美食猫は生命の塔を自在に泳ぐ

若生竜夜

第1話 グエンフィードの貴公子

The wind citadel/Ghost song/Lost prince/Witness

【The wind citadel(Nowadays)】


 すすり泣く風の中。

 それは、あるべき場所へ、戻ったのである。


         *       


 二人分の旅行鞄トランクを降ろし終えた巡回馬車が、機械馬の嘶きといくらかの土埃を残して、すぐに次の目的地へと去っていった。

 乾季の太陽にあぶられた大地を渡ってきた後で不意に嗅ぐ水の匂いは、旅の心を格別にうるおしてくれる。

 逆光に影絵となる城を眺めやれば、取り囲む湖面で魚鱗のように立つ波が午後の陽を乱反射しているのが見える。白い羽と紺色の足を持つ内陸カモメの群れが、かん高い鳴き声をあげながら、晴れた空をかしましく飛び回っている。ちょうど今は餌を獲る時間のようだ。渇水期で常よりも低くなっているらしい水面へ、何度も突撃している。

 と、撥ね橋の上を舞っていた内陸カモメたちが、一斉に湖の左側へ流されだした。それが合図ででもあったかのように、か細い嗚咽のような、長く尾を引く音がどこかから聞こえ始める。

「これは?」

「〈泣歌〉です」

 尋ねればまろやかな声で背後からそう返ってきた。ウィンスビートは眺めていた城壁から目を引きはがし、声の主を振り仰ぐ。

「夏と秋の境に、季節を変える風が吹く間だけ、聞くことができるのですよ」

 答えたのは、喉上まで覆う艶やかな黒のシャツに細い身体を隠し、嫣然とした笑みを口元に浮かべている麗人――リュトナイアだ。倒錯的な雰囲気を好む者には、たまらないだろう。男とも女ともつかない中性的な麗貌に、風にあおられる肩までの黒い髪が乱れかかって、徒花めいた風情を醸し出している。

「へええ。なんだか興味深い現象じゃない」

 ウィンスビートはもう一度湖面に影を落とす美しい城へと視線を戻し、悪くはないと感想を持つ。逗留先にこの地を選んだのは、正解だったみたいだ、と。

 風の城、もしくはグエンフィードの嘆きの城と呼ばれるこの湖上の古い城の始まりは、異教徒が祈りの場として使用していた岩城であったのだという。それを攻略し、己が居城となる城館へと作り変えたのが、竜血公グエンフィードだ。以降、城には代々一族の者が住み、一時は湖岸に広がる町とともに〈湖の宝石〉と言われるほどの隆盛を誇ったが、それも今は昔。現在は往時の情趣そのままに、『古のロマンが味わえるホテル』として口づてに人気である。

 ウィンスビートもそんな評判に惹かれてやってきた客の一人だ。春からはじめた老教授相手の退屈なおもり仕事にうんざりしていた彼は、点在する異教徒の洞窟遺跡と氷塊を思わせる湖の冴えた青を堪能しようと休暇を取って、同僚であり友人でもあるリュトナイアに誘われるままに山脈を越えた大陸東岸からここまで足を運んだのである。

「このまま湖岸の遺跡を巡りたいなぁ」

 そう希望を言えば、明日の朝にした方がよろしいと思いますよと返された。

「一周するのに半日かかります」

「それが?」

「東岸には足場がもろくなっている箇所もありますからね……」

「今からじゃ陽が落ちちゃってきついってわけかぁ」

 ウィンスビートは残念そうに唸った。

「仕方ないや。だけど近くをふらふらするくらいはできるよね? ね、リュトナイア」

「ええ、そのくらいでしたら。ですが、まず宿泊手続きチェックインを済ませてしまいましょう」

 リュトナイアが旅行鞄トランクを持ち上げるのにならい、ウィンスビートも己の分の荷物を抱える。城門は、撥ね橋を渡った先だ。そこまで少し歩かねばならない。向こうまで馬車が運んでくれればよかったのに。ウィンスビートは、ちらりとそんな感想を持った。

