石田三成@賤ケ岳

持明院冴子

石田三成@賤ケ岳



 石田三成こと佐吉にとっては、カネの無駄遣いくらい嫌な事はなかった。

それがたとえ自分のカネでなくても嫌なものは嫌だ。御算用者の一人として、羽柴家中の財政については常に目を光らせ、無駄の削減に努めている。父も兄も御算用者であるが佐吉がもっとも優秀で、重要な役割を担っていた。

御算用者とは、現代で言う経理担当である。登城して御算用場で集めた税の計算や借金の整理などを逐一記録する仕事であった。佐吉は主君秀吉から特別の使命を得て、内密ながら経理全体の管理を任されていた。

カネの無駄遣いが嫌だというのは、小さい頃から叩きこまれた石田家の皮膚感覚でもあった。石田家は代々質素を旨としており、同時に適切な投融資を自分の領民に施し、善政を布いていたのである。

武士のくせにそもそも戦さが好きではない。戦さとなると、軍資金は消えるし民は疲れるし土地は荒れるしで、良い事が一つもなかったからだ。勝てばいいかもしれない。だが今のご時世では勝ったら勝ったで、それが次の戦さのきっかけになってしまう。

金銭感覚も含めた佐吉の考えを正しく理解してくれる人間は、身近では増田長盛くらいだろうか。増田も三成と同じ近江の出身で、佐吉と同じく近江商人から商いのコツを習い、同時に入払帳や勘定帳の付け方を教わっているのであった。

入払帳というのは現代で言うところの家計簿の事である。勘定帳は国や庄の財政の事である。

一般に言うところの帳簿の歴史は古く、殷の時代にはすでに存在していた。しかし現代の我々が使っているような複式簿記が出現したのは案外新しく、ちょうど大航海時代の欧州某国が発祥と言われている。

ところが近江の商人は、独自に編み出した複式簿記を使っていたのであった。出金と入金の帳簿を別に作り、二冊を照らし合わせる事で間違いと無駄を見つけやすくしていたのである。

佐吉は観音寺に預けられていた時に、近江商人から勘定帳の付け方を教わった。勘定と言えば会計、会計と言えば算術である。観音寺は学徒の集う場所であり、佐吉の居た寺は特に算術好きが集う場所だったのだ。

佐吉の会計に掛ける情熱を見て、他の武将たちは陰で癇性の吝嗇だと言っている。

違うだろう、と佐吉は声を大にして言いたかった。吝嗇というのは自分のカネに対するケチであって、他人の無駄使いや間違いにまで目を光らせるものではないだろうに。

それに勘定は面白い。それに気づかない他の武将たちはどうかしているとさえ思う。項目ごとの入金出金の数字を見ていると色々な事が分かるのだ。主家にとって誰(何)が害か益かが一目瞭然なのである。

惜しむらくはこの帳簿類、二年ほどは取っておいてもそれ以降は燃やしてしまう事だった。領主やその家族の無駄遣いを知られたくないからであろう。

 そもそも石田家は父も兄も経理の才があった。佐吉にあっては栴檀は双葉より芳しの言葉通り、幼少時から算術の才が飛びぬけてあり、同時にかなり几帳面だった。

佐吉にとっては小さい頃から数字がお友達だった。数字と友達だからこそ、自然と計算好きな人間に吸い寄せられてしまう。機会があれば商人の元で勘定帳を覗き込むし、時には特殊なそろばんを使わせてもらう事もあった。

 兄に似ぬ風変りな子であったらしい。家で酒を飲んでくつろいでいる時の父が良く言っていたのは、佐吉が蟻を殺して集める話である。佐吉は幼少の時から数に興味があり、小さな蟻を踏んだり叩いたりして殺しては平たい石の上に並べて数えていたという話だ。

「儂はおぬしが心配でならなかったぞ。いったいこやつは大きくなったらどうなってしまうのか、とな。何せ一心不乱に蟻を殺して死骸を並べては数えておったからなあ。それも百二百どころか、千、二千だからなあ。まあ、それを思えば今のおぬしはだいぶまともじゃ、ははは」

