7.幼馴染みの願い
「やべぇ、やべぇよ......」
──昼下がりの深い森を、ヒュッケは走っていた。
こんなに全力で長時間走ったことは、かつてあっただろうか。
「はっ...はっ...はっ...ゴホッゴホッ!」
胸が焼けるように熱い。
両方の肺が、今にも破裂しそうなくらいだ。
森の外に出たことを、ヒュッケは後悔せざるを得なかった。
──新型の弓の材料に欠かせない金属のハルキゲニアは、フェルミナの森から二日ほど歩いたところに聳えるアーゴン山の麓に開けているフェルミナの洞窟の岩盤を掘り進めることで、ごく稀に手に入るとの噂だ。
その情報を村人たちは昔から知ってはいたが、欲しがる者は誰一人としていなかった。
フェルミナの洞窟はエルフの崇める御神体が祀ってある神聖な場所だとの話だが、同時に、いつからか何らかが原因で洞窟内部はアストラル系のモンスターが蠢く魔物の巣に成り果ててしまっており、近づくことすら危ないとされてきたからだ。
しかし、ヒュッケはハルキゲニアを手に入れることで頭がいっぱいだった。
いつも目の前を行くアリーシャに、追いつくために。
アリーシャの弓の腕前は、いつ見ても惚れ惚れする程に豪胆で、繊細で、そして正確だ。
彼女に追いつくには、努力だけではどうにも差を埋めることは不可能だと考えたヒュッケは、ハルキゲニアを用いた弓が、どうしても欲しかったのだ。
アリーシャに認めてもらいたかった。
彼女はいつもヒュッケの弓の腕を褒めたが、本気で褒められていると感じたことは、ただの一度もなかった。
それほどに二人の技量の差を感じていたからこそ、新しい弓を手に入れて、アリーシャに勝ちたかった。
彼女に勝って、そして、アリーシャを守りたかった。
ただ毎朝声をかけて存在をアピールするくらいでは、胸に秘めた熱い想いは伝わるはずがないし、かと言って何もせずにヒュッケの事を想ってくれるはずもない、そう思っていた。
ただ見ているだけでも胸がいっぱいになり、満足してしまうことが大半であった。
しかし、何時からだろう。
彼女がどこか遠くに、手の届かないほど遠くに行ってしまうような、胸騒ぎが止まらなくなっていた。
だから──彼女の傍にいることが許されるほどの強さが、欲しかった。
──生まれつき呼吸器系に疾患を持つヒュッケは、村の医師から走ることを禁止されていた。
補助魔法は得意だったし、多少の無理は騙し騙しで何とかなっていたが、もう限界だ。
フェルミナの森は別名『深樹海』と呼ばれ、その名の通り、一度入ると方位磁針か座標魔法がないと永遠に彷徨うことになるほどに広く、深く木々が生い茂っている。
ヒュッケは幼い頃からアリーシャと森で遊び、探索してきた。
隅々までマップを頭に叩き込んできたし、走る事が苦手だからこそ、近道も誰よりも知っている。
それなのに、追手はヒュッケの位置を正確に特定し、距離を縮めてきた。
村までもう少しだというのに、身体が言う事を聞かない。
魔法で補っていた酸素化も、魔力が尽きてしまった今ではどうしようもない。
ついに立ち止まったヒュッケは、膝に手を付き、肩で呼吸をしようとする。
だが、潰れてしまった肺は空気を取り入れることも出来ず、ヒューヒューと、か細い音を立てるだけだ。
パキパキと、枝を踏みにじる音が聞こえたかと思うと、緑色の肌に、猪のような顔貌の生き物が姿を現した。
──オークだ。
木々の生えない岩山に拠点を構える彼らは、森に入ることを嫌う。
森には泉や川が流れており、筋肉量が膨大なオークは泳ぐことが出来ないからである。
住む環境が違うため、オークとエルフが対峙することなど、過去の聖戦で肩を並べた記録以外には無かったほどだ。
だが、現に彼らはフェルミナの森の奥地まで入り込んできているし、何よりもオーク達の様子が尋常ではない。
気性は荒いが、殺戮を好む種族ではないし、あの眼の色は絶対に正常ではない。
眼球内の毛細血管が浮き上がり、悪魔のように血走っている。
僅かに開いたままの口からは唾液がボタボタと流れ落ち、四肢が時折り痙攣しているように見える。
30人ほどの追手はヒュッケを取り囲むように躙り寄ると、一斉にジャベリンを構えた。
「俺と、したことが......。ごめん、よ、皆......。ごめんよ、アリーシ......
酸欠で意識を失ったヒュッケは、前のめりに倒れ込んだ。
刹那、頭上から投槍の雨が降り注ぎ、身体に無数の柱が生え並んだ。
剣山に作り変えられたヒュッケは、吐く息も無いまま、身じろぎ一つすることも出来ないまま、一筋の涙を流したまま絶命した。
口元は、幼馴染みの名前を呟こうとしたままの形で、固まった。
舞い上がった砂埃が降りかかり、薄汚れた左手は固く握りしめられている。
誰に気付かれることもなく、指の隙間から、鈍く光る黒く小さな鉱物が剣山を見つめていた。
──数時間後、フェルミナ村の三百人程の住人たちは、たった三十人のオークの襲撃により、惨たらしい最後を遂げた。
ほとんどの村人が眠りについたまま、恐怖することもなく死ねたのが唯一の救いであろう。
──焔が村全体を包み込み、次第に森に広がっていった。
無数の槍が突き刺さった亡骸は、静かに燃えて、塵となった。
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