芒星のグリモワ
明石十利
一章 灰かぶり鬼
序幕
「中央周りの騒々しさは、どこの国も共通だな」
少年は半ば鬱陶しそうに、半ば懐かしそうに呟いた。
昼下がりの宿場町。明治の面影を残す町並みに、やかましいほどの活気と、穏やかな陽気が満ちている。通行人で賑わう往来を、一人の少年が歩いていた。
容姿は可も不可もなく。だが、目つきは鋭い。薄汚れた旅装束の下は、引き締まった小柄な体躯。どことなく異質で、不思議な空気を帯びた若者だ。
少年は人混みを避け、通りの隅を進んでいく。渡し場のある川辺、ずらりと並んだ土産屋、宿屋を通り過ぎたところで、視界に幟旗が映り込んだ。
(飯屋か。そう言や、腹減った)
香しさに足を止め、懐中時計を取り出す。時間には余裕があった。
入れ替わりで財布を出し、中身を手のひらの上に。余裕はなかった。
「い、一番安い定食なら、いける……だろ?」
自身に疑問形で言い聞かせ、店内に入ろうとしたとき、
「きゃっ」
短い悲鳴が聞こえた。路地裏に目を向けると、三人組のチンピラ風な男が、少女に詰め寄っている。この喧騒の中、他に気付く者はいない。
男の一人が下卑た笑みを浮かべ、少女の背後の壁に手をついた。
「嬢ちゃん、こんな人気のないとこで、探しもんか何かかい? 暇してるようだったら、俺らの相手してくれや。俺らも退屈してたもんでよお」
「いえ……退いてください。私は用が……」
少女が怯えた様子で言う。縮こまった姿は小動物のようだ。
「何だって? 聞こえねえ」
「おいおい、人と話すときは顔を見せようぜ」
「それもそうだ。顔、拝ませてくれよ」
温和な気候にも関わらず、少女は外套を纏っており、顔がフードで隠れていた。少女はフードの端を押さえたが、男たちは力尽くでそれを捲る。
抑圧から解き放たれた髪がなびき、パールホワイトの輝きを放った。仄暗かった路地裏が華やぐ。艶やかな灰白色の長髪、雪のように白い肌の美少女だった。
「うおっ、すげえ上玉じゃん」
彼女の素顔に高揚したのか、男が少女の手首を掴む。
「やめてっ! 離してください!」
「そう邪険にすんなよ。はぐれ魔じゃああるまいし、取って食おうってんじゃねえ。ほんの少しの間、俺たちと遊んでくべぶがああああっ!」
頬に深々と膝を減り込ませて、男は三メートルも吹っ飛んだ。
「おっと、失敬。はぐれ魔と見間違えた」
見事な飛び膝蹴りを披露し、闖入者――少年が軽やかに着地した。
「あなたは……」
「心配ない。俺に任せろ」
呆ける少女を背で庇い、男たちと対峙する。吹っ飛んだ男は気絶したようで、仲間の一人の肩に担がれている。残る男が少年をにらみつけた。
「てめえ、ふざけた真似してくれたな」
「だから悪かったよ。ほら、慰謝料払うから」
「うん? 物わかりがいい――少なっ! 定食も食えねえ!」
「駄菓子でも買っとけ」
「この小僧……! 舐めるな!」
隠し持っていた小刀を抜き、少年に刃先を突きつける。
「喧嘩か。受けて立つぜ。加減はしないけどな」
少年は旅装束をはためかせて、腰に吊るすものをちらつかせた。
銀の鍵だ。素朴な形状のスケルトンキー。だが、頭部にルーンが刻まれ、極めて精緻な造り。ブレード部分の先端には、紅い石が埋められていた。
男たちは急速に蒼ざめ、一歩後ろにたじろいだ。
「
「こいつ、魔術師かよ! くそったれめ!」
「どうするんだ? 続ける気がないなら、駄菓子でも買いに行けよ」
にらみ合いは長くは持たず。男たちは悪態を吐きながら、表の通りへ逃げていった。彼らが見えなくなってから、少年は胸を撫で下ろした。
(危ねえ。一般人相手に魔術使ったら、俺が師匠に殺されるわ)
「あのっ」
少年の袖を軽くつまみ、少女が控えめに声をかける。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「大したことはしてな――!」
少年の至近距離に、少女の美貌がある。少年は茹で蛸のごとく赤面。誤魔化そうと視線を外すと、周りに人が集まっていた。さすがに騒ぎすぎたか。
