第六話 椎の秘密

 クレープとシードルとカブ、充実したといってもいい午後を過ごした小熊は、翌朝いつも通りシャワーを浴びて制服を身につけ、昼に食べるご飯をメスティン飯盒で炊き、弁当の準備をしながら、朝食の準備をした。

 焼かない食パンにスキッピィのピーナツバターを塗った食パンに、インスタントコーヒーを淹れる。

 ここ数日、朝は準備の簡単なピーナツバターサンドを主食にしている。アメリカンソウルフードが好きだという椎の母から教えて貰ったピーナツバターサンドは、日本のおにぎりや寿司に相当するくらいのバリエーションがあるらしい。椎の母はそう言いながら会員制スーパーのコストコで買ったというピーナツバターを分けてくれた。軽く1kgはありそうなピーナツバターは当分無くなりそうもない。

 今日のピーナツバターサンドは、先日礼子と一緒に甲府の商工会館で定期的に催されている倒産品の即売会まで行って買ってきた大量の瓶詰めと缶詰のうちの一つ。椎の店でも何度か食べたことのあるクリームチーズ。


 陶器のように着色されたガラス瓶を開けた小熊は顔を歪ませた。中身は小熊の知る乳白色のクリームチーズではなく、どぎついピンク色。瓶に貼られた英語のラベルを見るとサーモンフレイバーとある。

 小熊は自分の暮らす山梨を都会だと思ったことは無いが、おそらく田舎者しか食べないであろうシャケ味のチーズを、瓶を開けたら日持ちしないものだからと言い聞かせてピーナツバターの上に塗る。

 ピーナツバターサンドの供となるコーヒーは相変わらずインスタント。不満があるわけじゃないけど、そろそろ違ったものも飲みたくなる。今度礼子の家に行った時、一般的な建売住宅より百年以上長持ちするログハウスに時々必要となるメンテナンス作業を手伝い、報酬としてパーコレーターでも分捕ってこようと思った。

 ピーナツバターサンドを食べ、コーヒーを飲みきった小熊は、冷蔵庫から出した青リンゴを齧って朝食を終えた。

 サーモン味のクリームチーズは思ったほど悪くない味だった。値段が折り合えばまた買ってもいいかもしれない。何でも開けてみるまではわからない。


 カブで家を出た小熊が学校の駐輪場に着くと、あまり原付通学者の多くない高校で、小熊と礼子の専用スペースのようになっているバイク駐輪場には、他のカブが見当たらなかった。

 遅刻ギリギリの登校が多い礼子はともかくとして、椎のリトルカブも見当たらない。まだ原付バイクに乗ることを怖がっている様子の椎は、昨日小熊に伴走して貰いながら礼子の家まで往復したが、まだ一人で学校までの距離を走ることは出来ない様子。

 小熊は肩を竦めた。最初はカブで家の近くを走り回るのにさえ緊張した小熊も、買って数日でそこまで慎重にはならなかった。やっぱり椎のあの小さな体ではカブを持て余すのかと思いながら自分のカブを停め、ヘルメットを脱いで教室へと向かった。


 昇降口を通る前、背後から自動車のエンジン音が聞こえた。低く重く、社会性に欠けた音量。小熊が振り返ると、校門の前に見覚えのある黄色いトラックが停まるのが見えた。

 椎の母が乗っている一九七〇年代のシボレートラック。ドアが開き、中から椎が出てくる。母親に送迎して貰うのならカブは不要だと納得した。まだあの子が親の手を離れ、自分の移動手段を手に入れるのは早かったんだろう。そのうち椎はカブをお部屋に大事にしまいこみ、自転車通学に戻るのかもしれない。

 その原因が昨日自分がプレゼントした後部荷台に付ける便利な荷物箱。ゴミ収集用の箱として使われていた樹脂製ボックスのせいだとは思わないようにした。

 ドアを開けた椎の後ろから、もう一人出てきたように見えたが、小熊は椎に背を向けて教室に入った。

 

 小熊が席についてしばらくして、礼子が教室に入ってきた。小熊を見つけた礼子はさっそく一方的なお喋りを始める。話の内容は礼子が二つ持っているパーコレーター、そのうちの一つがこのあいだハンターカブに装着した大型のエアクリーナーに付けるカバーに最適な大きさだということ。