 幼少時は蟻を叩いて潰して動けなくする事を殺す事と思っていなかったのだ。

父がその話を持ち出してくるたびに、蟻に対して済まないと思った。あれ以来、歩く時はなるべく気を付けるし、蟻以外も無駄に殺生せぬようにしようと心がけている。

足し算引き算は嘘をつかないから今でも好きだ。自分がごまかさなければ向こうもごまかさない。そこには裏も表も無かった。恣意的に並ぶ順番が変わるという事も無かった。

三角形も四角形も数字と同様で、見たままなのだ。だから彼らとは安心して付き合えた。

蟻の死骸など、今思えばどうしてそのような愚かな事をしでかしていたのかよく分からないが、きっと動かなくなってくれて感情を持たなくなってくれて、子供心に安堵を覚えたのではないかと今の佐吉は思う。

 今でも人間というものがよく分からない。何故こちらに言う事とあちらに言う事が違うのか。何故隠そうとするのか。何故嘘をつくのか。何故心にもない事を言うのか。まるで分からなかったし、おそらくこの後の人生でも分からないのではないだろうか。

 勇猛果敢と言われる武将が案外卑怯でせこかったり、とても穏やかと言われる人間がこちらに激怒して他人に分からないように嫌がらせをしてきたり。それにどうして人は、人によって態度を変えるのだろう。

 佐吉としてはすべて分かったふりをして他の武将たちと最低限の付き合いをする事に決めているのだが、今度は逆に向こうがこちらを不思議がる始末だった。

「石田殿は何を考えているのかさっぱり分からない」

「愚かなのか石頭なのか」

「愚かではなかろう。あの男のカネ勘定の能力は類が無いくらい高いぞ」

「では単なる変わり者なのか、それとも吝嗇で心が無いのか」

 などと噂し始めるのだ。佐吉に言わせれば「おぬしたちこそ変わり者だろう」なのだが、多勢に無勢とはこの事である。佐吉は余計な口をきかないようにした。

「どうせ言ってもわからぬ」

 ひとはこれを開き直りと言う。

佐吉の心根を、主君である羽柴秀吉は「おまえの傲慢じゃ」と言う。本当にそうだろうか。傲慢はどちらなのか。勝手に推し量って判断しているあ奴らではないのか。

表だって口答えをしないだけの譲歩は、さしもの佐吉でもするようになっていた。言えば叩かれるからいい加減覚えた。

それに、父と兄から口酸っぱく言われていたのだ。つまり「気に入らない事を言われたらひたすら息と唾を呑んで黙る」という行動の法則である。なるほど理屈で納得せずただ身体で覚え込むのはかえって楽である。

覚えやすかったからすぐに佐吉の身についた。だが今度は違う噂がついて回る。

「どうせこ奴らに何を言っても分からないだろう、という態度が尊大で感じ悪い」

というやつだ。ではどうすれば良いと言うのだ!

 世間とうまくやっていけない、ぎすぎすと軋んでばかりいる、そんな彼を心配して何くれと声を掛けてくる者がいた。大谷吉継である。

この男は佐吉の目から見てとても好ましかった。というのは大谷は公での態度も二人だけでいる時の態度も全く同じなのである。つまり佐吉を心の底で侮蔑するという事がなかった。裏で意地悪をするその辺の愚かな武将たちとはまるで違う。

大谷の優しさは浅薄なネコナデ声ではなかった。そして乱暴な言動も一切無い。常に安定。それが佐吉には一番ありがたかった。

酷い奴の筆頭である前田利家などは、佐吉が大嫌いなのを表向きには隠して優し気に声など掛けてくる。人目に付かない裏でやらかすのだ。花見の時などあの巨体でわざとぶつかってきて佐吉をよろけさせた。そして青白い佐吉を、少し離れたところでこちらに聞こえるくらいの距離で笑いものにしたのだ。

(何が槍の又左だ)

 男気のある人気者で忠臣をたくさん抱えているとの評だが、佐吉から見たら単なる心根の曲がった、卑しくて度し難い乱暴者である。

(海賊の血が入っているという噂を教えてくれたのは大谷殿だったか増田殿だったか)