「俺はもう行くから。あんたも別嬪なんだし、ちっとは用心しろよ?」
そう言い残し、少年が駆け出す。少女は何かを言いかけるも、彼女が口を開くよりも前に、その場を後にしてしまう。飯屋も素通りし、町の中心部へ。
茶屋や料亭の側を通るたび、少年の腹は哀しげに鳴いた。
「金をやったのは失敗したな……。列車賃ぎりぎり分しかねえ」
後悔は先に立たず。空きっ腹に触れ、ため息を吐く。
しばらくすると、西洋かぶれの瀟洒な駅舎が見えた。時間はまだ余裕があったが、少年はさっさと駅舎に入り、ホームで予定の便を待つ。
帝都近郊ということもあり、構内の人口密度は高かった。
一〇分ほどが経過し、列車の到着が迫った頃。少年は何気なく胸に手を伸ばした。そこにあるのはペンダントで、金属の小箱がぶら下がっている。
「ついにここまで来たぞ、絵空」
決意を秘めた声で独りごち、力強く小箱を握り締める。
「お前は俺が絶対に――」
五感が唐突に違和感を覚えて、少年はホームの反対側を凝視した。
「はぐれ魔っ! はぐれ魔が出た!」
誰かが叫ぶと同時、そちらの壁が大破。砕け散ったガラスが降り注ぐ。
ガラス片が日光を弾き、砂埃が立ち込める中に、異形の者が鎮座していた。
体長は優に五メートルを超す。幅広の寸胴な下半身からは、細長い四本の脚が生えていて、巨大な蜘蛛の怪物のよう。人型の上半身は逆に細く、不釣り合いな体形だ。腕よりも太い鋭利な爪、背に二対の鳥類の翼を持ち、魑魅魍魎を髣髴とさせる。
そして、平らな頭部の前面には、女性の顔面が貼り付いていた。
闇色の両眼がぎょろぎょろと、左右別々の方向に動き回る。
身の毛もよだつおぞましさ。人々は直に我に返り、
「嫌ぁあああっ!」「逃げろ! 喰われるぞ!」
一瞬の静寂ののち、構内は恐慌に陥った。多くの叫喚、怒号、足音が混ざり合って、それら以外の物音をかき消す。誰もが我先にと逃げ惑う。
「よりによって、こんなときにか」
ただ一人、少年だけが流れに逆らい、怪物に近付こうとした。
「頼む、通してくれ! 俺は魔術師だ!」
だが、恐怖に駆られる人々に声は届かず。人の波に押し戻されてしまう。そのうちに怪物が線路を横切り終え、逃げる人々の集団に腕を突っ込んだ。
少年は目を疑った。標的にされているのは、先刻の少女ではないか。外套の裾を爪で挟まれ、乱暴に持ち上げられる。絶望で血の気を失い、身動きできずにいる。
一刻を争う状況だ。少年は脇の男性の肩に手を置いた。
「悪い!」
謝っておく。腕に力を入れた勢いで、男性の肩に跳び乗った。
衝撃で倒れる男性の肩から、他の男性の背へと跳び移る。健常そうな男性を瞬時に見分け、驚異の平衡感覚と身軽さを発揮し、何度も跳躍を繰り返していく。
怪物は両眼の焦点を定め、少女を下半身に持っていった。前肢の根本の間を広げて、おびただしい数の歯が並ぶ、巨大な口を露わにする。
咆哮か、腹の音か、重低音が轟いた。今にも少女を放り込みかねない。
「させるかよ!」
ようやく開けた地点に降り立ち、少年は腰の鍵を引き抜いた。
怪物に飛びかかりつつ、少年が鍵を振るう。すると鍵から黒い炎が湧き、右腕ごと鍵を包み込んだ。そのまま、少年は燃える腕を怪物へ向ける。
察知した怪物は器用に翼を動かし、巨躯に似合わぬ俊敏さで身を覆った。
翼は金属質な光沢があり、羽の一本一本が刃のようだ。通常の武装ならば、かすり傷ひとつ、つけられないだろう。――通常の武装ならば。
激突の寸前、黒炎が消えた。少年の手に鍵はなく、その代わり、刀を握っている。鍵と同様に刀身にルーンが刻まれ、柄に紅い石が埋められていた。
少年は空中で全身をひねり、力の限りに刀を振り抜いた。
「お前らは永遠に腹空かしてろ」
怪物が動きを止め――やや遅れて、上半身と下半身にずれを生じる。
一刀両断。真っ二つにされた怪物は、綺麗さっぱり霧散した。
残心が解かれると、刀はまた炎を噴き、元通りの鍵へ戻る。
少年に抜かりはない。斬ったのは怪物のみ。ホームに落ちた少女は無傷だ。一部始終を見届けた人々が、惜しみない拍手と喝采を送る。
