第11話 6日目

大アクビをしながら時計を確認すると、すでに11時を回っている。

こんなに遅く起きたのは初めてだ。

昨日はじいちゃん家ではなく、着替えを取りに実家に帰って来ていた。


働くってハンパじゃない。この1週間で思っていた以上に蓄積した疲労は、自分でも驚くほど深い眠りを貪らせたみたいだった。しかもこんなに寝たのに疲れが抜けきれず、まだ眠い。


――あれ?今日って何か、予定あったっけ?

携帯のスケジュールを確認すると、『13時・安奈』とある。そういやなんか遊びに行くとか言ってたな。

どこに行くのか、何をするのか、話がどうなっていたのかが全く思い出せないまま、ノロノロとバスルームへ向かう。シャワーでも浴びて眠気を飛ばそう。


熱めのシャワーでだいぶ気分がシャキッとし、ガシガシと頭をタオルで拭いながらキッチンへ行くと、母がホットケーキタワーを作っていた。薄めに焼かれたホットケーキが、高さ50㎝は積まれている。

こういう時は作品が煮詰まって、気分転換を図っている時だ。

無心にフライパンに向かう母に気付かれないよう、その場を後にしようとしたのだが。

「あ、やっと起きた~」

しまった。気付かれた。

「お、おはよう、母さん」

引きつりながら挨拶をした僕に、にこやかに宣告する。

「お腹空いてるでしょう、20枚は食べてね」

「そんなに食えるか!!」

反射的にツッコんでしまい、満面の笑顔のままの母に両頬をひねり上げられる。

「んん~?そんな悪い言葉を吐くのはこの口か?」

「ごめんっ食べるよ、うわ~美味しそうだな」

「メープルシロップにする?蜂蜜にする?」

何事もなかったように、テーブルにバターやら何やらを並べ始める母に聞こえないように溜め息を吐き、椅子に座ると目線よりもうず高く重ねられたホットケーキにややうんざりする。


「そうだ、今日これから安奈が来るんだ。分けてやれば喜ぶんじゃないかな」

悪いな、安奈。道連れにして。

「あら、そうなの?じゃあ包んでおきましょうね」

鼻歌を歌いながらホットケーキを包み始める母に聞く。

「父さんは?」

「お父さんなら書斎に閉じこもってるわよ」

それから思い出したように笑い出す。

「浩之がいないから私がちゃんと晩御飯の準備しないって分かってて、あの人今週ずっと、主だった幹部さんたちを順繰りに、親睦を深めるって名目で食事に付き合わせてたの~。いい迷惑よね、幹部さんたちも!」

あははははは

明るく笑う母を見て、父に深く同情してしまう。

もっともらしい理由で突然食事に誘われた幹部さんたちも、まさか社長が、“家での食事が期待できないから”なんて超個人的な理由から誘っていたとは夢にも思わないだろう。


ナイフとフォークで、ホットケーキタワー・オブ・バベル(ヤケクソで命名)を切り崩しながら、会話と糖分でようやく回り出した頭が、昨日の騒動を思い出す。



―――“匠美鎖が潰れるらしい”

昨日はその話で持ち切りだった。みんな休憩時間のみならず仕事中もヒソヒソと噂し、その噂を裏付けてでもいるように、課長以上の役員は1日中会議室に閉じこもっていた。

玖珂さんに聞いた時は、さすがの国立さんも驚きで固まったくらいだ。

「マジで!?」

「うん、倉澤さんが言ってたらしいの」

「倉澤さんって経理の?」

「そう、なんかお金関係でかなりマズイ問題が見つかったらしくて」

「あのクソ社長か」

「たぶん……」

後は難しい顔でこれからの具体的な話になる。

その時は時間も時間だったし、僕なんかが聞いてはいけない気がしたので額を寄せる2人に一応声をかけて、その日の仕事場を聞きに総務に向かった。


―――でも……じいちゃんは匠美鎖の事を“すぐに潰れるような会社ではない”とか言っていた気がするが。

他社の内実までは分からないって事か。それだけ上手く粉飾していたのかもしれないが、その事実に田辺部長たち役職者は気付かなかったのだろうか?