 誰が言ったかは覚えてないほど軽くて小さな噂だったが、佐吉の脳裏に鮮明に刻まれてしまったのには理由があった。

 前田家の家来に、恐ろしく算術に長けている者が数名いるのだ。それも名のある武将ではなく、単なる雑兵の身分である。

その者たちは、算術を習うために詰めていた観音寺で、佐吉と机を並べていた。

彼らの事は強く印象に残ったし、皆で意見を言い合って、同じ算術問題を解いたりした。

 噂によると、前田家は二代前まで海賊だったのが陸に上がって来たらしい。噂によると、前田党という名で荒子村に屋敷を持ち、尾張湾とそれに続く外海の一部を担当していた。

利家の和人離れした体格は、海を渡ってやってきたせいだという噂も聞いた。

一言で海賊と言っても異国のそれとは違い、日本の海賊は古くから朝廷の公認であり合法である。平和な時にはもっぱら運送や貿易などで金儲けをしていたのであった。

前田党は室町時代に荒子村に定着した。だが何かの事件がきっかけで、利家の父である利春が一念発起し、海から一切の手を引いたらしい。

当時、前田党は同じく海賊である服部党の傘下にあった。頭領の利春は任されていた領地を服部党に渡し、新田開発に興味のある側近のみを連れて裸一貫織田家に仕え始めたという話であった。もちろん真偽のほどは分からない。

 海賊は計算や商取引に長けている者が多いと佐吉は聞いている。何故かというと、彼らはすべて船上で取引をするからだ。天候次第ではのんびりしていられないから常日頃から出来るだけ早く正確に計算をして、駆け引きで少しでも得をするように仕向けなければならないそうだ。

 海賊には天文学の素養がある者がたくさんいるらしい。航海には星を読む力が必不可欠だからだ。

船の上で星を読む者は、陸に上がると机に座り、おのれの体験から打ち出された星の見方を計算で補足する。すなわち暦学天文学の勉強を良くするのである。

陸の上と海の上では計算をしていても緊張感がまるで違うという話をフランシスコ会の修道士マルコから聞いた。彼は観音寺に日本語と日本の作法を習いに来るついでに、佐吉に西洋の算術の勉強を教えてくれたのだった。

 カタコトの日本語で、マルコは日本の海賊とフランシスコ会の船がこっそり商取引をしている事について教えてくれた。

彼らの国では、勘定帳の付け方がまるで違っている。海の向こうから商取引にやってくる人間は勘定帳の付け方で相手が信用できるかどうかを見極めるともいう。

彼らは彼らの勘定帳をボック(book)と呼んでいた。佐吉はボックの正しい付け方もマルコから学んだのだった。

「ボックが良い、その船は良い船。ボックが悪い、その船はでたらめ。その人らもでたらめ。取引しない。海賊、悪い人、多い」

 青い目のマルコが哀しそうに首を横に振ったあの光景を思い出す。

「悪い人」と判断されると、彼らは容赦なく相手を騙すらしい。あの手この手を使ってこちらに不利を押し付けてくる。海賊にとって、勘定帳と計算能力は命綱の一つなのだ。

マルコは日本語が不自由な分、顔や体を使って佐吉に伝えようとしていた。それは謎解きのようで面白かった。今思えばあの頃が一番楽しかったかもしれない。

ボックは現代で言う複式簿記である。マルコは佐吉が記帳の仕方を速やかに覚えていくのに驚いていた。

しかし佐吉にとってはさほど難しい事ではなかった。ボックは近江商人が使う近江式勘定帳に構成が似ているからだ。もちろん全く同じではないが、近江式が身についている分、覚えやすかった。

