あなたを幸せにするまで

空腹

五月

友引、虎の尾に坐る

 後は若い二人にまかせて、なんて黴の生えたようなフレーズとともに音もなく障子が閉まった。残された二人は足音が完全に消えるのを待ってから、どちらともなく深いため息を吐く。双方が乗り気でないのは火を見るより明らかだ。

 鹿威ししおどしの音しか聞こえないような重苦しい空気を破ったのは金髪を逆立てた男の方だった。面相と和装がまるで似合っていないうえに、正座しているにもかかわらず座布団から膝がはみ出している。


「……申し訳ねえんすけど、そちらから断ってもらえねえもんでしょうか」


 膝に手をつき深々と頭を下げた拍子に、二本の角が漆塗りの卓をしたたかに打った。まだ二人とも口をつけてすらいない茶に波紋ができる。


「そうなりますよねえ。私のワガママにしたほうがカドも立ちませんし」


 黒髪を顎に届くかどうかで切り揃えた、まだ幼くすら見える少女はごしごしと乱雑に顔を拭う。べたべたに塗りたくられた白粉も紅もハンカチに移る。真夜中に見る市松人形じみた雰囲気は化粧と一緒に拭い去られた。指で唇に触れ、なにもつかないのを確かめてから、すっかり冷めた茶を一息に呷る。

 再びのため息。金髪の鬼は目の下の青い疲れた顔をゆっくりと上げた。


「オレんとこは……名前も残ってねえぐらいの、単なる鬼で……たまたまオレの代でこうなっただけなんすよ」


 こめかみからのぼっていった先、髪の生え際近くの、今しがたぶつけた角を指す。人を刺すほど尖ってはいないものの、瘤というにはあまりに硬い。漆塗りの卓にはしっかりとぶつけた跡が残っていた。


八瀬やせの家は名前ばかりで、私なんてほとんど角も残ってません」


 前髪をかきあげた額に、小さく出っ張ったものが見えてはいた。髪を下ろせば悟られないようなものだ。


「政略結婚ですよね。どこともしがらみがないけど形質が強く出た、とっても都合のいいひとがたまたま見つかっちゃったものだから。まだお互い結婚できる年でもないのに」

「すんません……」

「悪いのは老人ですから」


 優しく返す表情は花の咲くような笑顔だったが、誰もいない障子の向こうを見る目はまさしく鬼だった。もしも自分より力が強ければ、この子は全員黙らせて好きに生きたのでは――と、金髪の鬼は益体もない想像をする。そうでないからこうなっているのに。


「ねえ」

「はい?」


 指輪の跡が残るごつごつとした手を、爪を不自然な真っ赤に塗られた白い手がとった。


「一つ悪巧みに乗ってくれませんか?」





 五月の大型連休も明けた頃。

 空は青く、おおむね人の形をした生徒が収まる教室はいつも通り騒がしい。生徒たちの一部には角に鱗、はては翼さえもあるが、顔形はほとんど人間だった。そして、そうした特徴を持つ生徒とそれ以外との間に壁はみられない。当たり前の日常の一風景だった。

 大きな背中を丸めて教室の戸をくぐった少年の肩に突如として腕が回される。いぶかしげな顔を向ければ、人好きのする狐目の笑顔があった。


「トラ結婚するってマジ? ウェディングケーキはウチに発注ヨロシク」


 逆立てた金髪と着崩した制服の、寅尾とらお少年は両手で顔を覆う。その指にずらりと並ぶ髑髏や龍や般若に混ざって、左手の薬指だけには細い銀の輪が嵌まっていた。

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