 吹き止まぬ〈泣歌〉と内陸カモメの声が彼らの背中を追っていく……。




【Ghost song(Past)】


 革袋の中で、まだぬくもりの残る液体がたぷたぷと揺れている。陰鬱な廊下を吹き抜けていった隙間風が、手に下げたランプの火を揺らし、それが合図ででもあったかのように、細くすすり泣くような〈泣歌〉の響きがさらに増した。

 嫌な音。側仕えのダナイは冷えた石の廊下を足早に歩きながら、ぶるりと震え、空いている方の手でお仕着せの襟元をかき合わせた。この城へ来て二年ほどになるが、未だにこの声には慣れることがない。皆はただの風の音だと笑うけれど、本当にそうだとどうして言い切れるのだろう。

「亡霊の声かもしれないって? ははっ、そりゃね、確かにここは異教徒を滅ぼして勝ち取った城だけどね」

 こちらを見下ろして、歯牙にもかけぬ様子で笑った男の顔を思い出し、彼女は足音をいくぶんか荒くする。なによ、あんなに簡単に否定して。こっちは故郷を遠く離れて働いているのよ。心細いんだねって、少しくらい同情してくれてもよさそうなものじゃない。声には出さずに、不満をつぶやく。

 再度、じっとりと暗い廊下を風が吹き抜けていった。今夜は随分と隙間風が酷い。まだ秋に入りかけたばかりだというのに、この調子では、今年の冬は毛布を一枚自分で買い足さなければ眠れないかもしれない。幸い今夜言いつかった仕事には、特別に手当をつけていただける。大嫌いな〈泣歌〉がよく聞こえる下の部屋へ物を運ばなければならないのは憂鬱だが、それも少しの間の辛抱だ。さっさとご主人様の言いつけを終わらせて、明日のためにも寝床にもぐろう。

 ダナイは足を早める。冷えた石の廊下を、〈泣歌〉に揺れる灯火と己の足音を引き連れて、側仕えの娘は進んでいく。




【Lost prince(Nowadays)】


 晩餐前のちょっとした余興的に別枠オプションで用意されている城内見学ツアーは、亡霊に貴公子が引きずり込まれたという血なまぐさい伝説がある井戸を経て、最終地点である肖像の間にたどり着いた。以前参加したことのある者からウィンスビートが聞いたところによれば、ここの壁にかかる肖像画と家系樹こそが企画の目玉であるのだそうだ。

「ね、あの絵さ、ちょっと君と雰囲気が似てない? 髪の色とか目の辺りもさ」

 ウィンスビートは他の客たちに混ざって目を輝かせながら、隣に立つリュトナイアの袖を引き、傾けられた麗貌へそう耳打ちした。彼が指し示した豪華な額縁の内側では、飾りのない簡素な指輪をはめた麗しい顔立ちの貴公子が、憂いを含んだ眼差しをこちらへ向けている。

「そうですか?」

 胡乱げに絵へ視線を投げたリュトナイアに、そうだよとウィンスビートは笑って、いたずらっぽく八重歯を覗かせる。

「あとでご主人様と従者ごっこでもしようか。君が主人で僕が従者とかさ、どう?」

「やめてください。子供じみてます」

 リュトナイアはげんなりとした表情かおを作った。

「さて皆さま、こちらが件の肖像画と家系樹でございますが」

 執事を模したお仕着せの案内人が、率いてきた客たちをぐるりと見回して、背後の壁を振り返った。

「肖像画の人物は、ご覧のように右手中指に継嗣である証の特別な金属の指輪をいたしております。通常、『嘆きの貴公子』、あるいは『失われた貴公子』と呼ばれるこの貴公子は、伝承によりますと、十一年戦争の英雄でありますところのサーナックス二世の長子にして、先ほどご案内いたしました亡霊の井戸に引き込まれて行方知れずとなった人物と同一であるということでございます。