 そのマルコが佐吉に言ったのである。

「他に、ボックが、分かる、人が、いくつかいる。みな、前田様の、家来」

 その時は「ほほう」と思っただけだった。後年、前田利家が海賊の末裔という噂を知って合点が行った次第である。

佐吉の中では海賊は算術好きという結論が出た。前田利家が戦場に算盤を持って行くという噂もさもありなんなのであった。

 他にマルコからたくさんの事を習ったが、やはり一番大きかったのは西洋式勘定帳の付け方であろう。それが佐吉の人生を変えたからだ。

マルコとは比較的うまく付き合えた。切支丹でも末端の人間はいつでも一生懸命で、誰に対しても等しく愚直だったからだ。本当に愚直なのではなく、努めて愚直を貫いたのだ。

 今思えば、あのマルコも自分と同じく人間が分からない類の男だったかもしれない。

マルコはあまり群れない人間だった。ある日突然国に帰ってしまったのでその後の消息は分からないものの、海のように青い瞳を今でも時々思い出すのである。

 そして佐吉も少しずつ成長していた。

こうして過ぎ去った出来事を一つ一つ思い出しては、時々合点したり赤面したりする。それが、佐吉のような者が普通の人間に近づく道だと老僧から教えを受けたからであった。


 2


 賤ケ岳でもめ事が勃発した。柴田勝家が北の庄から出張ってきて陣を張った。

 皆、正直言って、戸惑った。大雪の中を出張ってくるとは思わなかったのだ。

もちろん勝家が怒りくすぶっていたのは承知していた。太閤・秀吉が勝家の配下を一つ一つ攻撃して、彼を挑発していた事も皆知っている。

しかしそれであっても天候が悪いから出て来られないと皆思っていたのであった。

 勝家の側に前田利家が重用されていた。いくら柴田の家臣と言っても、いくら柴田勝家に恩義があると言っても、彼は秀吉の昔からの友垣であり秀吉にも頼られている男である。

(やっぱり、あの男は信用ならない)

 佐吉の確信であった。前々から利家に対して苦々しい思いを抱いていたのだ。

 賤ケ岳でそれぞれが思惑を腹に持ち、にらみ合いが続く。今はまだ大丈夫だがやがて自分も鎧兜で出陣しなければならないだろうか。

水面下の駆け引きなど佐吉はまるで読めない。取りあえず兵站奉行として最前線で軍資金の出納を管理しながらも、内心は「早く終わらないかなあ」と思っていた。

(平馬に会いたいなあ……)

大谷吉継こと平馬と夢を語り合いたかった。三成の中では増田はカネ勘定にまつわる愚痴話担当で、大谷が夢の話担当である。佐吉の頭の中では友の役割は明確に分かれている。

 今の佐吉は鎧兜を付けず、小さな寺の中で待機状態にあった。戦さの間は何かと物入りで、カネの出入金をしっかり管理しなければならないから場所を落ち着けているのだ。槍など振り回している暇はない。

前線であればあるほど出納、特に出金が多くなる。時には軍資金として秀吉からの送金が届く。裏表のない生真面目な佐吉は、カネの管理や計算では秀吉から絶大な信頼を得ていたのであった。

そもそも秀吉が観音寺で佐吉を見初めたきっかけが、彼が寺の経理を一手に引き受けていた事によるのである。マルコから教えてもらった勘定帳の付け方であった。この付け方をしてから寺の収入が一気に増えた。それを聞いて、勘定帳を見て、秀吉は佐吉にほれ込んだ。

「この勘定帳の付け方は誰にも言うな。この記録は隠せ」

 寺小姓だった佐吉に秀吉が顔を近づけて強面で言った。カネ勘定が大名にとっていかに大事であるかを秀吉は佐吉に言ったのだ。顔がものすごく茶色くて、疲れているのか口が臭かった事を良く覚えている。

 佐吉は佐吉で、秀吉に対して包み隠さず思っている事を言った。仕官が決まる前に、自分に出来る事出来ない事をつまびらかにしないと気が済まない。

「私メは、数字が好きなのでございますが、人付き合いが苦手でございます。そして、心の機微が分からない人間のようでございます。武芸全般が苦手でございます。遠まわしな言い方や深謀遠慮もわかりかねます。そして、勘定帳を付けて金子を増やす算段をするのは大好きでございます。しかし、カネが欲しいわけではありません。ただ一点……大きな夢がございます」

