トルン砦の虜囚【ノーバラプール攻防戦(前編)】

Episode_08.01 孤児院「旅鳥の宿り木」の乙女


アーシラ歴494年4月


 ワーワー、とはしゃぐ子供達の元気な声が聞こえてくる。少女はその声を聞きながら鼻歌混じりに石鹸を洗濯物の衣類に擦り付けると大きなタライへ投げ入れて行く。そして全て投げ入れたところで、水を注ぎ入れる。タライの中に衣類と水がヒタヒタに入ったところで立ち上がり、ズボンの裾を持ち上げて裸足でタライの中に立つとそのままの中の衣類をギュッギュッと踏みつけていく。踏まれる度に極薄い灰色に変じた石鹸水や泡が足の指や土踏まずをくすぐったく刺激する。


「ねーリリアお姉ちゃん、私もやりたーい!」


 そんな声と共に裸足で駆けまわっていた子供達八人の中から女の子三人が少女の方へ走り寄ってくる。


「あー、ちょっと待ちなさい。足を洗ってからじゃないと皆の服が泥だらけになるわよ」


 リリアはハシバミ色のパッチリとした目を細めるとそう言う。目の前では「わかったー」と言いながら女の子たちがお互いの足を洗っているが……


(きっと水遊びになるわね……)


 そう思うリリアの予想通り、途中でタライの中の水を掛け合い始めるのだ。そこへ


「こらー! リリアちゃんの邪魔しちゃダメでしょ!」

「わーい、ごめんなさーい」


 「旅鳥の宿り木園」というどこか感傷的センチメンタルな名前を付けられた孤児院の院長ポルタがちょっと怒った風に言うと、女の子達は蜘蛛の子を散らしたように居なくなってしまった。


「もう、せっかく手伝ってくれそうだったのにぃ!」

「あら? ごめんなさい、てっきり邪魔してるのかとおもっちゃって」


 リリアの抗議に十歳年上のポルタはペロっと舌をだしておどけて見せる。その仕草に思わず笑ってしまうリリア、その拍子に春の明るい陽射しを受けて茶色の髪を留める銀翼の髪飾りがキラリと光る。琥珀色の輝石をあしらった髪留めをしても尚、サラサラと流れる髪を揺らすリリアの姿は、妖精のように無邪気で愛らしいものだった。


 一通り洗濯物を踏み終えたリリアはタライの石鹸水を流すかどうか、一瞬悩んだ後にそのままにすることを決めて、タライから洗濯物を掴みあげるとザックリと絞る。そしてさっきまで女の子達が水遊びしていたタライへそれを投げ込んでいく。後は絞ってすすぐ工程の繰り返しを三度ほど行うと、しっかりと水気を絞り切った衣類を竿に掛けていく。


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 ノーバラプールの街に吹く海風はリムルベートのものよりも少し濃い生き物の匂いを届けてくる。それはこの孤児院が運河の南側の更に西側、つまり海岸沿いにあること。さらにその海が遠浅で魚介類が豊富なことも関係しているのかも知れないと思うリリアである。そして、物干し竿に洗濯物を掛けるリリアはふと空を見上げると、大好きな青年の顔を思い浮かべるのだった。


(私ちゃんとお母さんに成れるのかな……大丈夫ね、あの子達でさえあんなに可愛いんだから、ユーリーの子供ってどんなのだろう……)


 そんな少し飛躍した罪の無い妄想とともに干し掛けた洗濯物を無意識に握り締めるリリアの様子は、それをちょっと「変なものを見る目」で見つめるポルタにはどう映っただろうか? 考えてみても、詮無い事である。


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 リリアがノーバラプールに留まって孤児院の手伝いをしているのにはそれなり・・・・の訳があった。まず昨年の十二月末頃にようやくノーバラプールに辿り着いたリリアはそれから色々な伝手つてを使い、やっと盗賊ギルドの首領ギャロスと面談が叶ったのが今年の一月初めの事だった。


 面談自体は特に問題も無く行われ、リリアは伝えたいことを全て伝えきっていた。昨年の暮れから体調を崩していたギャロスは幼馴染で親友だったジムの死を知り深く悲しみに沈んだようだったが、生前の幼馴染との約束を守り、リリアは堅気のままにしておくと明言したのだった。しかし、その直後にリリアが予想もしなかった事態が起こった。