いや気付いていても止められるものではないのかもしれない。社長の態度と評判を聞く限り、ワンマン経営らしいから、差し出がましい口を挟めば、首が飛ぶほど極端ではなくても機嫌を損ねて人事や昇進に影響が出るくらいの事はあるのかも―――何だって?

「え?何に入ったって?」

「だから株部」


運転手付きの車で迎えに来た安奈は、僕の前で見せるわがままお嬢様っぷりの欠片も見せずに上手くかぶった猫顔でそつなく母に挨拶すると、ホットケーキを受け取って僕を従えた。(ちなみに受け取ったケーキは軽く30㎝分はあり、さすがの安奈も一瞬ひるんだ。)

そのまま駅前に向かうと雰囲気のいいカフェに落ち着き、チケットを突き付けられ宣告される。

「今から映画を観ます」

今日は一方的に宣告を受ける日だ。僕の意思は1㎜も確認されていない。

溜め息を押し殺してカフェオレをすする僕を前に、安奈はご機嫌に学校でのいろいろな出来事や友達の話を始める。倒産騒動の事を思い出していて9割方うわの空で相槌を打っていたが、さすがに流せない単語が耳に引っかかり、聞き返した。


“かぶぶ”がどういう字を当てるのかとっさに思い浮かばず、視線を泳がせる。

「それはカブに限定して美味しい調理法を編み出す集団?」

「違うよ。株でどれだけ稼いだか1ヵ月単位で競うの!正式名称は”株式投資研究部”!」

「なんで、こんな時期に」

「いや、友達ですっごい稼いだ子がいてね。なんか面白そうって思って。あ、ちなみに”株で競う”って、シミュレーションだよ、一応」

「一応?」

「一応っていうか、表向きっていうか、体裁っていうか…、ま、いいじゃん!」

部活、なのか?お嬢様の考える事はよく分からん。

小・中・高校と普通の公立校に通い、加えて母親が自由な人のせいか、イマイチこういうハイソサエティな会話と感覚に付いていけない。そして付いていきたいと思えない。

普通の高校へ進学してよかった。

しみじみと西原家の教育方針に感謝していると、腕時計を確認した安奈が立ち上がる。

「そろそろ行こっか」

「はいはい」



…………何の映画を観たんだっけ?

始まってすぐに睡魔に襲われ、内容をまったく憶えていない。上映が終わりロビーに出てくるや涙ぐんだ安奈が「ちょっと待ってて」と言い残してトイレに行ってしまったところを見ると、感動系か恋愛系だろうか?

気付かないフリをしたが、目元はマスカラが落ちて真っ黒になっていたから、”ちょっと”で戻ってくるとは思えない。映画グッズのコーナーでポスターを眺めていると、100枚近くあるポスター全てに目を通し終わる頃にようやく安奈が戻ってきた。化粧はバッチリ直っていたが、個人的に言わせてもらえば――


「お前、化粧なんか必要ないだろ。結構キレイな顔してるんだし」

そう、睫毛は長いし目鼻立ちも整っている。子供の頃は子供服のモデルをやっていたくらいで、獅子原ダイヤモンド株式会社の創始者、獅子原 宗像氏の自慢の孫娘なのだ。


クラスの女子を見てもいつも不思議に思っていたのだが、なんであんな化粧するんだろう?ちっとも似合っていると思えないし、逆に背伸びしたいという子供っぽさを強調するようで、見ているこっちが恥ずかしいというか痛々しい。

そんな気持ちが何気なく口をついて出てしまったのだが、

「なん……な、何言って………」

口をぱくぱくさせながら安奈が耳まで赤くなる。

あれ?そんなに変な事言ったか?

