talking

ぴくるすん

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 頭が酷くクラクラする。

 深夜のネオン街を当てもなく彷徨っているが、目の前の景色はチープなミュージックビデオみたいにぼかされて、せっかくの夜の雰囲気が台無しになっているから、全くその気はしなかった。

 それに頭だけじゃあない。足だってフラフラだ。

 どうして、こんなにボロボロなのだろうか。

 私は一体、誰で、どこから来たのだろうか。

 そして、どこへ行くのだろう。

 残像のみを抽出したような、そんな不明瞭な視界と、コンサートを双眼鏡で眺めている様な、そんなシティポップの遠い残響だけを頼りに、私は足をひた動かした。

 こんな時間帯でも、人がごった返しているのが不思議でならない。正確な時間帯こそ分からないが、今は間違いなく深夜なのだ。先程から肩が幾度となくぶつかり合い、その度に私の身体は体勢を立て直そうと全身の筋肉を使う。

 空は闇の様に黒いが、手前は虹の様に明るい。

 私は限界を迎えそうになり、細い路地へ入った。そこは人が疎らで、ガラの悪そうな三人の男グループが奥の方で煙草を吸っているのが見えた。彼らはこちらをチラとだけ見たが、すぐに目線を逸らすと煙を吹かし始めた。

 私はもう一度、元居た大通りを狭いここから眺めた。

 ……人の流れが、まるで、夜行性の動物に流れる血液の様に見える。

 私たち一人一人が、そう、一つの細胞の様な、赤血球の様な、そんな感覚。

 元来、私たちも大量の細胞から作られている。

 複数が集まって、個体が出来上がっているのだ。

 そう考えると、地球にはびこる無数の人類も、「社会」という名の生命を形作り、そしてそれを維持するための、ただの細胞の集まりなのではないかと思えてくる。

 だとすれば、私の後ろにいる三人の男たちは、がん細胞だろうか……。

 途端、急速な視界の収縮を感じた。身体を操る糸が切れるのを感じた。

 私は地面に膝と手をついた。

「あの、大丈夫ですか……?」

 残響のようにしか聞こえなかったが、女性の声だった。頭上にその女性がいるのだろうが、私は顔を上げることができない。それすらも、ままならない。

 脳が出力する不出来な映像は、尺の合わないカラオケのミュージックビデオみたいに、唐突に終わりを迎えた。

 それは誰もが経験しうるような、普遍的で、とてもチープなものだった。

 私は、重力の様に吸い込まれていく意識の中で、ただただ、夜明けを待っていた。


   ***


「ここなら、大丈夫でしょう?」

 女性に連れられてやってきたのは、深夜に営業しているバーだった。

「ええ、おそらくは」私は店内をざっと見渡した。「いい店ですね」

 床と壁紙は暗いチョコレート色で統一されており、そこに暖色系のライトが照らされて、ほのかで温かい雰囲気が作られていた。テーブルは明るめの茶色で、一本の黒い足によって支えられている。椅子も同じようなカラーリングだ。

 部屋の四隅に立てられた長細いタイプのスピーカーから、ジャズボサノバが流れていた。

 天井のシーリングファンが影を躍らせながら音もなく回っている。

「わたくしの行きつけですのよ」女性はそのままカウンター席まで向かう。

 彼女の後に続き、隣へ腰掛けた。

 バーテンダーは初老の男性で相応の皺があるものの、彫が深く、日本人離れした顔つきのために若若しい印象を受ける。髪の毛はおそらく黒に染められているのだろう。その辺りの心掛けなども含め、店内のシックな雰囲気とよくマッチしていると感じる。

「適当にお願い」

「かしこまりました」

 女性の一言で、バーテンダーは作業を始めた。迷いの無い、非常に洗練された動きだ。

「さて……」彼女は膝の上に手を置いて、首だけをこちらに傾けた。「諸々の事情を伺いましょうか」

「失礼ですが、その前に貴女のお名前を伺ってもよろしいですか?」

 私はなるべくジェントルなトーンで発言した。

 彼女は口元に片手を当てて、クスリと笑う。

「ええ、ええ。もちろんです。ですが、一身上の都合ゆえ、本名を口にできないのです」手を再び膝に戻すと、ナチュラルに微笑んだ。「偽名……というより、まあ、通り名のようなものでしたら、あるのですけど。どうされます?」