「ほう。言ってみよ」

 佐吉は初めて秀吉の顔を凝視した。失礼である事は承知している。佐吉は膝をちょっと進めた。

「ここで申し上げたら、私メの夢を羽柴様に叶えていただきたく」

 秀吉が佐吉の方に傾けた身体を少し起こした。

「それは、わしが叶えられる事なのか」

「はい。もし羽柴様が天下を取られましたら、容易に叶えられる事でございます」

「何故おぬし自身が天下を取ろうと思わぬ。さすれば自由自在であろう」

「その器量が無いからでございます。意気地なしで、勇猛果敢でもござりませぬ」

 断言すると、秀吉がいきなり爆笑して膝を叩いた。

「面白い奴め。分かった。言うてみよ。わしが天下を取り、時期が来たら必ず叶えてあげようぞ。ただし、その時期が来るまで待て」

「ありがとうござります。しかしもう一つ」

「まだあるのか!」

「はい。私メがこれから言う考えを、横取りしないでいただきたく」

「わしに向かって横取りするなと言うか。これは確かに場を見ないし器量が無いな、ははは。よし分かった。横取りはせぬ。言うてみよ」

「ははっ。私メの夢は、琵琶湖の北から敦賀の海に流れる川と、琵琶湖の南から大阪に流れる川とを使って運河を作り、その運河と湖の通行の管理をする事でございます」

 秀吉は絶句した。何故急に無言になったのか、佐吉には分からなかった。しばし返事を待った。

「……本気で言っているのか」

「問いの意味がわかりませぬが、私メはいつでも本気でございます」

「そんな運河が出来ると思っているのか」

「はい。漢籍を読むと、海の向こうではかなり大きな治水を行っている様子。海の向こうの技を使えば、叶うかと」

「そしておぬしは、地面ではなく運河の通行を管理したいという事だな。通行料を取って」

「左様でござります。通行料を貯めて、次の計画を実行したく」

「それは何だ」

「それはまだ言えませぬ」

 秀吉は首の後ろをがりがり掻いた。そして貧乏ゆすりをしばらくした後に膝を叩いた。

「よし分かった。召し抱えよう。おぬしはわしに忠誠を誓い、カネ勘定をしかとする事。わしはおぬしに運河を作ってやり、譲渡する。それでどうだ」

「ははっ。ありがたき幸せにござります」

 佐吉は畳に額をこすり付け、心の中で忠誠を誓ったのであった。


 3


いずれは自分も、刀や槍を持って先陣を切る日が来るのであろうか。

武芸は気が進まないが、追い詰められたらやるつもりだ。運河を貰うためには仕方ない。

もう十年近く経つが、あの時の約束はまだ生きている。秀吉と二人きりになると必ず運河の話題が出るからだ。

目端の利く秀吉も、この運河が出来る事によって得られる莫大な富と利便性に感服したようだった。時には佐吉も知らないような事を教えてくれた。曰く、平重盛までもが琵琶湖から敦賀湾まで通る運河を計画したと。

「河川の付け替え」という技術があるらしい。先に運河を掘っておいて、後から川の流れを変えるという。莫大なカネが掛かるから、秀吉自身も少し貯めてから運河にかかると言っていた。高低差を解消する技術もあるという。

「資金が手に入れば、運河に必ず着手するという事なのですね」

「左様だ。だが、モノには順番がある。それは分かるだろう」

「はい。分かります」

「わしが必ず作るゆえ、時が来るまで待て」

「はい。分かりました」

 秀吉以外に話した事の無いこの壮大な運河計画だったが、のちにもう一人、打ち明けた男が大谷吉継であった。

打ち明けた理由は取引でもなんでもない。ただ単に、彼に石田佐吉と言う人物を知って欲しくなったからである。このような感情を抱くのは、子供時代ならともかく、成人した暁の佐吉にとってはとても珍しい事だった。

 大谷は興味を持って聞いてくれ、的確な質問を投げかけてきた。佐吉はそれに答えがら、夢想がどんどん実現に向けて具体性を持って行くこの過程を心から楽しんだ。

大谷と付き合うようになって知ったのは友垣の存在の心地よさであった。その事には今でも感謝している。

そこに現れたのが前田利家である。大谷によれば、あの男も琵琶湖を使った運河の建設はどうかと周囲に話しているという。彼の場合は周囲に話す事で「やはりうつけだ」と鼻で笑われてしまい、それ以降計画が止まっているようだ。

これは、やたら他人に話したらダメになる類の夢なのだろう。何でも否定から入る小物には分からない。

佐吉としては、秀吉と大谷以外に話すつもりはないし、両者には聞いた事を絶対他言しないよう約束を取り付けてある。

もっとも織田信長も琵琶湖に目を付けていたらしい。ただし彼の場合は、敦賀湾まで運河を通そうとは考えていなかったようだ。

 前田利家が能登を欲しがっているというのは、ちらほらと聞く話だった。柴田勝家に取り入っているのも能登が欲しいからだという噂である。能登と敦賀湾と琵琶湖を一気に手に入れたら、さぞや海運がやりやすくなるだろう。家来たちもカネ計算のし甲斐があるというものだ。