「……………」

安奈はそのまま不機嫌そうにうつむいてしまった。

「え―――っと……」

怒らせたらしい。むしろ褒め言葉のつもりだったけれど、言葉の裏にあった無神経なものを敏感に感じてしまったのか。それとも、男には分からない女子の何かがあって、余計な事は言うべきではなかったかもしれない。

昔からよくこんな風に突然、安奈は機嫌を損ねてしまう事があった。

そんな時はいつもの手。

「ごめん、ちょっと待ってて」

その場を離れ、目当ての物を探す。それはすぐに見つかった。

いそいで元の場所に戻ると、こちらに目線を向けていた安奈がパッと顔を伏せてしまう。

「ほら」

急いで買ってきたそれを、その手に握らせる。

「……バカにして」

「してないよ。好きだろ?ソフトクリーム。昔っから、どんなに怒っててもこれ食べると機嫌直してたじゃん」

根っからお嬢様の安奈だが、オシャレなジェラードとか高級な食材で贅を凝らしたアイスクリームよりも、なぜか子供の頃から昔ながらのソフトクリームが大好きなのだ。

「むぅ」

半眼でソフトクリームと僕の顔を交互に見る。

「じゃあ食べない?」

「……食べる」

あむ、と1口頬張り、上目づかいで聞いてくる。

「ヒロくんの分は?」

「いや、お前の分だけ」

すると安奈は僕の手にソフトクリームを押しつけてきた。おすそわけという事らしい。

これ以上怒らせない為に素直にそれを口に運ぶと、その様子を妙にまじまじと見つめていた安奈がちょっと笑った。

その笑顔が、ホッとしたような嬉しそうなような、それでいてちょっと寂しそうなのが少し気になったが。

「ヒロくん、あたしが怒ったと思ってる?」

「え、違った?」

小さな、溜め息。

「ほんと、変わんないよね、ヒロくんは」

あきれたような顔は一瞬。次の瞬間にはいつもの安奈だった。

「さ、行こ!次は買い物に付き合ってね!」

「……はいはい。お嬢様の仰せのままに」



いけない、いけない。あたしのバカ!

こんな子供みたいな態度じゃ、ヒロくんに嫌われちゃうじゃないの。

「そういや、阿河さんは帰ったの?」

並んで歩きながら、ヒロくんはさっきの事なんか何もなかったみたいに、いつも通りだ。

ええい、このニブチンめ!

「ううん、帰りの為に、その辺りで待っててもらってる」

もどかしさを隠して、毎日鏡の前で練習している最高の笑顔で答えてみせたのに、「あれ……まだ怒ってる?」と確認された。

「怒ってないよ!」

「…………ソフトクリーム、もう1本食べるか?」

「お腹壊すわ!!」

……せっかくの2人きり、素敵な恋愛映画の後なのに、どうしてこうなるのかなぁ……。


ちなみに阿河さんはここまで送ってくれた運転手。子供の時からお世話になっているからヒロくんも顔見知りで、アーノルド・シュワルツェネッガーに似ている。昔はSPだったとか自衛隊員だったとか、FBIにいたとか、某国のスパイだったとか噂される経歴が謎(おじいちゃんは知っているらしい)の強面で、立ってるだけで子供に泣かれたり、職質されちゃったりするけど、実は涙もろくてすっごい優しいって事は、一緒にいればすぐに分かっちゃうような人だ。

それにあたしの気持ちも知ってて、さっきも送ってくれた時も、「お嬢さま、がんば!」とこっそり応援してくれた。

「阿河さんってカッコイイよな~」

「うーん、見た目は固ゆで卵(ハードボイルド)だけど、中身はトロトロの温泉卵だよ?」

「そんな事ないよ!前から思ってたんだけど、一度ゆっくり話してみたいんだよな~。そうだ、安奈、次の阿河さんのお休みっていつ?セッティングしてくんない?」

なぬ!?あんた、あたしよりも温玉に会いたいの!?

