夜の漁は身にこたえるとぼやいて少し前に震えながらもどった。海岸に設けられた木造りの簡素な小屋だ。

 漁は当番制なので、仕事を割り当てられた海女はそこで一時的にまりする。

 緒屋に戻る海女たちは「、あんたのために歌ってあげるからね」と言って、けつくにづききよかづおとに幸結べよと、しばしかろやかな海歌をひびかせていたのだが、漁を終えておかに上がってみればもはや声はなく、静けさを強調するような波の音が聞こえるばかりである。海歌とは、海人あまを守る。なぜえているのかと疑うべきだったが、紗良の意識は木桶いっぱいの貝のほうに向いてしまっている。

 これで粉薬を作りたい。真珠は装身具の他、薬としても重宝される。女に活力をあたえるのだ。こくな漁がたたり、漁村の女は調子をくずしやすい。今日の漁でも一人、せきがとまらぬ者がいた。兎美頭をおがたおして、ひとつふたつ、玉をゆずってもらおう。当分のあいだ分け前が減るだろうが、すこやかさだけが取りなのだし、ひもじさにも寒さにも慣れている。

 紗良には親がいない。五年前に、生誕の地であるり村──その近くの海岸に出現した海の物のたるしきおに鹿がみに殺された。

 だが紗良は、自身をあわれな幸無し子だとはじんも感じていない。

 里人たちは、となった紗良をかわるがわる育ててくれた。だから弧張り村の全員が大事な家族だ。羽のようにやわらかく身を包んでくれるあたたかな情を、今度は自分がたくさん返したい。

「今日の漁、かなりおいしい。もう一回もぐろうかなあ。でもちょっと身体からだが冷えすぎたかな」

 手に乗せた貝を見つめてにやついていたが、ふと冷静になる。

 今夜はなぜか手元がよく見える。というより、月がやけに明るい?

 おかしいと紗良は疑念をいだく。天をかざっているのはえいな三日月、やみらすほどの強い光を地に注げるはずがない──。

 夜空に目を向け、紗良は固まった。頭上を、黄金の神車の列が渡っている。

 ぼうぜんと見守るあいだに次々と神車が浜辺にとうちやくする。

 輿のまえすだれが開き、そこから青、白緑、はだいろ、なよやかなほうひらうえのはかまにといったうるわしい天上人たちが現れる。──実際のところ彼らは無位の中級かんにすぎないのだが、天上人とそうそう接する機会のない紗良には天都に存在する細かな序列などわかりようがない。ひたすらあつとう的な存在として映る。身なりも雰囲気もみやびやか、しんせんめいた幻想的な美しさだ。

 彼らは大胆ないそ姿の紗良を見ると、あからさまに顔をしかめた。

 天上人は基本として肌を晒さないものだが、そういった事情もやはり紗良にはわからない。ただ、官吏のさげすむような視線を受けてなんとなくしゆうを覚える。

 官吏の一人が紗良に近づき、れいたんな態度で問う。

「葉月の十の宮、三日月夜に生まれたるしやの娘に違いないか?」

 ぽかんとしていると、官吏は手にあったおうぎで口元をかくし、紗良をにらんだ。慌てて「はい」とうなずいたが、細かいところをていせいさせてもらえるなら、生まれたのは十の日ではなくその翌朝だ。日を違えている意味を考えるより早く、官吏が不信感たっぷりに問いを重ねる。

「紗の名を持つなら、おりとなるのが習わしではないか? なぜ海女の真似まねごとをしている」

 そりゃ織物より漁のほうがここでは手っ取り早くかせげるからに決まっているでしょ、という身もふたもない返答は、き出す寸前でなんとかこらえることができた。もしも口にすれば、こちらを見る官吏の目がさらに冷たくなりそうな予感がある。

 里人はたいてい、親の職にかかわる名を与えられる。それが子の加護となるからだ。

「……ふん、孤児だったか? なら仕方がない」

 官吏は勝手になつとくしている。どうやら親からはたりのわざげなかったせいとかんちがいしたらしい。そんなことはない。親切な里人たちが紗良に多くの生きるすべをさずけてくれたのだ。そのおかげで機織りも、得意とまではいかないが一通りこなすことができる。