 以前から内に秘めた思いは有ったのかもしれないが、それを周囲に悟らせなかったギャロスが突然引退を表明したのだ。ちょうどリリアとの面談から数日後に突然起こった引退騒動に「ノーバラプール盗賊ギルド」は大きく揺れることになった。


 ギャロスは自分の後継者を娘ポルタの夫フラスだと指名したものの、それに従う穏健派とギャロスの実の息子キャムルに従う武闘派に分かれた争いがにわかに発生した。


 結末は、ポルタの夫フラムの失踪をもって武闘派キャムルが元の勢力を牛耳ることになってしまった。ギャロスとしては痛恨の極みであるが、そのギャロス自身も事態の成り行きを見届けることなく一月末の或る夜に急逝した。なんでも、夜中に血を吐きそれを喉に詰まらせて翌朝には冷たくなった亡骸で発見されたと言う事だった。


 自分が会って話をしたその数週間後に無くなったギャロスの最期に、その話を聞いたリリアの脳裏には「暗殺」という二文字が浮かんだのだが、自分にはどうすることも出来ないと感じるだけだった。ただ、ギャロスの娘ポルタ一人が、夫が失踪し父が急逝するという辛い事態に直面していたのだった。


「ポルタ姉さん、リムルベートに逃げましょう! ここは危ないわ」

「リリア……いいのよ、私には孤児院も子供達もいる。動けないわよ」


 リリアとポルタは昔馴染みである。それこそ物心ついた頃にリリアをあやして一緒に遊んでくれたのがポルタだったのだ。その二人の間でそんな問答があったが、ポルタは梃子てこでもノーバラプールを動きそうに無かった。夫フラムとその将来を語り合った「旅鳥の宿り木園」は、身寄りのない子供達が「盗賊」になどに成らなくても生きて行けるよう、養育と教育を目的とした施設である。


 孤児院には、ギャロスの存命中は盗賊ギルドも裏で出資していたし現在ノーバラプールを支配する「市民政府」も大きな支援をしていた。「市民政府」が支援するのは筋の通る話だが、盗賊ギルドが孤児院経営のような慈善事業に出資するのはオカシイ話に聞こえるかもしれない。しかし、人間左右両方の手を悪事に染めるものは少ない。右手で人に迷惑を掛け、左手で施しを行うのは盗賊だろうと、「市民政府」だろうと変わりは無いものだ。


 そうやって運営されていたポルタの心の拠り所である孤児院だったが、その前途に更なる暗雲が立ち込めて出したのが三月の事だった。


「え! デリーさんが殺された?」

「そうなの……『議事堂』になっている商工ギルドの建物を出たところで、毒を塗った吹き矢で狙われたみたい……」

「そんな」


 デリーとは「市民政府」の重鎮で且つ、ノーバラプール港湾ギルドの会頭という人物だ。そんな彼は「旅鳥の宿り木園」の後援者でもあった。少し好色そうな禿頭の中年だったが、ポルタとフラムの理念に賛同して孤児院が盗賊ギルドと関係が有る事を知った上で「市民政府」を動かし毎年金貨五十枚の援助をしてくれていた。リリアも彼が暗殺される数日前に会ったばかりだった。


(ちょっとスケベそうな人だったけど、気のいいおじさんだったのに……)


 と残念に思うが、問題は資金面である。デリーが暗殺された後、港湾ギルドは急速に力を失い孤児院の支援などに構っていられない状態である。そして盗賊ギルドを乗っ取った今の棟梁キャムルはポルタの実の兄であるが、とても支援を続けるとは思えない。


「いよいよ、続けていられなくなったわね……」


 そう疲れたように呟くポルタの顔をリリアはただ見ている事しかできなかった。その時孤児院に居た子供達は十五歳から十歳の「年長」が十五名、そして九歳から四歳の「年少」が八名だった。比較的手間の掛からない「年長」の十五名は各神殿に分けて引き取ってもらう事が出来たが、手間の掛かる「年少」八名は何処も受け入れてくれなかった。


(テーヴァやフリギア、百歩譲ってミスラやマルスは分かるけど慈愛の大地母神パスティナの神殿まで断って来るとは……本当に神様に聞いたのかしら!)


 というのは、リリアの憤懣ふんまんやる方無い気持ちである。もっとも神を祀る神殿は慈善団体では無く信者のための団体である。独自に孤児院を運営しているところもあるが、幼い孤児を追加で受け入れる「善意」の有るところは見つからなかった。

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