第2話 保安庁保安部

「ねーねーアドニスー、今日新しい子が入ってくるんだよねー」

保安庁保安部幹部室、高級感あふれる革張りのソファに寝っ転がって携帯端末をいじりながら、短めの黒髪に赤い瞳の少女が言った。

アドニスと呼ばれた茶髪の青年は、机に向かったまま振り返らずに返す。

「あぁ。たしか名前は………ミモザとか言ったかな」

「ミモザかぁ、女のヒトだね。どこ出身だろ?」

「さあ―――――あ、そういやさっき履歴書が情報部から送られてきたな」

するとアドニスは一旦仕事の手を休め、傍らにあった書類の山の一枚一枚を、崩さぬように慎重に調べ始めた。しかし、積み上げられた書類を下へ下へと調べていくにつれ、作業もだんだんとがさつになっていく。そしてついに山のだいぶ下の方で手を止めると、

「………あった」

呟いて、ある一枚をさっと引き抜いた。

「あ」

横目で見ていた少女が呟くが、時すでに遅し。書類の山は大きく左右に揺れたあと、バッサバッサと音を立てて、まるで花吹雪のように部屋を舞った。

「…………」

言葉のないアドニス。

「なーにやってんだか」

笑いながらそう吐き捨てた少女は、端末をすぐ横にあったサイドテーブルにおくと、そのままの姿勢からアドニスに手を伸ばした。

「………なんだその手は。」

尋ねると、少女は平然と返す。

「履歴書。アドニスが持ってるやつでしょ?」

「…………キール、おまえなぁ」

お前より俺のほうが歳上なんだぞ、とぼやきつつもきちんと履歴書を手渡してくれるアドニスに、簡単な感謝の言葉を述べると、キールは視線をその紙に移した。

そして一行目に目を通した瞬間、

「ええっ!? 私より年下!?」

彼女にとっては驚くべき事実だったのだろう、キールは上体を起こして叫んだ。それをみて、ため息をつくアドニス。

「あのなぁ、キール。普通だったら、お前がここで働いていること事態が不思議なことなんだよ。お前まだ17だろ?」

「16だよアドニス」

「どっちでもいい、とにかく若いんだよおまえ」

「アドニスだって23じゃん」

「6才差じゃねぇか」

「7才差!! アドニスさっきから間違えすぎ!」

不満そうに頬を膨らますキール。眉を潜めている子どものようなその仕草に、アドニスの口からフッと息が漏れた。

「あっ!笑ったでしょ!!」

「いや、笑ってないぞ!」

「嘘だー!!」

キールがついに立ち上がろうとしたとき。

「…………なにをしてるんだ二人とも」

幹部室の入り口が開いて、右目を眼帯で隠した壮年の男性が入ってきた。その後ろには、ロングの茶髪の若い女性が一人。ミモザだ。

「おはようございます、ボス」とアドニス。

「あっ!新人の子だ!!」とキール。

キールはアドニスとの言い合いのことなどすっかり忘れたようだ、すぐに新しい同僚のそばへと駆け寄って、尋ねた。

「あなたがミモザ?」

「は、はい!ミモザ=ジナンスです。今日からよろしくお願いします!」

ぺこりとミモザはキールに一礼。それを見たキールは満足そうに頷く。

「私はキール、よろしくねミモザ!年下だから敬語はいらないよ!!」

そして履歴書を持っていない方の左手を差し出した。ミモザは初めはきょとんとした顔をしていたが、やがてその意味がわかると、同じように左手を差し出す。

「よろしく……ね、キールちゃん」

「キール!」

「キ、キール」

キールは嬉しそうにぶんぶんと握手した左手を振った。

それを不思議そうに眺めていたアドニス。さっきまでキールが自分が年下なのを気にしていたのは、年上の人に敬語を使ってもらうのに気が引けるからなのだろうか。そのわりには、やけにあっさり敬語を使わないのを許したものだ。アドニスは首をかしげる。

するとしばらくミモザとキールの二人を眺めていた男性がすっとアドニスに近寄ってきた。

「ミモザ、こいつがアドニスだ。さっき話した剣の達人」

「え、さっき話したってなんすか」

「一階ロビーからここまでくる道中におまえらのことをちょっとな。ちなみにキールのことは赤目のアサシンと紹介しておいたぞ」

ミモザがその言葉にぴくりと反応した。

―――アサシン……?