 では、ここでひとつ、皆さまに謎をお出しいたしましょう。皆さま、さきほどの説明を念頭に、隣の家系樹に描かれたサーナックス二世の代をご覧ください。いかがでしょうか。なにかお気づきになりましたでしょうか?」

 ざわめく客たちのうち、一人が、あ、と声をあげる。

「男性の名前が……ない?」

「お客さま、ご名答でございます」

 朗らかにひとつうなずいて見せて、案内人は言葉を続けた。

「サーナックス二世とその最初の妻であるディシアの間には、伝承通りであれば失われた後継者である男性の名が書かれるはずです」

 いくつもの視線がその箇所に注がれる。実際に書かれているのは、〈ウルタミネ〉――明らかに女性の名だ。

「何故このようなことが起こったかと申しますと、この地方にかつてあった、〈宣誓乙女〉という制度のためだと言われております」




【Witness(Past)】


 夕暮れに風が変わった途端〈泣歌〉が聞こえ始めた。風の生む細い嗚咽は、夜半近くとなったこの時間まで絶えることなく響いている。

 リムドは就寝前の見廻り仕事で城の中を歩いていた。手に下げたランプの炎が隙間風にたよりなく揺れている。石の城は壁こそ堅固だが、連ねた板で覆っただけの窓から入り込んでくる隙間風が酷い。冬が来る前に板の隙間を松脂まつやにで埋めてやった方がいいのではないだろうかと辺りに目を配りながら考える。

 そういえばこの〈泣歌〉に、先日初めて城を訪れた客人が眉を顰めていた。なるほど、か細くすすり泣くような音は、気にしだすと耳について、人を陰鬱な気分に陥らせるかもしれない。長年城に住み込み主に仕えるリムドにとっては、既に慣れてしまったものではあるのだが。

 側仕えのダナイもやたらとこの音に怯えていたな。彼はそばかすが浮いた娘の顔を思い出し、覚えず笑いを漏らした。幽霊かもしれないとは、いやいや、この土地で生まれ育った者には思いもよらない発想だ。風の音に怯えるなんて、かわいいじゃないか。

 ダナイの気が小さいのは欠点だが、逆に言えば、それは細やかな気質の裏返しでもある。実際彼女はよく気がつき、同僚たちよりも良い働きをすると主に気に入られている。今宵もひとつ、余分に仕事を仰せつかっていた。かわいそうに、疲れているところへ……。明日にでも、上司としてなにかねぎらいの言葉をかけてやった方がいいだろうか。

 考えながら、リムドは規則正しく歩みを進める。この階さえ済めば見廻りは終わりだ。ようやく温かな己の寝床にもぐりこめる。

 と、ボソボソとした話し声が耳についた。こんな時間にどうしたことだろう? この階に住むのは、ご城主様とそのご家族である方々だが、皆もう眠っていらっしゃるはずだ。リムドは不審を覚えて声のする方向をうかがう。

 少し先の廊下に、細く明かりがこぼれているのが見えた。あそこにはちょうどご城主様の寝室がある。

「私に……を強いておいて、今更ッ、父上は、……と、おっしゃるのか!」

 僅かに開いたままになっていた扉の内側から漏れ聞こえて来るのは、どうやら若殿の声のようだ。随分と興奮しておられるご様子だが、なにを話していらっしゃるのだろう? 父上という言葉が聞こえた辺り、会話の相手は部屋の主人、グエンフィード城主その人だろうが……。

 首をかしげたのとほぼ同時に、激しく言い争う声がして、勢いよく開いた扉から、一頭の獣のように影が走り出て来た。人影はリムドに危うくぶつかりそうになりながら脇をすり抜け、階下へと降りる階段の方へ荒々しく駆け去っていく。

「なにをしている、早くあれを追え!」

 届いた叱責は、城主の声だった。あっけにとられていたリムドは、影の去った方へと慌てて走り出す。

 直後。

 階下より、長く尾を引く悲鳴が聞こえた。

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