「ヒロくんのバカ!!!」

「え―――…」



「――ヒロくんって不思議だよね」

安奈がお気に入りという雑貨店で、なんとなく商品を手に取っては棚に戻すという動作を繰り返しながらクスリと笑う。

「なんだよ、急に?」

「小さい頃から大人に囲まれてても平然としてて、全然物怖じしなかったもんね」

「そういう安奈は今じゃ考えられないくらい人見知りで、遊ぼうって声かけても、宗じいちゃんの後ろからなかなか出てきてくれなかったよな」

「あーうん。ほらあたし、子供の時は可愛かったから」

こいつ、自分では抜け抜けと言うな。

「だから、結構怖い目にも遭ったんだよ。家族以外の人は信用できなかった」

「え」

突然の真面目なトーンに、戸惑う。

「そんな話、お前一度も――」

「なんてね。今は阿河さんがいるから全然平気だけどね――あ!見て見て、ヒロくん!」

今のはどこまで本当だったんだろう。そんな事をチラリと思いながら、アクセサリーの置かれたディスプレイに引っ張っていかれる。


「わあ、可愛い!」

安奈が持ち上げたのは、ヨーロッパのアンティーク調のピアス。

花や葉が複雑に絡み合うような細工にカラフルなラインストーンが散りばめられている。だがあくまでアンティーク”調”であってアンティークでも何でもないし、地金も金ではなくただの真鍮だ。

「あたし、こういうの今までずっと”安っぽいなあ”って思ってたんだよね」

「真鍮だしな」

「そう!つまり、そういう事なんだよ」

「はあ?」

なにが”そういう事”なのか、さっぱり分からない。

「あたしたちって、いわばジュエリー業界のサラブレッドじゃん?」

「ヤメてくれ、恥ずかしい」

どこで覚えたんだ、そんな例え。

「でもほら、小さい時から、アクセサリーに触れないうちに、いきなりジュエリーに触れてきてるから、そういうところあるでしょ。

ジュエリーを扱う人間って、こういう真鍮とか合金製の事、結構馬鹿にするじゃない?おもちゃ扱いっていうか、ジュエリーの代替品か3流品としか思ってないっていうか」

「地金の価値からして全く違うし、そもそも業界が違うからな」

ジュエリーメーカーで合金製のアクセサリーは絶対に作らないし、逆も然りだろう。

「うん。でもね、あたしの友達ですっごい『ミシェール・ニグラン』が好きな子がいて、あ、その子は一般的な家庭の子なんだけど、バイトしてコツコツお金貯めて、10万円もするネックとピアスのセットものを買ったりするんだよ。真鍮製のアクセサリーに10万だよ?」

地金の価値から叩き込まれている人間としては、信じられない買い物だ。

「10万?真鍮に?そもそもそれは適正価格なのか?ぼったくりじゃないの?」

「正直、最初はあたしもそう思った。だけどね、そのブランドのお店に連れていかれて、ちょっと気持ちが分かったんだよ。もうなんていうか、夢の中の貴婦人とかお姫さまの世界。つまりその子は、世界観――”雰囲気を買ってる”の。確かにあれをゴールドでやったら、やり過ぎだし重すぎる。逆に素敵じゃなくなっちゃうんだよ。だからね、そのものが待つ完成度っていうか、”表現の一つとして有り”なんだなって、思うようになったんだよね」


匠美鎖で働いた1週間で僕がたくさん考えさせられたように、いつの間にか安奈にも、僕とは別の方向へのパラダイムシフトが起こっていた。


「ほら、あたしたちって細かい原価までは知らなくても、お店とかでジュエリーの商品を見た時、”今の地金相場で、この目方で、このくらいの石を使って、この程度のデザインで仕上げだと、この値段は高いな”とか無意識に計算しちゃうでしょ」

「うん、それはある」

「でも大多数の人は知識がない分もっと直観的に選んでるわけで、あたしたちにはそれが、”知識が無いから損をしている”ように見えてしまうけど、でも満足感という意味ではすごく純粋なのかもって思うんだ」