「是非、お願いします」

 私は彼女の目を見て、軽く頭を下げた。

「では……」一度軽い咳払い。「わたくし、ルージュと申します。以後、お見知り置きを」

 ルージュと名乗った彼女は、程良く落ち着いたメイクと、その中で一際目立つ赤の口紅でその端整な顔立ちを覆っており、手入れされた艶のある茶髪を肩まで伸ばしていた。

 袖が無く丈の長い黒いワンピースに身を包み、白い肌のコントラストが印象的。ベージュのトートバックをカウンターの上に乗せており、両耳からパールのピアスがぶら下がっていた。

 彼女は身体をこちらへ向けて、同じように頭を下げた。その一連の動きには無駄が無く、手慣れた洗練さが感じられた。それゆえ、顔立ちと仕草の統合性に欠けているような感覚があり、年齢がイマイチ予測しにくい。だが、おそらく三十才よりも手前だろうと考える。

「ルージュ……口紅ですか?」私は思いついた物を言った。

「あら、ご存知なのね」彼女は唇に人差し指を当てる。「赤くて、印象的でしょう。それが由来なのです」

「なるほど……」私は頷く。「確かに、貴女は鮮明に記憶に残ると思います。きっと、魅力的なのでしょう」

「ルージュの意味をご存じだったのは、きっと貴方だけね」彼女は軽く嘆息を漏らす。「皆、訳もなく、魅力的、という言葉を発するのです。……魅力的と言った訳を伺っても?」

「容姿の印象をそのまま名前にするという発想が、私にはとても面白く感じただけですよ」

「まあ」彼女は口元をわざとらしく両手で押さえた。「貴方の名前が聞きたいわ」

「シープ、と申します」私は頭を下げる。

「それは、もちろん偽名ですね?」

「失礼ながら」

「わたくしも偽名ですから、仕方のないことですね……。残念ではありますが」

 本名にこだわる理由と必要性がよく分からなかったが、言及をするのはやめた。

「では、話を始めましょうか」

「待ってください」彼女は片手を上げて制止する。

「どうかなさいましたか?」

「飲み物が来ます」

 忘れ去られていたバーテンダーが、二つのグラスをそれぞれの前へ素早く置いた。麦茶色の透明な液体の表面は氷を除いてフラットそのもので、バーテンダーのキャリアが垣間見える。

 私はグラスを手に取る。彼女も手に取った。

 彼女は爽やかな笑みを作ると、こちらを向いて、グラスを私の方へ差しだした。

「乾杯」


   ***


「私は、その、追われているのです」

「誰からですか? 組織ですか?」

「組織です。おそらくは」

「詳しく話すことはできないのですね?」

「ええ……そうです」

「なるほど」彼女はグラスに口をつける。「只事では無さそうですが、詳細が分からなければわたくしとしてもどうもできません」

「それは、もちろん分かっています」

「あ、いえ」胸の前で片手をひらひらとさせる。「別に、言いなさいと要求しているわけではないのです。……ですが、心配しているのです。これは事実です」

 私は、何も言えずに俯いてしまった。

 彼女、ルージュには危ないところを助けてもらった。しかし、彼女は当然部外者だ。情報はむやみに言えないし、言えば彼女だって危険に晒される可能性がある。

 いや……。この時点で、既に彼女も関係者と判断されてもおかしくは無い。

 監視されている可能性がある。このバーは安全だと言ったが、その保証はどこにもない。

 どうしたものか……。

「そんな難しい顔をしないでくださいな」

「あ、いえ……。ええ、そうですね。すいません」

「このバーが安全なのは、確かです」彼女はグラスを傾けて中身を回している。「わたくしが偽名である理由も、決して公には言えないことです。しかし、わたくしが偽名を名乗る必要性が、同時にここの安全を保証する意味を成しているのです」

「……なるほど。お互い、不自由ですね」

 私は、ここでようやく、初めてグラスに口を付けた。

「不自由?」彼女は吹き出す。「どういうことですか? わたくし、どこか不自由ですか?」

「失礼」私は微笑む。「私が勝手にそう感じただけです。気になさらないでください」

「自由なんて定義が曖昧な言葉は、わたくし、あまり好きません」

「個人が自由だと感じていれば、自由。これが定義ではありませんか?」

「それが定義なら、わたくしは自由だわ」グラスに何度目かの口を付ける。「不自由に感じたことなんてありませんもの。わたくしを取り巻く今の環境は、大抵のことを可能にしてくれる」

