Episode_13+α.05 北風の精霊王


 長い沐浴を終えたリリアは、再び外気で肺を満たす。水中に没する前と比べて、辺りの雰囲気は明らかに変わっていた。微かな燐光だった古代樹の灯りは、一段強さを増し、輝くようになっている。そして、切り取られたようにぽっかりと開いた池の上の夜空は、一面が大きな満月に覆われている。更に周囲の精霊達、風、土、水、それに森の中では存在の薄い炎の精霊までが、活発化して大気を満たしている。


 リリアは、騒がしい精霊に邪魔されて少し周囲の状況が分かりにくく感じる。そこへ、カサッという下草を踏む音が響く。リリアは池の対岸を注視していた視線を動かすと、その音がした方を見る。そこには、生まれ出たばかりの若い一角獣ユニコーンの姿があった。


「なんだ……」


 そう呟いたリリアは、先ほど袋から零れ落ちて足元に転がっていた古代樹の実を一つ拾い上げ、そのユニコーンの方に投げてやった。するとそのユニコーンは、足元に落ちた実を一口で食べ、少しだけリリアをジッと見た後、興味を無くしたかのように木々の中へと戻って行った。


 リリアは、そんな一角獣の素っ気ない後ろ姿を見送ると、何気なく視線を小池の対岸に戻す。そして、その姿勢で硬直してしまった。


「っ!!」


 硬直したリリアの視線の先にそれ・・はいた。何の気配も示さず、最初からそこにいたように、小池の対岸に佇んでいた。それは神々しい燐光を放つ雪のような純白の翼を持つ巨鳥だった。


 巨鳥の身体の端は周囲の空気に溶け込むように淡く薄く陽炎かげろうのようになっている。しかし、その存在が希薄かと言えば、全く逆であった。池を挟んでリリアを見詰める巨鳥は、猛禽類の目に吹雪のような冷たさを宿して脆弱な人間の娘を見下ろしていたのだ。その嘴は破城槌のように大きく太く、鋭い。そして、鉤爪は一本一本が大剣のそれよりも長く鋭かった。


 その姿にリリアは本能的な恐怖を覚える。どうやっても、逆立ちしても敵わない力の差、いや存在としての器の差に、心臓が早鐘のような鼓動を始める。


「人間……どうして、この夜、この場所におるのだ……」


 巨鳥は不機嫌そうな声を発する。幾つもの音が重なり合ったような不思議な声色だった。


「人間……何を意図して、ここにいるのだ?」


 一度目の声は只の疑問だった。しかし、二度目の声は明らかにリリアへ向けた問い掛けだった。有無を言わさない圧力を伴った問い掛けに、リリアは心が潰れてしまいそうな恐怖を覚える。しかし、声の主である巨鳥は、中々返事をしないリリアに苛立ったとように一度純白の翼を羽ばたかせる。


ブゥゥワァッ


 寒さを感じなかったはずの小島に、凍てついた寒風が吹き荒れる。そして、小池の周りはみるみる内に白く霜が降りていた。リリアはその様子に明らかに死を予感した。同じく死を予感したのは、一年以上前のリムルベート城での出来事だった。あの時はユーリーが助けてくれた。しかし、いまここに彼女を守るものはいなかった。


(コワイ……)


 恐怖が心の底から湧き上がる。そして、思わずユーリーに助けを求めるような呟きが口から出かかるが、


(何を考えてるの! 助けて欲しいんじゃないでしょ! 助けたいんでしょ!)


 自分を支えていた思いが、突然叱咤するような叫びを上げた。それは、リリアの中で萎縮しかけた勇気を振り起す言葉だった。そして、


「わ、私は、貴方の助力を得ようとここにいる者」

「ほう……我が助力……」

「そう、私に力を貸してください」


 リリアは、強くそう言う。しかし、巨鳥はそれを可笑しそうに鼻で笑うのだ。


「ほう……古エルフの血が流れているのか……だが矮小……血脈も薄すぎて話を聞く気にもならん」


 そう吐き捨てるように言う巨鳥は、もう一度翼を羽ばたかせる。先程よりも一層温度の下がった風がリリアへ吹き付けられる。


「我はこの世界の北門を司る北風の王……我にまみえて助力を願い出る胆力は誉めてやろう……しかし、我が力を借りようなど、不遜ふそん!」


 北風の王と名乗った巨鳥は、冷たい怒りを孕んだ突風を巻き起こす。極寒の冷気を纏った風は小池の対岸で旋風となると次の瞬間、池の水を凍らせながらリリアへ襲い掛かる。


「風よ! 守って!」


 リリアは咄嗟に周囲の風の精霊に呼びかける。極寒の嵐のような突風に対して、自分が作り出せる旋風ワールウィンドで対抗したのだ。しかしリリアの旋風は、巨鳥の巻き起こした極低温の風に呑みこまれると散り散りに引き裂かれてしまう。そして、リリアの風を呑み込んだ極寒の嵐が彼女の身体を打ち据えた。


「――ッ」


 極低温の風に弾き飛ばされ、地面に落ちる事も無く空中でもてあそばれるリリアは、急激に身体の熱が奪われるのを感じる。既に四肢の先端の感覚は無く、寒さに歯の根を打つような動きも起こらなかった。彼女の命は、北風の王たる巨鳥の放った、たった一度の風であっけなく奪われようとしていた。


 それは余りにも冷酷な力の差であった。古の龍の力を強く受け継ぐこの巨鳥は、レオノールが意図したような生易しい精霊種では無かった。彼は自分で名乗った通りの存在。北風の王、冷たい風の精霊をべる王、一柱の神に近い存在だったのだ。


 その巨鳥は、何の感情も現すことなく、眼前の空中で冷気に揉みくちゃにされる少女の姿を眺める。しかし、


「クェー!」


 次の瞬間、全身に燐光を纏わり付かせた若い鷹 ――ヴェズル―― が巨鳥とリリアの間に割って入る。ヴェズルは、巨鳥とは比較にならないほど薄く小さい翼で柔らかい風をリリアに送る。すると不思議な事に、荒れ狂う冷気の嵐はヴェズルの発した柔らかい風と打消しあい、あっという間に消えていた。


ドサッ!


