第五話 トッピング
ステレオのFMラジオがアントニオ・カルロス・ジョビンを流す中、小熊と礼子、椎はクレープパーティーの時間を楽しんだ。
アルコールの入っていないスパークリング・シードルをガブ飲みしている礼子は、ボトルも注がれた液体の外見もシャンパンによく似ているル・ボルミエに酩酊の催眠術をかけられたらしく、バターとイミテーションキャビアとして知られるランプフィッシュの卵を包んだクレープを二つ作り、両手に持って食べながら、上機嫌で椎にちょっかいを出している。
普段は礼子のボディタッチをイヤがる椎も、レタスとスティルトンのブルーチーズを包んだクレープを端からちまちまと食べながら、まんざらでもない様子。
椎の緩んだ笑顔の理由はクレープやシードルだけでなく、室内に運び入れられたリトルカブが視界の中にあるからだろう。椎が今までの人生で買った最も高価な物で、半額は親からの借金ながら自分の貯金をはたいて手に入れた。今までの家の手伝いで積み上げた努力の結晶のような椎のカブ。
小熊は礼子の部屋の冷蔵庫から出した瓶詰めの粒ウニと、地下の食料庫から出して手早く刻んだ紫蘇を包んだクレープを頬張り、自分のグラスを見た。
シードルを一杯で切り上げた小熊が飲み、さっき椎のグラスにも注いだ発泡ミネラルウォーター。地元産の天然水に含まれた炭酸ガスにはアルコールほどではないが麻痺効果がある。
席を立った小熊は、井戸水の蛇口を捻ると出てくる南アルプスの水を汲もうと思ったが、手を止めて冷蔵庫から蒼白のボトルに詰められた新しい炭酸水と、クレープの具を取り出してテーブルに戻る。
炭酸水をもう一口飲んだ小熊は、クレープに乗せたかいわれとネギ味噌を包み、指先の動きがいつもと変わらないのを確かめながら言った。
「今日はあなたにあげるものがある」
生ハムとキャンタロープ・メロンのクレープを両手で持って食べていた椎が目を見開く。礼子は今日のクレープパーティーが、椎のリトルカブ納車を祝うものだということを思い出したらしく、チリで炒めた挽き肉とチェダーチーズ、レタス、トマトを包んだタコスクレープの食べかけを小熊に押し付けながら、立ち上がった。
部屋の隅の作業テーブルに置かれた不似合いなプレゼント包みを掴んだ礼子は、椎の前にポンと置き、仕草で開けてみなさいと促した。
包みの中身はキーホルダーだった。スチールのリングにダイビングスーツの素材として知られるネオプレーン・ゴムで作られた小さなサイコロのぬいぐるみが付いている。
椎は驚いていた。プレゼントを貰った感激より、礼子に似合わぬ可愛らしいグッズへの違和感のほうが大きい様子。
小熊は以前礼子から聞いた生活の役に立たぬウンチクで、その映画アメリカン・グラフィティにも登場したサイコロのアクセサリーはファジーダイスと呼ばれ、アメリカのローライダーやホットロッドカーに乗る、あまり善良とはいえない連中の間で必須のファッションアイテムだということを知っていた。
ファジーダイスが危険な公道レースにおける無事故と息災、そして敵対する相手の事故死を願うお守りとされていることを椎に教えようとしたが、椎が礼子とは違う方向の夢を見るような瞳で、サイコロを手の中で転がしているのを見て、余計なことは言わないほうがいいだろうと思った。
小熊はとりあえず自分のプレゼントも椎に渡した。掌に乗るような礼子のプレゼント包みとは対照的にとても大きい。椎が通学やカブでの外出で使っているメッセンジャーバッグには入らないほど大きい。カブに積めば持って帰れるくらいの大きさ。
小熊のプレゼントは箱だった。
農家が収穫物を入れたりする樹脂性のボックス。幅と奥行きは通常の収穫物ボックスより一回り小さい。リトルカブの小さな荷台に左右を少々はみ出させつつ乗せられるサイズで、色は椎のリトルカブに合わせた水色。
小熊が自分のカブを買った時も、まっさきに装備として付け足し、その便利さに満足したのは箱だった。小熊は自分のカブに無駄な個性を付加しないように、どこにでもあるような黒いスチールの箱を選んだが、元より目立つ色のリトルカブなら、そんな匿名性を気にするのも今更の話。
市のゴミ収集業者が空き瓶や缶を収集するために使っているという箱。リサイクル施設まで行った小熊は未使用の物を有償で譲って貰おうとしたが、ちょうど発注ミスで余剰の品が出たらしく、破損品の廃棄処分という扱いで無料譲渡してくれた。
女子高生の身でカブに乗っていると色々な同情を受けることが多く、最初はそんな施しにいい気分がしなかった小熊も、今ではありがたく頂戴している。
類似の箱はホームセンターや百円ショップでも売られているが、それらの多くは屋外で使うとすぐに樹脂が紫外線崩壊を起こして数ヶ月でダメになる。一方この業務用ボックスは最初から風雨に晒され酷使されることを前提にしていて、少々の負荷ではびくともしない。
