第二十二話 朧月
小熊がカブで南大沢に来たのは二度目だった。
土地そのものが傾斜地にあるために道路が段違いになっていて、前回は少し迷ったが、ちゃんと調べて実際に走れば特に問題なく目的地に着ける。
以前地図で見た時には混乱するだけだった新宿西口の多層構造や渋谷の高低差の中でも、カブでなら走ることが出来るだろう。
小熊が無事大学に進学し、この街に住むことになったら、東京の真ん中にだってカブで気軽に行ける。そう思いながら駅前ショッピングモールの駐輪場にカブを停めた小熊は、駅の入り口方面を見た。
改札より一段下を通る私鉄が新宿までの直行電車を走らせている。あれに乗れば幾らで都心まで行けるのかと思った。カブのガソリン代より高いんだろう。自分の足になる物の無い人間が乗る割高な交通手段。
小熊はここまで乗ってきたカブを停めてある有料の駐輪スペースを見た。高い金を払って電車で行く奴らは、駐輪スペースに金を払う必要が無い。
金のことを気にしているとどんどん自分が矮小になる。そう思った小熊はカブを降り、駐輪場に付属したワイヤーロックをカブに掛けた。
学校の授業を終えた放課後の小熊が、南大沢の駅に来たのに深い理由は無かった。
来年からこの駅にある大学に行き。この街で暮らすなら、早いうちに知っておくほうがいい。それに東京でも山梨寄りの八王子は午後のお散歩的なショートツーリングにちょうどいい。学校の授業が早く終わる日なら、ここまで来てしばらく過ごし、そのまま帰る頃にはちょうど夕飯時になる。
平年より暑さの厳しい初夏。昼間にカブを走らせていると汗が流れてくる陽気の中を、山梨より暑い東京まで行く意味があったんだろうかと考えた。
冬になるとすぐ寒いと言っていた礼子は、暑い暑いと言いながら少しでも涼しい上高地まで走りに行っている。そっちについていったほうが良かったかもしれない。
時間とガソリンを浪費して損した気分にならないように、こうなったら先日は大雑把に見るだけだった南大沢の街を、少しでも詳しく知ってやろうと思い、小熊は歩き出した。
前回ここに来た時は駅前を少し見て回っただけだったが、今日は歩く範囲を駅の周囲まで広げた結果、わかったことがあった。この街は今までの小熊が知る大きな駅の近辺とは異なる部分がある。
駅前の規模は韮崎以上甲府未満といったところだが、この南大沢という街は、全てが新しい。
ショッピングセンターやアウトレットモール、マンションや小熊が行く予定の大学が駅近辺に集約された街だけど、これくらいの大きさの駅前に特有の、新しく建設された大規模店舗に対抗するような、昔ながらの商店街や住宅のようなものが見当らない。
まるでこれらの物々が建つ前は何も無かったような風景。以前ニュースで見たサウジアラビアのドバイを思い出した。
欧州都市を凌駕するほどのビル群が密集する都市は、その開発区域から一歩出ると何もない砂漠。遠くから見ると砂漠の海にコンクリートの島が、そこに根を下ろすことなく浮かんでいるように見えた。
駅前から伸びる坂を登った小熊は、背後を振り返りながら思った。自分はこの蜃気楼のような街の住人になれるんだろうか。
駅から離れると、舗装は新しいが建物は低層の小規模な物ばかりになる。事務所やアパート、建売住宅や公園など、駅前よりいくらか人間的な景色。
それだけ確かめたところで、暑さに降参しそうになったので、坂を上りきることなく駅前へと引き返した。
大学を正門越しに外見だけ見た小熊は、キャンパスや駅に隣接したマンションへと向かった。この大学の女子生徒の入居を受け入れている女子寮。
前回は見ることの無かった寮を外から眺めた。大学寮といっても、駅周辺にいくつかある分譲タワーマンションと遜色の無い建物。
出入り口はオートロックで、受付には警備会社の制服を着た管理人が常駐している。ベランダ側から建物を見ると一つ一つの部屋も広そう。あまり洗濯物を干している様が見えないのは、各部屋に洗濯乾燥機が付いているからだろうと思った。
上ばかり見上げていたが、自分があと一年に満たぬうちにここの住人になると思うと、首の痛みも感じない。平日午後の平和そうな寮を眺めていた小熊は、建物の地上部分に目をやった。
広い緑地スペースに来訪者用の駐車場。そして表通り沿いには何台かの自転車が停められた駐輪場。小熊は疑問を覚えた。
ここに住んでいる人間は、どこにバイクを停めるんだろう?どこでバイクを整備するんだろう。
そう思った小熊は、数日前に教師から見せられた大学の案内書類に書かれていたことを思い出した。入寮者はバイク禁止。
そんなのでは不便で仕方ないだろうと思い、小熊は寮のすぐ隣にある駅を振り返った。
マンション寮や大学にほぼ直結した駅前には、いくつものショッピングモールビルが立ち並び、お洒落なファッションブランドショップやカフェだけでなく、大衆的なスーパーやファミレス、ホームセンターまである。日常的な需要が徒歩圏内だけで完結している街。
この街だけで大概のものが買えるんだろう。それでも入手が困難なものを買いに行くための電車は、分刻みで運行されている。
「いらないんだ」
カブに乗ってはいけない寮のある大学は、もうカブに乗る必要の無い街にあった。
見るものは見た気分になった小熊は、カブを停めていたショッピングセンターまで戻り、バイクに乗っていると負担になる夕方の西陽が沈むまで買い物で時間を潰した後、カブで家路についた。
昼間と違って涼しい風が気持ちいいい日暮れの時間。太陽が沈み月が出てきたと思ったら、姿を現した三日月は雲間に隠れた。昼は晴天だったけど雨が近いのかもしれない。
もうすぐ短い初夏が終わり、梅雨の季節がやってくる。
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