「それは……確かに、自由ですね」

「貴方はどうなの?」

 彼女は少し表情が柔らかくなった気がする。関係の変化ではなく、アルコールの影響だろう。

「私は、そうですね、ええ、きっと私も自由です」

「追われているのに?」彼女は脚を組んだ。

「追われているから、どこへでも行けるのです。私は今、たった一つのしがらみから脱しようとしている」

「しがらみ……」脚を逆に組み直す。「わたくしからも、逃げるおつもりなのね」

「そのつもりです」グラスの液体は残り僅かだ。

「彼に、お気に入りのヤツをお願い。あ、わたくしにも」

「かしこまりました」

 突然、彼女はバーテンダーに追加のオーダーをする。彼女の表情は如何にも楽しそうで、少し悪戯めいた、否、妖艶な雰囲気が漂っていた。

 私は無言で、疑問の視線を送る。

「しがらみからの解放記念、と言ったところね」彼女はグラスを一気に傾け中身を飲み干す。「わたくしにお気に入りを注文させた。これは、夜明けが遠くなることと同意義です」

「私は貴女に気に入られた……」私も残りを一気に飲み干した。「そういうことでよろしいのですね?」

「あら、わたくし、あなたの謙遜な部分が好きなのよ?」

「それは、とても光栄なことです」

 彼女はお腹を両手で抱えながら大笑いした。パールのピアスが躍っている。

 私がその様を眺めていると、バーテンダーがサッと目の前に現れ、グラスを置いた。相変わらずキレが良い、と思う。

 グラスには、一センチだけ積もる卵みたいな白い泡と、その下に広がる不透明な黄色の液体が注がれていた。

「ダービー・フィズでございます」


   ***


 私たちは裏の戸を開けて建物に囲まれた屋外の空き地へ出ると、そこからすぐそばの五階建て建造物の外壁に設えられた非常階段を上がり、屋上へ出た。

 ところどころ錆びている手すりを両手で掴んで、眼前に広がる明るい町を見下ろした。彼女は私の隣へ立つと、少し肌寒いのか、白い肌を包むように腕を組んだ。

 夜の冷たい風に全身が洗われる。確かに少し冷えるが、震えるほどでは無かった。

「非常階段の扉の鍵を開けたようですけど、この建物のオーナーなのですか?」

「いいえ」彼女は前方に見えるどこかの建物を指さした。「あそこや、あそこ。はたまたあちらの建物でも、わたくしは開けられます」

 差された建物を目で追っていたが、中止して彼女を見た。

「……なるほど、そういうことでしたか。ああ、もちろん、これ以上の詮索はしません」

「よろしくてよ」

 彼女は視線を合わさず、どこか遠くを見て儚げに微笑んだ。目下のネオンによるライトアップが加わり、その表情は妙に魅力的に見える。一瞬思考を放棄して見惚れてしまう程だった。

「昼間の様に明るい、この、夜のネオン街。……夜空とどちらが綺麗かしら」

「……私には決めかねます。自然物と人工物を天秤に掛けるのは難しい」

「自然が人を作ったのなら、人工物は自然物に含まれるのではなくて?」

「もちろん、そういった考え方もあるでしょう」私は冷えた手をズボンのポケットに突っ込んだ。「ですが、自然物とは、総じて全てが絡み合い、共生しているものだと私は思うのです」

「ええ、確かにそうね。環境の支配は、人をより傲慢で愚かなものにしたわ」

「まあただ、極めて主観的で個人的な価値観に基づいた判断を言うのならば、ネオン街……人工物の方が、私は好きです」

「まあ、何故かしら。わたしくは夜空の方が好みですのに」

 彼女は私の目を見ると、あざとく首を傾けた。

「人工物は、聡明な頭脳の象徴であり、まさしく知性の現れそのものです。私は、多分、それが好きなのしょう」

「では、ダービー・フィズはさぞ美味しかったことでしょう」

「……何故ですか?」

 彼女は、再びネオン街へ視線を向けた。

「だって、あんなものを作れるのは、きっと人間だけですから」

「ええ、全く、その通りだと思います」

 下から聞こえてくる遠い喧騒と、冷却された風が屋上を通り抜けていく。火照った頭は徐々にクリアになり、私は深く息を吐いた。酔いがだんだんと醒めていっているようだ。

「どうして、私を屋上へ連れて来たのですか?」私は彼女へ体を向けて尋ねた。

「……何故だと思いますか?」

 しばらく考えたが、分からなかった。頭が酔いに侵されていなくとも、きっと答えは出なかっただろうと思う。

「……いえ、見当もつきませんね」

「あらあら」彼女は笑った。「どうやらあなたは、頭脳の象徴、知性の現れではないようですね。だからあなたは、自然物なのよ。人工物ではない」

 途端、視界がぐにゃりと歪んだ。音はどこか遠くへ行き、私は混ざった絵具のような景色の中で跪いた。だが、目の前のルージュはハッキリと存在したままだ。立って、こちらを見ている。