「まあいい、誉れにもくせ」

「誉れ?」

「──こうべを垂れよ」

 鹿者が、というしつせきが聞こえてきそうないらついた声だったが、岩の上に座っている紗良のほうが、彼より目線が高いのだ。その状態で頭を垂れるというのもけに思える。

みかづきのにて、鳴弦つるうちがおまえを神奴冶古に定めた。あてなる神竜に身をささぐという大役、天理を知らぬ里人にはこれ以上ないえいであろう」

 紗良は呆気あつけに取られた。なに言っているんだろう、このたけだかな天上人は。

 はじめはそんな感想しか出てこなかったが、じわじわと理解が追いつく。

 甕月儀。貴なる神竜。神奴冶古。

 ──ちようれいだ。

 はるかな天都に入府し、天上人に仕えるやつこ……冶古にされるのだ。

 そのなかでもかんされるのは、しんれいに等しい存在にほうするれいと決まっている。そして官吏は甕月儀、神竜と口にしていた。

 天都にはあらぶる四神の竜が住む。うわさばなしで聞いたことがある。天都では三日月夜に行われる儀式で、彼らの世話係を選ぶという。じんちようの鳴弦人が月の形の弓を鳴らし、水をはったかめのぞく。そこに映る里人をかかえるのだとか。

 しようげきを受けて固まっていると、岩にぶつかる波に混ざって、複数の足音が耳に届く。

 はまのほうにけ寄ってきたのは、家族同然の村の者や海女たち。どうやら紗良が漁に精を出すあいだに、緒屋の海女が月光路を渡る神車を発見し、村の者を呼んできたらしい。

 彼らのなかに交じるもっとも若い娘に目をとめ、紗良は内心あっと声を上げる。

 ──選ばれたのは私じゃない!

 葉月の季節に生まれたのは紗良だけではない。

 まいのようになかむつまじく育ったという娘がいる。彼女が、十の日の生まれなのだ。

 自分の片割れに等しい存在である彼女を、紗良はぎようする。

 紗和子は、いままでに見たことがないというほどそうおもちをしていた。

 見つめ合って、気づく。とうに紗和子は自分が選定されたことを知っているのた。今夜のうちになにか神がかりな知らせがあったのかもしれない。

 紗良はあわてて岩から飛び降りた。その際、木桶に足があたり、砂の上に貝が散らばる。

 そちらを見るゆうもなく紗和子に駆け寄る。しがみつくようにして手をにぎり合ったとき、紗和子のとなりにいたせいかんな顔立ちの若者と視線がぶつかった。商人やかむびとらで結成された里座の護衛を務める武人だ。彼もまた、紗和子と同じくらい悲痛な表情をかべていた。

 二人は夫婦めおとになる約束をしている。若者のほうが、階級が上だが、市で彼を見かけた紗和子がれに惚れ、村中を巻きこみながらも見事こいじようじゆさせたというけいがある。

 紗和子のあきらめが浮かぶ暗い瞳を見たしゆんかん、紗良は官吏のほうに勢いよく身体を向け、その場にへいふくした。

「神霊の奴として召されしこと、上無きほまれでございます。身命をしてお役目にはげみます」

 いつぱくののち、紗和子が小さく悲鳴を上げた。

「なに言ってるの紗良! わたりの報を受けたのはあたしよ、あんたじゃな──痛!!」

 紗良はとっさに後ろ手で彼女のすねたたいた。力を入れすぎたのか、紗和子が身をかがめ、なみだになって臑を押さえる。若者は口をはさんでいいのかわからない様子でおろおろした。

「……なんだ? そちらの里人が紗のむすめなのか?」

 官吏がいぶかしげに扇を軽くる。

「私です!」「あたしです!」と紗良と紗和子は同時に挙手し、睨み合った。

「どういうことだ。里人ぜいわれらをたばかるつもりか」

 官吏の声にいかりがこもったときだった。

「どちらでもよいだろう」

 官吏とは別の、若い男の声が横から割りこんできた。うつとうしげな響きがはっきりとこめられている。自分たちにとっては生死がからむ重大な問題なのにどちらでもいいなんて、そんなむごいことをよくも言える──紗良はむっとしながら、声のしたほうに顔を向けた。