少年はぎこちない笑みで応えながら、座り込む少女に手を差し伸べた。
「怪我はないな。立てるか?」
無言で頷く。少女はすぐに立ち上がるが、なぜか、手を離そうとはしなかった。手のひらの感触と体温が伝わり、少年をまたもや赤面させる。
対応に困る少年の鼻先に、少女は思い切り顔を寄せ――
「おまけで及第点としますね。合格です」
人が変わったように、無表情で抑揚なく言った。
「何の話をしてる?」
「おやおや? まだ気付きません? 頭の回転が鈍いですよ」
小馬鹿にした口調。少女がにやりと笑い、外套の留め具を外す。
外套の下は学生服だった。ただし、一般的な学校のものと異なり、白と黒の二色が基調となっていて、洋服の特徴を取り入れている。スカート丈は短い。
「……お前、零高の学生だったのか」
「お前でなく、
「俺を試した?」
「はい」
駅舎の出入り口をうかがうと、少女は少年の腕を引っ張った。
「そろそろ警官隊が来ます。場所を変えましょう」
騒然とする駅舎を出て、建物の裏に移動する。その間に状況を把握し、怒りを滾らせた少年は、駅舎の死角に回るや否や、少女を静かに問い詰めた。
「這入り込んだはぐれ魔を、知ってて放ってたのか」
「魔術師の力を測る方法には、実戦が手っ取り早いですから。ああ、あの柄の悪い方々は仕込みでなく、私も想定外の偶然でしたけど。可愛さって罪ですね♡」
「自分で言うなよ」
「あは、赤くなってたくせに~」
「ぐっ……」
人を喰った性格だ。市街での振る舞いは、どうやら演技らしい。
少女を改めて観察する。整った顔立ちに切れ長の目。背丈は少年より低い。灰白の髪をひとつ結びの三つ編みにし、左胸へかけるように垂らしている。
外面は紛うことなき美少女だが、内面が印象を台無しにしていた。
「ふざけるのもいい加減にしろ。俺があいつを仕留め損ねてたら、どうするつもりだったんだ? あれだけの人がいて、一人や二人の犠牲者で――」
ちゃきんっ、と少年の喉に刀が突きつけられた。
「もちろん、私が倒すつもりでした」
少年の刀と酷似している。扱いやすい代物ではないのに、少女はそれを悠々と操った。彼女の華奢な体つきからは、想像できない早業だった。
「はぐれ魔は魔力を喰らう性質上、魔力に富む人間を最優先で狙う。私が真っ先に狙われるのは、初めから想定しています。あなたが返り討ちされたとして、私の魔力を食べ尽くさないうちは、民間人は狙われにくいでしょう」
「犠牲者さえ出なけりゃ、何しても許されるのかよ」
「許されます。私たちが所属する学校は、そういうところです」
きっぱり言い切られ、少年は何も返せない。少女が刀を鍵に戻し、
「では、行きましょうか。車を待たせています」
「気前がいいな。日の本一の魔術学府さまは」
納得してはいない。しかし、論争を続けても仕方がない。
為すべきことがある。果たさねばならない目的があるのだ。
少年は再び小箱を握り締め、少女の後についていった。
〈魔術師〉と〈化け物〉。世界には古来より、この二者が存在する。
魔術とは天が人に授けし力。人が化け物に抗うための、ただひとつの術であった。魔術があるがゆえ、化け物が跋扈する過酷な世で、人類は種を存続させてきた。
一九世紀は末期。そんな人類の魔術事情は、急激な変革を迎えていく。
魔力制御の簡易化――限られた者のみ扱えた魔術は、科学技術との融合を成し遂げ、個人の訓練次第で比較的容易に、誰でも行使できるようになった。
それから時は流れ、二〇世紀の現在。各国は魔術を発展、普及させるとともに、その軍事転用へ心血を注いでいる。当然、日本も例外ではない。
魔術という力の矛先を磨くのは、化け物を貫くためのみに非ず。
魔術師が力を振るう忌み敵は、化け物のみに留まらない。
かくして、優秀な魔術師を輩出すべく、専門の教育機関が設立された。
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