「それは少し分かるよ。メンズジュエリーってシルバーが主流だけど、銀の地金代の安さを知ってる人間から見ると、有名なブランドのやたら高いシルバージュエリーの価格設定は正直よく分かんないし、でも”カッコイイ”って欲しがる人間はたくさんいる、みたいな事だよな」

「だからね、今はあたし、”真鍮製だから”とか”石がガラスだから”とかそういうの抜きで、可愛いもの、素敵なものを純粋に”見抜く目”を養いたいって思ってるの」



安奈の言う事も分かるけれど、僕はやっぱりジュエリー、特に地金の世界が安心できるし信用できる。特に日本製の繊細で正確な仕事、検品の厳しさは、日本人特有の勤勉さからくるものだと思う。


”ジュエリー”と聞いて、一般の人が感じる不安要素は、価格が適正なのかが分かりづらい事だろう。

石付き――ダイヤやルビー、サファイヤなどの貴石が留められたジュエリーは、石のクオリティに左右されるが、その真贋や細かに分けられたランクを見分けるのは、一般人には難しい。

だが地金だけを見た時、地金相場がオープンになっている分、価格はとても正直なものだ。


加工代――シンプルなものよりも細工が細かく手間がかかっているほど加工代は高くなるが、1点ものを一から作るのでもない限り、そこまでの金額の差は出ない。


地金代――重くなるほど(大振りになるほど)高くなるが、それは地金相場に準じた計算がされる。しかも、地金相場は純金(K24)に対しての価格の為、K18なら地金相場の75%という風に、実際に使用されている分のみををきっちり計算し加算されている。


この2つの金額を合わせ、利益率を掛けた金額が販売価格となる。

とてもシンプルで、見当を付けやすく、余計な金額が上乗せされる余地はない。


疑うようなら、百貨店の1階に行って、別々の店舗で、同じ金性のゴールドのリングをそれぞれ、見比べてみてほしい。

別の店舗であっても、同じくらいの重さのリングならデザインが凝っている方が高いし、同じようなデザインなら重い方が高いし、デザインも重さも同じようなリングならほとんど同じ価格帯のはずだ。


さてここで、せっかく百貨店に来たのだから、上の階にあるハイブランドのジュエリ-ショップも覗いてみよう。

ブランドの名前がついた途端に下で見た価格の感覚は、突然当てはまらなくなる。

その曖昧な部分が、僕にはなにか如何わしく感じてしまうのだ。

ブランドに憧れ、手に入れたいという気持ちを否定するわけではない。

当然そのブランドとして展開するには、それだけの手間もかけられ、責任を伴っているはずだ。

だけどシンプルに加工代+地金代だけで計算できない”+α”――ブランドの名前・有名デザイナーの起用・有名モデルによる広告費など――が大き過ぎるところが、どうしても僕には気持ちが悪い。


「どうしたの?」

「ああ、うん。例えば18金の刻印が打たれていれば、ブランドものだろうとノーブランドだろうと18金以上でも以下でもないのに、なんで”ブランド”ってだけであんなに高いんだろうって。

石が絡んでくれば、ブランドものなら当然いい石が使われているだろうし、そこで価格に差が生まれるのは分かるんだけどさ」


18金と謳われていれば、それは金を75%含んだ金と銀と銅の合金でしかなく、ブランドとノーブランドとの間に地金の差異はまったく無い。そこらへんの公平さが僕は好きなのだ。


「そりゃあ、欲しいという気持ちにつけ込む為でしょ」

したり顔で、安奈が両断する。

「お前、言い方!でも一理あるかな。結局のところ、経済活動ってそこから始まるわけだろうし」


欲しいと思わせる事。それは単純に”素敵”と思わせるだけではダメだ。

”可愛い、カッコイイ”という感想の先の一歩を踏み出させる”何か”――流行っているとか好きな芸能人が着けていたとか、それを持つ事がステータスになるとか、自分を表現するのにピッタリだとか、思った価格よりも安いとか、人それぞれに異なる”何か”に働きかける因子が必要になる。