 こうぐるまから、長身の男が片手で簾を押さえて出てくる。袴のすそよごれるのもかまわずしじから降り、ざくざくと音を立ててこちらへ歩いてくる。

「紗だろうがじゃだろうが、まつなこと。しばし動く手足があればそれでよい」

 男のつうれつな発言に、官吏が絶句している。紗良たちも違う意味で言葉を失っていた。

 姿を現したのは、心しびれるような美しい男だったのだ。仮に紗良がふうを解する天上人であったなら、ここで技と情熱をくし美辞を連ねたろうが、あいにくそこまで豊富な学はない。すぎたぼうは暴力、というどうにも武骨な言葉がまっさきにのうをよぎる。

 ──天上人ってすごい。

 紗良はまばたきも忘れて見入る。二十前後のねんれいだろうか。冷ややかさのにじひとみは月の光の粉でも振りまいたようなきらめく黒色。短いくろかみも、神車に取りつけられている小さなを受けてか、銀河のようにちらちらとかがやいている。しようぞくいろあざやかな青の単衣ひとえに、黒のこめしやの袍、浮き織りの白袴。かんむりをせず挿頭かざしのみにしているのがこころにくい。多色の小花がよく似合っている。

「そもそも甕月儀など、里人さらいを道理とあざむくためのべんにすぎぬ」

 目を白黒させる官吏を見下ろし、かんむり直衣のうしならぬ花直衣姿の美貌の男はきわどい発言を続ける。

「どうせ数年こく使すればすぐに死ぬ。か弱い里人は都たるきようの気とも合わぬ、仕えしりゆうの神気にもえられない。どろにんぎようと変わらぬもろさよ」

 えんりよようしやもない男の言葉に、紗和子がひゅっと息をむ。

 として選ばれた里人は二度と帰ってこない。だれもが知っている。徴令はひとくうそのもの。だからこそ三日月夜の神車のおとずれは里人たちをせんりつさせる。役目のほうは許されない。逆らえば神竜の怒りを買い、地の人々が見捨てられてしまう。

「そ、そのようなことを、……」

 慌てふためく官吏の言葉を、男が一睨みでとめる。

 年は若いようだが、官吏よりもたつとき身分なのだろう。だが、文官にも武官にも見えない。

「それで」と男が視線をこちらに投げてくる。まるでちりあくたを見るような、こごえた目つきだ。

「どちらの娘だ」

 紗良と紗和子は全身をきんちようさせながら顔を見合わせた。入府すれば確実に数年で死ぬ。

 近い未来にもたらされる死を想像することは、やっぱりおそろしい。だから一瞬、じ気づいてしまった。観念した様子で紗和子がふるえるくちびるを開く。──その瞬間、身体からだが燃えたように思えた。紗良はこしに力を入れて立ち上がり、かすれた声を発した。

「わ、私です! 私が行かせていただきます!」

「ばかっ、紗良! あたし! あたしが行くのよ!」

 夫婦のちかいをかわした若者が悲しげに瞳をらし、紗和子、と小声で呼びかける。紗和子は彼を見上げると、泣きそうな顔をした。

 花直衣の貴人は鬱陶しげに紗良たちをながめまわすと、小さくいきらした。

「……より健康な娘はどちらだ」

 その問いかけに、紗良たちはふたたび顔を見合わせた。

 つまりこれは、「長期の労働にえうる健康な女を連れていく」という意味だろうか。

「──当然ながら! 私です! 健康と言えば私です、なにせ生まれたときから熱ひとつ出したことがありません!」

「紗良ったら!」

「海にも長くもぐれます、一日中働いてもたおれません!」

「なっ……、あたしのほうが、つくろい物が得意です! 紗良なんて本当に下手で下手で! 数年かかってやっと売り物にできるようなころもえたというくらい不器用だし。力任せにはたを織って何度み板をこわしたことか」

「壊れる織り機が悪いのよ!」

つうは壊さない!」

 紗良は内心うめいた。繕い物の得手不得手は女にとって重要な問題だ。もちろん、得手とする女のほうが重宝される。

 ──ほかになにか自分を売りこめるような特技ってあったっけ!?