人間の気持ちが分からない佐吉だが、前田の考えは何となく分かるような気がしている。

彼もまた、他人に理解されない大きな夢があるのだろう。それはおそらく能登を使った海上交通ではないかと佐吉は睨んでいる。前田家が再び海上を使うようになれば、同じく海賊の家系らしき家来たちも力を発揮するだろう。

ひょっとしたら彼も、自分が秀吉にしたのと同じように、勝家に能登と琵琶湖を組み合わせて管理させて欲しいとねだっているのかもしれない。その願いが叶うなら、なるほど勝家の側につくだろう。

古来から能登は良い湊だった。また海流のせいで色々なモノが自然に流れつく所だった。そのような所は船の発着場としてふさわしい。海民の目で能登に惚れたのであろう。

(結局、前田殿は先祖返り、根っからの海賊なのだろうな)

 乱暴で底意地が悪くてひねくれ者。善悪の判断もおぼつかない男。出来ればこっちの見えない所で何でもしていて欲しいと思う。こちらから見える所でごちゃごちゃ場を掻きまわして欲しくない。

 しかし、賤ケ岳、なのである。しばらく接点の無かった前田が、佐吉の目に見える所にまた現れたのであった。


 4


 秀吉から伝令が来た。今この時、大垣に移るという。

佐吉は言われた通り、大量の書きつけや余剰の軍資金を手配し、秀吉の腹心に持たせた。おそらくすぐにとんぼ返りする事になるだろうというのが秀吉の読みで、それゆえカネに糸目を付けずに急いで戻ってくる用意がいるという。姿を消す事でおびき寄せるというわけだ。

「この話は口外せぬようお願い致します」

 秀吉の腹心のナニガシが小賢しく言った。「何を馬鹿な事を」と内心思ったが佐吉は黙っていた。

(私のところに何故噂話が集まってくるのか分からぬのか。それは、私が人付き合いをしない口の堅い人間だからだ。皆、人から聞いて誰かに伝えたい話をこちらに持ってくる。私は噂話の屑入れみたいなモノだ)

 秀吉が出立し、美濃国に入る。案の定、敵軍が浮足立った。

佐吉の憂鬱が一層増した。自分も鎧兜をして出張らないとならないのかと思うと本当に嫌だ。いつ指令が来るかと思うと気が気でなかった。こういうのは、戦闘が好きな人間だけでやっていただきたいものだ。

 そんな折である。突然、観音寺で机を並べていたという山伏が佐吉を訪ねて陣地の寺にやってきた。

「鉢形殿と申される山伏様でございますが」

 伝令役の言葉に佐吉は驚きを禁じ得なかった。

「何、鉢形が来ただと。とうとう山伏になったのか」

鉢形は前田利家の家来である。雑兵ではあるが、算術に長けていて佐吉に引けを取らないくらいの優れた頭を持っていた。その鉢形が、世捨て人になったというのか。

「どうなさりますか」

 伝令役が答えを待っている。佐吉は腕組みを解いた。

「鉢形は、その昔、観音寺で算術を一緒に学んだ学友である。よし、こちらから向こうに行こう。小座敷に通しておけ」

 算用場に来て欲しくない一心で佐吉は立ち上がった。

 身支度を整え、人払いした小座敷に行ってみると、鉢形が胡坐をかいて座っていた。

「おお! 本当に鉢形だ!」

 佐吉は一瞬で学徒に戻ってしまった。難しい算術の問題を一緒に解いた仲間を懐かしいと思い心がほっこりと温まった自分を愛おしく思えた。

「どうした急に。おぬしは……」

 佐吉は声を落とし、顎で前田の陣営の方角を指す。

「世を捨てたのか。あっちにいなくていいのか。我らと戦わなくていいのか」

 鉢形は相好を崩して手をひらひらさせた。

「いやいや、俺は戦闘が苦手だからな。気楽な山伏になって星を読む方が良いわ」

「前田殿はそれで許したのか」

「俺はおぬしと違って単なる雑兵扱いだからな。呑気なもんよガハハハッ」

 呵々大笑してから鉢形は真顔になった。小声になる。

「実はな、ここだけの話、俺は前田家の天文方になった。天文方は主家から大事にされる。おぬしもそうだろう。おぬしほどの算術の才は、主家から大事にされぬわけがない。おまけにおぬしは、馬鹿が付くほどの正直者だからな。フッ」