「長く続いてきたブランドが、培ってきた技術を注いで作り上げた”作品”に誇りを持って高い価格をつける事は分からなくもないよ?」

「そう、それ!”製品”と”作品”の違い。素人なんかでも、”作品”となった途端によく分からない価格設定をし出す、あの勿体ぶった感じがなんかイヤなんだ」

「あ――…」

苦笑しながら安奈が頷く。


「話がちょっと逸れちゃうんだけど、さっき言った”多方向から見る目を養う大作戦”の一環で、最近、ハンドメイド作品を販売するサイトをよく見るんだけどね」

「ああ、なんか流行ってるって聞くよな。クラスの女子なんかも、よく盛り上がってる」

「アクセサリーカテゴリーを見てると、”K16GP”とか、”K14GF”なんて聞いた事もない怪しい素材を自信満々に打ち出している人がたくさんいるんだよね。

”K16”って付いてたって”GP”――ゴールドプレーテッドなら、所詮は”真鍮か何かにメッキをかけた素材”であって金でもなんでもないのに――あ、今のは真鍮を馬鹿にしたんじゃないよ?”金と思わせようとする紛い物感”が気持ち悪いと思うだけだからね!?」

「分かってる。で、今の”GF”って?”K16”も。初めて聞いた」

「GFはゴールドフィルドの略で、シルバーか真鍮かなにかの合金に金を圧着した”メッキよりも層が厚いよ”って売りにした素材みたい。K16はあたしもよく分かんない。ジュエリーの世界でK18の下はK14だよね」

「そうだよな。金性として実在するとしても、ほとんど使われてないと思う。SAIHARAでも今バイトしてるジュエリーメーカーでも、そんな金性、作っても使っても無いはず」


”K18WG”や”K10WG”など、WG――ホワイトゴールドにかけるメッキは”Rh”――ロジウムという白金族のレアメタルだ。硬さと強さと美しさを兼ね備えていて、宝飾では主に見た目的な目的で使われている。よく店頭で見かける綺麗な銀色は、ロジウムの色なのだ。


それに対し、”K18(YG)メッキ””K22メッキ”などのゴールドメッキは、意外と知られていないが、全て”24金メッキ”だ。

つまり、”K18メッキ”は、”18金の色味に近づけて施された24金メッキ”という事で、下地のメッキやメッキをかける時間・強さなどをメッキ屋さんの経験とデータに基づいて調整をして施される為、メッキ屋さんによって色味は微妙に変わったりする。

”メッキ”と聞くと、悪い印象を受ける人も多いけれど、ジュエリー業界でメッキを使用する場合は、見た目とアレルギーへの配慮を目的としていて、決して中身を誤魔化す為の加工ではない。


”K16GP”と表記されているものが意味するところは、”K16の色味にメッキしました”であるはずなのだが、ジュエリーとしてほとんど流通していない・ほとんどの人が見た事もない”K16”という金性の色味を表現する事に、なんの意味があるのか。

それでも一般の人は”K14”や”K16”と付いていれば、ジュエリーっぽく見えてしまうだろう。


さっき安奈が示した嫌悪感がよく分かる。

真鍮であっても、その素材感を活かして表現するのと、真鍮に見せかけの表面処理を施し、表記でジュエリーのように見せようとするのには雲泥の差がある。

中身が問題なのではなく、目的が問題なのだ。


「素人が知識もないままに”高級素材”と信じこんで、ジュエリー然と気取っている感じは、あたしもちょっと痛いなあって思う。

ちゃんと理解した上で使っている人は、”変色しづらいですよ”程度のアピールだけど、分かってない人って、付けている値段も、”作品”というプライドと相まって、”何を根拠にこの値段?”って金額つけてたりするもんね。