 せっかく自分が頂戴しようとしたパーコレーターを切ったり穴をあけたりされたらたまらないので、礼子に言った。

「やめたほうがいい。あのエアクリーナーはカブには合わない。何でも大きければいいわけじゃない」

 それでも礼子はエンジンパワーを上げるには吸気が重要であること、自動車用を流用したエアクリーナーは、本来ボンネットの中にあることを前提に設計されているので、カブに装着し剥き出しで使うには、カバーが必要であることを熱弁している。

 予鈴が鳴ったので、礼子の話は強制的に中断させられた。さっき校門前に居たはずの椎はまだ教室に来ない。そう思っていたら予鈴と本鈴の間に教室に駆け込んできた。たしか昨日も遅刻寸前だった気がする。今まで早く来ることの多かった椎は、三年生になってから登校の遅い日が続いている。

 すぐにホームルームが始まったので、椎とは会話をすることが無かった。中休みにも椎は教室を出て行き、そのまま次のチャイムが鳴るまで戻ってこなかった。

 

 昼休みが始まり、小熊が礼子と一緒にメスティン飯盒の入った保温ケースを持ってバイク駐輪場に行く。最近は昼食の時間を小熊たちと一緒に過ごしていた椎は、昼休みが始まった途端に教室を飛び出して行った。

 小熊はメスティンを開けた。昨日食べたオイルサーディンの炊き込みご飯は冷めるとイワシの生臭さが気になったので、今朝はまとめ買いしたオイルサーディンをもう一つ出し、缶を開けて中の油を炊飯前の米の中に捨て、醤油を垂らして缶ごとトースターに入れた。

 トースターで少し醤油の焦げ目のついたサーディンを炊き上がったご飯に乗せ、塩とレモン汁を軽く振って蓋をした。


 昼食の時間。今日の弁当はどうなっているのか、いつも同じ味のレトルトには無い楽しみを少し抱きながら蓋を開け、焼きサーディンの弁当を一口食べる。まずまずの成功だったらしく、悪くない味。 

 弁当を食べながら、向かいで昨日のクレープパーティーの余りらしき、ポーク&ビーンズを大雑把に包んだクレープを食べている礼子に言った。

「椎は」

 礼子は自分で作ったクレープが失敗だったらしく、渋い顔をしながら言う。

「来ないわね」

 それからもう一つ、小熊が作って礼子の家に置いておいたアップルソースのクレープを取り出して頬張り、こっちは美味かったらしく満足そうな顔をしながら、あまり愉快でないことを言った。

「男でも出来たのかしらね」

 そういう話に縁遠い小熊と違って、椎は中学の頃から男子からの告白をそこそこ経験していて、断ることにも慣れている様子。そんな椎が誰かと仲良くなったなら、休み時間のたびに居なくなるのも不思議ではない。

 女子高生の乗り物としてはお洒落と言い難く、しかも後部にゴミ箱つきのリトルカブを椎が遠ざけても無理はない。


 このまま椎はカブから離れるのかと思っていたところに、当人の椎が息を切らせながらやってきた。

 何か聞きたい様子でウズウズしている礼子は、幾つも作ってきたらしきクレープを差し出しながら言った。

「お昼ご飯は?」

 椎は礼子が手にしているローストチキンの塊をそのまま包んだクレープを見て、首を振りながら言う。

「昼はもう済ませてきました」

 椎は誰かと楽しいランチタイムを過ごしてきたのか。少なくとも今の椎にとってカブより楽しい相手だったんだろう。

「放課後、わたしのお店に来てもらえますか?」

 以前、冬の川に落ちた椎をスーパーカブで助けて以来、小熊と礼子は椎の父からコーヒーと軽食の無料パスを貰っているので、言われずとも用の無い日には寄っている。椎の両親も来るたびにあれこれと新メニューを出してくれる。

 今日も何がしかのカフェフードと、少なくとも朝のインスタントよりましなコーヒーにありつけるなら、断る理由は無い。その後に何かつまらない事があったとしても。


 小熊と礼子の予想を裏付けるように椎は言った。

「お二人に会ってほしい人が居るんです」

 行くのをやめようかと思ったが、好奇心に駆られた表情をしている礼子に毒されたのか、小熊は黙って頷いた。

 椎が自分たちに会わせたいという人が居る。それが彼氏自慢のおのろけだったとしても、必ずしも好ましからざる人間であるとは限らない。カブに乗ることで開かれ、広がりつつある人間関係を拒むのは自らの可能性を閉ざすことになる。

 朝に食べたチーズの瓶みたいに、何でも開けてみるまではわからない。 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る