「がっ……はぁっ……な、んだ?」私は地面に手をつき四つん這いになる。

「ごめんなさいね」彼女は私を見下ろしている。「わたくしとしても、不本意ですのよ」

「何を、したぁっ! くそっ……!」

「あなた、今、どこにいるとお思いで?」

「っ……っ?」

「ここね、屋上では無いのよ。バーからは、一歩も外に出ていないわ」彼女は不敵に微笑んだ。「あなた、一体何を見ているの?」

 ……どういうことだ。

 ぐちゃぐちゃの景色に囲まれて、自分の居場所が分からない。だが、先程の喧騒と風は本物だった。そのはずである。店内から一歩も外に出ていないのなら、それらの説明はどうなるというのだ。

 私は彼女を睨みつける。

「あらあら、怖いお顔だこと」

 彼女は目の前で膝を折り、私の顔を妖しげな手付きで持ち上げると、そのままゆっくりキスをした。

 視界には、ルージュの顔が大きく映っている。しかし、それすらもぼやけて混ざり合い、どんな表情をしているのか分からなかった。

「想像しなさい。あなたの望みを、頭に思い浮かべるの」

 彼女の声は遠い。

「……?」

「あなたは、どうなりたいの? 何がしたいの?」

 私は……。

 どう、なりたいのだろう。

 ああ……。

 私の瞼は、段々と閉じていくようだ。ぐにゃぐにゃとしたカラフルな世界から、真っ暗な世界へと、私は行くのだ。

 ネオンから、星空へ。

 人工物から、自然物へ。

「……羊よ、どうか、安らかに」

 微かに言葉が聞こえた。

 私は、完全な暗闇に包まれながら、ただただ、夜明けを待っていた。


   ***


 視界には、白い壁がぼんやりと映っていた。それから、私はベッドに横になっているのだと気付き、先程の白い壁が白い天井だということを認識した。

 頭はふわふわとしていて、何も考えられない。

 すると、すぐ近くで何か物音がし、それは段々と遠ざかって行った。

 体を起こそうとしたが、動かない。

 首だけを左右に動かした。

 左には明るい茶色をした台のようなものが置いてあり、その上にディスプレイが置かれていた。おそらくテレビなのだろうけれど、向きが適当で、こちらからは画面が見えない。

 右には白くて薄い仕切りがあり、その手前、ベッドのすぐそばに、パイプ椅子が置かれていた。

 それと……。

 それと、とても、明るかった。

 左手に、窓がある。そこから青空が見えた。天井の蛍光灯には明かりが灯っていない。

 突然、右の方から足音と思われるものが多数近づいてきた。

「起きたようだね」

 渋めの声だ。首を回すと、白衣を着た、丸い体型で髭を生やした男が、パイプ椅子に腰かけたところだった。

「ここは……、どこですか?」私は尋ねた。

「病院だよ。貴方は緊急搬送されたんだ。しかし、身元不明で、貴方と関係のある人物と連絡が取れなかったものだから、独断で手術を行った。結果、生きている」

 私は、頬が緩むのを感じた。

「私は、身元不明なのですか? 誰とも、連絡がつかないのですか?」

「あ、ああ……。残念ながらね。だから、教えてはくれないか」

 私は、身元不明。

 私のことを、誰も知らない。

「ははっ」

「……? どうしたのかね」

「はははっ。ははははははははははははっ!」

 可笑しい。

 嬉しい。

 楽しい。

 面白い。

 ははは。

 涙が流れる。

 医者と看護師が慌てふためいるのが分かる。

 でも、そんなことどうだってよかった。

「……私は、自由なんだ」

 呟いた。

「私に、しがらみは、もう無いんだ!」

 叫んだ。

 混濁した虹色が、体を徐々に包んでいく。

 私はその中で大笑いした。

 刹那、女性の姿が脳裏をよぎる。

「ルージュ……?」

 彼女と、もう一度話してみたい。

 それは微かな望みだった。

 次の瞬間には、目の前がネオン街になっていた。

 振り仰ぐと、星空が瞬き、月が見えた。

 クラクラした頭を抱えながら、フラフラとした足で歩き出す。

 私は願った。

 夜明けよ、もう少し待ってくれ。

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