もっと言えば、素材カテゴリーを見たりすると、”K16GPです。金の配合率が高いです”とか売り文句を付けちゃってたりするから、扱ってる人からしてちゃんと分かってないよね」


「やっぱり扱う側も買う側も、双方知識を持つ事が必要って事なんだろうな」

返事をしながら、ふと店内を見回すと、議論に熱中し過ぎていいかげん一つの店に長居しすぎた事に気付く。

安奈に耳打ちする。

「そろそろ出よう。店員の”なんだ?こいつらの会話?”って視線がなんか痛い」



店を出ると夕食の時間に差しかかっていたが、久しぶりに一家が揃うので、”なにか食べに”という安奈の誘いを断り、帰る事にする。

わがままは言うけれど物分かりもいい安奈は、素直に頷くと迎えの車を呼んだ。

”送るから!”と言い張る安奈に逆らわず、ありがたく乗せてもらう。


「――さっきのネット販売の話で思い出したんだけど」

「なに?」

「ネット通販でもジュエリーって買えるけど、手に取れない上に圧倒的に情報量が少ないものを買うって、みんな怖くないのかな。不親切なだけなのかわざとなのか、素材の欄が空欄で、カラーの欄にゴールドって書いてあったりして、あれは詳しくない人間が見たら、”ゴールドの商品”だと勘違いしてもおかしくない」

「素材に”合金”とか”ステンレス”とか書いてあると売れないから、わざと勘違いするように仕向けてるって事?」

「分かんないけど、そういう誠意のない販売者もたぶんいると思う。知ってる人間なら、”この振り(サイズ感)でこの価格は、金のはずない”って分かるけど、知らない人間は”お買い得!”って思っちゃう、みたいな」

「それが中古だったりすると、出展者の人がよく分かってないまま思い込みで、無自覚に売りに出してるって事も考えられるよね」

「うん、この前教室で、”プラチナなの”って彼氏にもらったというブレスを自慢してた女子がいたけど、見せてもらったらSV刻入ってたりして」

「シルバーじゃねえか!ってツッコんであげた?あ、ごめん」

裏手でビシリと胸を叩かれ、軽くむせる。

「…いや、恥をかかせたら悪いから、後でこっそり教えておいた」

「うーん、でもそれ、ロジウムかかってたんでしょ?」

「そうなんだけどね」


プラチナと同じ白金族のロジウムは、かなり色味が近い為、なかなか見分けるのは難しい。また、変色しやすいシルバーは、ロジウムメッキがかけられている場合も多い。


「どうして刻印を確認しないんだろうね。シルバーもホワイトゴールドもプラチナも、みんな”銀色”ってひとくくりな節があるよね。色で見分けがつかないんだったら、刻印を見ればいいのに」

「”刻印を見れば分かる”って事を知らないのかもね。基本、目立たないように小さく打たれているし。刻印が打たれている事自体、知らない人もいるかも」

デザインを邪魔しないよう小さく目立たないように、しかしジュエリーであれば必ず、金性の刻印は入っている。


「やっぱり知識があれば、選択の余地が広がるって事だね!」

うんうん、と訳知り顔に頷き、安奈が強引に締めくくると、車がゆっくりと止まる。いつの間にか家の前だった。



「……お嬢さ」

「待って!!何も言わないで!分かってるから!」

食い気味で言葉を遮られ、阿河は慰めの言葉を飲み込んだ。

安奈さまは頭を抱え、しきりに「おかしいな、どこで間違えたんだ?今日は前よりも深くジュエリーに対して考えるようになった自分を見せて、見直させるハズだったのに……!」と呟いている。

できるだけゆっくりと走らせた車中、まったくいい雰囲気にならないまま真面目にジュエリーの話に熱中する2人を、微笑ましいような残念なような何とも言えない歯がゆさを噛みしめて運転していたのだが。

安奈お嬢さま……道は険しそうですね……。

阿河はそっと、ハンカチで目元を拭った。

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