さっきも聞いた、その不穏な言葉に再び動揺する。しかし直後にキールの軽やかな声が響いて、すぐにその考えはどこかへ追いやられてしまった。

「アサシンー?」

眉を潜めるキール。

「まぁ間違ってはないけど……どうせなら絶世の美少女とかって紹介しておいてよ」

はは、と乾いた笑いで男性は返す。そのあと聞こえた「無理だな」という彼の呟きは聞かなかったことにして、アドニスは訝しげにキールを見るミモザのほうを向いた。

「俺はアドニス。呼びやすいようにに呼んでくれればいいよ。剣はまぁ、それなりに嗜むレベル。よろしくな」

「あっ、よろしくお願いします、アドニスさん」

再びアドニスにむかって一礼するミモザ。随分礼儀正しい人だと、アドニスは胸中で感心する。

「よし、じゃあ自己紹介も終わったし、さっそく次の任務について知らせないとな」

そう言うと、男性は室内の一番奥にある、部屋にある机のなかでもトップクラスに汚い、大きめのデスクについた。引き出しをあさり、なにやらごそごそと探している。恐らくは任務についての資料だろうが、あれだけ汚ければなかなか見つかるものではないだろう。

するとそこでふと気になって、男性が探し物をしている隙に、アドニスはこっそりとミモザに耳打ちした。

「なぁ、ギムレットさんってミモザに自己紹介した?」

ギムレットこそ、現在引き出しをあさっている真っ最中の男のことである。ミモザは頷いた。

「はい。えっと……」そこでクスッと微笑む。「整理整頓仕事もできる非のうちどころのない素晴らしい上司だと」

言葉のないアドニス。ミモザが笑ったのにも合点が行く。アドニスは尚資料を探すギムレットを横目で見た。捜索にキールも参加して、今度は二段目を調べているようだ。

「あー、その、いやわかるとおもうけど……あのひとちょっとそういう冗談言うお茶目なところがあってさ……現実はこんなんなのに」

「いえいえそんな。……あの実は、その話をしたときのギムレットさん、凄く真面目な顔をしていらっしゃったんで、思わず信じちゃってたんですが……ふふ、やっぱり冗談だったんですね」

「………それは………」

返す言葉が見つからない。

「あっ、でもそういうところ含めお茶目なところってとっても素敵ですよね!!」

とっさのフォローをいれるミモザに、アドニスはもう失笑するほかなかった。薄い笑いを浮かべて頬をかく。

「あ、」

だがそこであることを思い出した。

「でもな、ギムレットさんって凄いところもあるんだよ」

「凄く親切な方ですよね」

「いや、それだけじゃなくて」一呼吸おく「仕事っつーか任務になるとな、空気がかわるっていうか、先読み能力がはねあがるっていうか、とにかく別人みたいになるんだよ」

「別人……ですか」

「みるのがはやい」

アドニスがギムレットにむかってちらりと目線をやった。「あったぞー!」と嬉しそうに書類を掲げるギムレット。キールが書類に手を伸ばそうとすると、それをひょいっと避けて、ギムレットはアドニスとミモザを手招きした。

アドニスはミモザに不敵に微笑んでみせると、ギムレットのほうへ歩いて行く。ミモザもその後を追うように、デスクのそばへと近寄った。

「さて……」

ギムレットが椅子にぐっと背中を預ける。スプリングがきしむ音が微かに響いた。

「初任務を言い渡そう、諸君」

わざとらしい口調。一瞬で空気が変わった。真剣だかどこか楽しそうで、これからの任務に対しての意欲がにじみ出ている。アドニスが言っていたのはこのことだろう。確かにすごい人だ。一瞬でこの空気に引き込まれてしまう。

ミモザはわずかな震えを感じた。

―――これは恐怖?緊張?

否―――これは興奮だ。初任務に向けての、胸の高鳴り。

保安庁保安部。なかでもその幹部となれば、言わずもながな任務のレベルだってあがるだろう。

―――頑張ろう。

ミモザの心に浮かんだその決意は静かな闘志だった。必死に勉強してまでずっと目指してきた目標は「保安庁保安部の秘密を探る」こと。かつて、幼い自分に教育を施してくれた老齢の先生が言っていた、「限られた人間しか知らない保安庁の秘密」。別に、どこぞのジャーナリストのように秘密を暴いて世俗に公表したいわけではない。純粋な、そう本当に純粋な、好奇心と探求心だった。

しかし、その静かな闘志の湖面に、一波の波紋が広がる。

「次の任務は、人身売買をして不当に高額の収入を得ている、サジェン=アレスタの調査と―――」

ギムレットと目があった。


「―――暗殺だ。」


「……え?」

たった1つの波にしかすぎない。しかしそれは、あまりにも大きな大きな、一波だった。

「…………」

先程のギムレットの声が、耳にこだましてるようで不快だ。現実を受け止めきれていないのだと冷静な脳はわかっていても、心が、言葉を受け入れることを拒絶している。

「…………え?」

もう一度放った言葉は、この場にいる誰にも届いてないのだと、熱くも冷たくもある脳の端で思った。

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