小熊から箱を渡された椎は微妙な表情をした。確かに一般的なイメージとしてはゴミを入れる箱。見た目と便利さを秤にかけている様子の椎に、小熊は言った。
「荷物を身に着けるより箱に積むほうが疲労が少ない。何か気に入った箱が見つかるまでの繋ぎに使えばいい」
椎はうまく言いくるめられた様子。少し前に三人で行った九州までのツーリングでも、カブにはヘルメットを収納できない事や、ヘルメットロックが使いにくく盗難に対しても無力であることは経験していた。
「あの、これ、どうやって付ければいいんでしょう? 」
その箱はバイク用のボックスとして売られている物と違って、固定に必要なステーやフックが無い。礼子が椎の手から箱を奪った。椎もあまり大事そうな様子で持っていない。礼子は箱をリトルカブのキャリアに乗せ、作業机に置いていた電動ドリルを手に取って現物合わせで箱の底に穴を開ける。それから業務用の高強度な結束バンドを使って後部キャリアに箱を固定した。
「あまり丈夫なステーを使うと箱が割れることもあるからね。これなら一本切れたら新しい奴で締め直せばいい」
椎は膝を抱えて自分のリトルカブを眺めている。小熊から見れば色も大きさも似合っていて、オモチャっぽかったリトルカブがより実用的になった感じだが、椎の目から見れば後部にゴミ箱を乗せたカブ。椎の夢を形にしたバイクに日常と現実を突きつけるような装備。
渋い顔をしてしゃがみこんでいる椎に背後から近づいた礼子が、胴体を掴んで立たせる。わき腹が敏感なため変な声を上げる椎の前に立った小熊は言った。
「わたしと礼子から、もうひとつプレゼントがある」
小熊は椎のウエストに鋼鉄のワイヤーを巻いた。盗難防止のワイヤーロックは、二周させるとちょうど椎の腰周りにピッタリ。礼子はワイヤーで縛られた椎のおへそ周りを眺めながら言う。
「これからはカブを停める時、このワイヤーでちゃんとロックすること」
椎は自分に巻かれたワイヤーロックに指で触れながら言う。
「あの、これ、わたしに合わせて用意してくれたんですか? 」
「まぁそんなところ」
小熊はそう答えながら。そのワイヤーは以前礼子が北米や欧州の自転車メッセンジャーのように腰に巻くため買ったが、自分のウエストサイズを見誤ったため長さが足りず、ここ最近、椎の店のおかげで栄養状態が良くなったのか、小熊の腰にも巻けなかったため、二人で持て余していたことは言わないでおこうと。互いのアイコンタクトで伝え合った
リトルカブの鍵を挿しっぱなしで自宅ガレージに置いていた椎に、このワイヤーロックをあげようとその場で決めたのも、小熊からすればあまり嬉しくない以心伝心。
三人で腹が苦しくなるまで食べたクレープパーティーは終わり、小熊と椎は各々自分のカブに乗って帰路についた。
椎のリトルカブには、礼子の家に来た時には無かったボックスが付いていて、椎はまだ美意識的に納得していない様子。
リトルカブに跨り、自転車でそうしていたようにメッセンジャーバッグを体に通そうとした椎は、背後に触れるボックスに気づき、そのままバッグを放り込んだ。
先行する椎を小熊は無理のないスピードで背後から追いながら、舗装された山道を降りていく。椎は今まで無い背もたれができたことに気づき、何度も背を当てて感触を確かめている。
椎の家に着き、リトルカブをガレージに停めた椎がファジーダイスの付いたキーを抜いた。ソフトな素材で作られたファジーダイスはキーを挿しっぱなしにすれば必然的に屋外に放り出すことになる。自然とカブから外し、部屋に持ち帰りたくなる。礼子がそこまで考えたわけではないと小熊は思ったが、結果としてカブを離れる時にはキーを抜くことが癖として身についたのを見て納得する。
椎がウエストに巻きっぱなしのワイヤーロックを外し、リトルカブをガレージ内の柱にしっかり固定したのを確かめた小熊は、椎からのお茶の誘いを断り帰路についた。もう腹は何も入らないくらい満ちている。
バックミラーの中の椎は、さっきまで微妙な表情で見ていた箱を指先で撫でていた。
バイクに乗っているとよくあること。最初はカッコ悪さから拒んでいたものを試しに付けてみた結果、そのまま便利さに負けて愛用するようになる。
小熊も礼子も自分のカブで体験させられた。椎もそうなってしまうのは、楽しみでもあり少し残念でもあったが、あの少女の淡い水色は、そう簡単に他人に染まることは無いだろうと思いながら、自分のアパートまでの道をカブで走った。
小麦粉と卵を焼き上げたような乳白の肌の椎と、まだ真っ白な椎のカブとの暮らし。
小熊の考えや礼子のお節介、色々乗せたほうが美味しくなることは今日知ったばかり。
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