 空中に巻き上げられていたリリアの身体が下草の上に落ちる。そして、ヴェズルはリリアの身体を背に庇うように、巨鳥と対峙していた。


(ダメ、よ……ヴェズル……逃げ、なさい)


 リリアは薄れて行く意識の中で、必死に若鷹に呼びかける。しかし、ヴェズルからは断固とした意志が返ってきた。それはリリアには馴染みの無い、母を慕う気持ちだった。リリアはそれを感じとると、反論する前に意識を失っていた。


 リリアの意識が途切れたことに、ヴェズルは怒りを覚える。そして、小さな体を精一杯大きく見せるため、燐光を纏った鷹の翼を大きく広げ、首を突き出して「母」を傷付けた敵を威嚇する。睨み合う二羽の鳥は、同じような姿形だが、その大きさは比較にならないほど違う。北風の王たる巨鳥にとって、ヴェズルの体は丸呑みできるほど小さいものだった。しかし、そんな巨鳥の表情に困惑が浮かぶ。そして、その表情通りの言葉を発したのだ。


「お前は……何故、我が眷属が……?」

「クェー!」

「愚かな……それ・・を母親だと思っているのか……」


 呟く声に憐みが籠る。巨鳥の眷属はこの世界にそれほど多く無い。数十年前に一羽の眷属が子を孕み、ドルドの地で卵を産んだと聞いていたが、その雌は自らの卵を孵すことが出来ず長い生涯を終えていたはずだった。また、もしも孵っていたとしても、もう数十年昔の話だ、産毛が抜け落ちたばかりの若い鷹の姿では無いはずだった。しかし、巨鳥の目の前にいるのは、まだ幼い彼の眷属で間違いなかった。


「我が司る厳しき北風の対極、打消し整え治める優しき風のあるじ……そうか、お前はヴェズルというのだな……」

「クェ」


 巨鳥の表情は、不遜な人間に対する怒りから、同族をいつくしむ優し気な表情へと変わっていた。そして、


「そうか、すまなかった。もう少しでお前の母を殺してしまうところだった。許せよ」

「クェ!」


 巨鳥は、そう言うとその視線を夜空へ向ける。そして、


「お前の育ての母・・・・には我が力を少し分けてやろう。お前をしっかりと守り育てて貰わなければならないからな……それでは、優しき風よ、生きていたらまた会おう!」


 その言葉を残し、北風の王たる巨鳥は大きく羽ばたくと夜空へ浮かび上がり、そのまま北を目指して飛び去って行ったのだった。


****************************************


「びっくりしたわ……まさか、北風の王フレイズヴェルグが出てくるとは思わなかった」

「思わなかったって、あんた、何が出てくるか分からない状態でリリアを送り出したの!?」

「ちょっと、そんなに怒鳴らないでよ!」

「ど、怒鳴るな? 今怒鳴らなくて、いつ怒鳴るんだ! 本当にあんたは――」

「はいはい、私はどうせ馬鹿ですよ……いい加減、静かにしないとリリアが起きちゃうでしょ!」


 それは、樹上都市ドリステッドにある一際大きな古代樹の中 ――レオノールの館―― でのやり取りである。勿論話しているのはレオノールとカトレアだ。二人の居る部屋にはベッドに寝かされたリリアの姿があった。


 あの夜、ドリステッドの館から北の小島を見ていたレオノールとカトレアは、とてつもなく強力な存在が降臨したのを察知して、慌てて小島に向っていたのだ。勿論、リリアを助け出すためだ。そして彼女達が辿り着いたとき、リリアは凍死寸前の状態で倒れていた。辛うじて彼女の命を繋いでいたのは、彼女が飼い慣らしていた若鷹ヴェズルの体温だったという。ヴェズルはレオノール達がやって来るまでリリアの胸の上に座り込み、自分の体温で彼女の心臓が止まるのを防いでいたのだ。


 そうして九死に一生を得たリリアがリステッドに運び込まれて既に一週間が経過していた。その間、ヴェズルは毎日毎日せっせと野鼠や兎などを獲って来ては、眠り続けるリリアの枕元に運び、そして夜は番人のように枕元で蹲ると一緒になって眠ると言う日々を過ごしていた。


 そんな中、リリアは昨日ようやく目を覚ましていた。しかし、体調は本調子とは程遠く、非常に衰弱し意識も混濁していたのだ。そんな彼女は今、エルフの薬師が調合した眠り薬によって再び眠りについている。


「フレイズヴェルグなんて、私でもちょっと助力をお願いできるかな? って存在なのよ」

「レオノール、あんた、このことリリアに正直に言う?」

「まさか……絶対怒られるわ」

「……でもレオノール、あんたの見立てでは、リリアは何かしらの力を小島で得るはずだったんでしょ?」


 レオノールは、そんなカトレアの言葉に黙り込む。そして、しばし沈黙した後で、


「それについては、成就しているみたいよ」


 と言うと、続く言葉を心の中で呟くのだった。


(強い力は、それが必要となる未来の暗示……こんな力を得た貴女は、どんな未来に挑むのかしら……)


 規則正しい寝息を立てる少女は、ふと口元を緩ませる。きっと良い夢を見ているのだろう。


Episode_13 王子派糾合 (完)

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