「そうだ! 私は身寄りがないので死んでもあとくされがありません。存分に使ってください!」

「紗良!! ふざけたことを言わないで!」

 天上人の前だというのに、紗和子が顔を真っ赤にしてり声を上げた。本気でおこっている、あとで謝らなきゃ、と思う。

「それに、学はありませんが、文字は読めます! ものを数えることもできるし、ことや笛も多少はたしなんでおります。どんな労働もいとわずがおでやりげる自信が──ごふっ」

 かんじんなところできこんでしまい、紗良は青ざめた。

 すっかり頭に血がのぼってしまっていたために忘れていたのだが、れたいそのままである。散々海に潜り、身体が冷えきっている。みように手足も震えているし、唇なんてむらさきいろだ。

 まずい! これだとすぐ死にそうだって誤解される!!

 実際、花直衣の男の視線が厳しくなっている。

「見てください、この通り紗良はひんぱんに身体を壊すんですよ、たった一度海に潜っただけでこんなに震えて……高貴な方々にお仕えする体力なんてとてもありません」

 ここぞとばかりに紗和子がついげきした。

「ちょっとやめて紗和子、私が健康なのはよく知っているくせに──げほっ、ぐぇ」

「ほら、無理をするからよ!」

 こらえようとすればするほどせきが出る。

 花直衣の男が近づいてきた。紗良は咳きこみながらも紗和子を背にかばった。他の里人たちは、すっかり血の気を失った表情でその場に平伏する。

「ほ、本当に身体はがんじよう──ごふっ、私が、ぜひっ」

「──おまえを連れていく」

「だめです、紗和子には情をかわした相手がいるんだから──えっ? がふっごほ」

 花直衣の男は、紗良の頭をぽこんと軽くおうぎで叩いた。

 健康そうな女じゃなくて、いまにも死にそうに見える女を連れていく……?

 なぜ? 混乱する紗良を、彼はうとましげに見つめて言った。

「それにしてもいそくさい。せめてえる時間はくれてやる。早くせよ」






「ばか! ばか紗良! 絶対に許さないから!」

 よろよろともどり、着替えるために磯着をぎ捨てていると、あとを追ってきた紗和子に泣きながらたたかれた。と言っても、本気の暴力ではない。赤子のような弱々しい力だ。

「あたしが選ばれたって言ったじゃない!」

「でも、どっちでもいいみたいだったし。紗良も紗和子も似たようなもんだわ」

 少なくとも彼ら天上人にとっては、入れわったところでなんの問題にもならない。

「よくないわ! なんにもよくない。だいたいさっきの言い草はなんなの? 身寄りがないとか後腐れがないとか、あたしたちの前でよく言えたわね!」

きらいになったでしょ?」

「ならないわばか! あんたはあたしの妹分でしょ、さっきの取り消しなさいよ、なんてはくじような子なの。言っていいことと悪いことの区別さえつかないあんたがどこへ行くっていうのよ」

 紗和子がわんわんと声を上げて泣く。ほおを転がるなみだしんじゆのように丸い。紗良はそれをとても美しいと思った。指先でそっと涙を受けとめる。割れてしまうのがもったいない。

「ねえ、紗和子がこいした人といつしよになって元気な子どもを産んで、いつも幸せでいてくれたら私だって幸せだわ。それは、私の幸せそのものだわ」

「なに言ってるの、本当にばかなんだから……。二度とここに帰ってこられないのよ、あたしたちと会えなくなって、あんたは平気なの?」

「会ってるときだって、会っていないときだって、私は紗和子たちが恋しいわ。だからどこにいたって同じでしょ?」

 紗和子が泣きじゃくるせいで、こちらまで鼻の奥が熱くなってくる。困ってしまう。

「神仕えの身になるのよ。きっときれいな衣をもらえるだろうし、かざり物だってたくさんくれるだろうし……おなかふくれるくらい食べることだってできる。どう? 私は紗和子からえいうばったの。うらみなさいよ!」

 幸せになれ、限りなく幸せになれといのりをこめて、一日ちがいで生まれた姉妹のような紗和子の頭をでる。





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