余計な一言を言って自分で笑っている。それはもう、学徒だったころの言い草そのまんまで、佐吉もつられて吹いてしまった。

「馬鹿とは何だよ」

「いやあ、栴檀は双葉より芳しい男を言うに事欠いてなあ、すまんすまん」

「なあ鉢形。ついでと言っては悪いが、聞いていいか」

「おう、何なりと聞いてくれ」

 前田殿は海賊の血筋なのか。聞けば答えてくれるだろうか。

いつもの佐吉なら空気を読まずに聞いていただろう。だが今はなぜか聞き辛い。さっきまで聞こうと思っていた。だが鉢形が答えるそぶりを見せた途端に聞けなくなってしまったのだ。

聞き辛いという事が一つの答えのような気がしてきた。

「前田殿が何を考えておられるのか、おぬしには分かるか」

 鉢形は茶色い顔から歯を見せて声を出さずに笑った。

「おお、分かるぞ。前田殿は『ああー早く帰りてえーー』『この戦さやりたくねえーー』と思っている」

「なんと」

 まさか自分と同じ事を考えているとは思わなかった。

「勇猛果敢な槍の又左ともあろうお方がそのような弱気なお考えとは……しかしそれは、おぬしの勝手な決めつけと違うのか」

「なに、弱気な考えとは違う。殿は昔から、無駄な戦いをしたくないのだ」

 佐吉はむっとした。他人事ながら聞き捨てならなかった。

「無駄とは何だ。柴田殿がそれを聞いたらさぞや無念に思うだろう。前田殿は柴田殿に忠義を尽くさねばならないではないか」

 それは前田利家が故・織田信長の逆鱗に触れてすわ手打ちという事態になった時の事を指している。その時身を挺してかばってくれ、浪人時代に面倒をみてくれたのが柴田勝家なのだ。

「その柴田殿が命運を懸けた戦いを、無駄だとは何事だ。酷いではないか」

 佐吉は、柴田勝家の事は嫌いではないのだ。鉢形はまぶしそうに目を細めた。

「おぬし、少し変わったな。前のおぬしなら、他人の進退など割とどうでも良くて、そのような熱っ苦しい思いを持つ事はなかったぞ。いやあ、それにしてもあの算術馬鹿のおぬしが、他人を慮って怒るようになるとはな、ハハハハハ」

 それはたぶん、大谷のおかげだ。彼との心安らぐ語らいが、佐吉の心を少しずつ育てたのだ。

「しかしおぬしも相変わらず口が悪いな。前田殿の口より、輪をかけて酷い事よ」

 佐吉は前田利家の尊大な目を思い出してちょっとむかついた。

「おぬしは前田様がそんなに苦手か」

「……好かん」

「向こうもおぬしを好いてないようだ」

「知ってる」

「何故だと思う」

「知らん。武芸が苦手で算術ばかりやっているからかもしれん」

「ハハハ。そんな事はない。そんな事を言うならわしも、武芸苦手の算術馬鹿だ。それでも前田様には目にかけていただいておる」

「じゃあ、何が嫌われる理由なのだ」

「前田様は、おぬしと羽柴様が、自分と同じく内密で話をして、裏駆け引きのような事をしていると疑っておられるのだ」

「どういう意味だ」

 一瞬鋭い目をして口をつぐんだ鉢形が、唾を呑んでゆっくり話し出す。

「つまり、例えばだが、前田様が、能登を治めたいとする。そこに羽柴様が使いをよこして、もしお前が、寝返ったら、能登をやろうと言ったとする。前田様としては、一も二も無く飛びつきたいくらい能登が欲しい。能登には良い港があるからな。そうだな?」

「うむ。うまくすれば海運の拠点になるだろう」

「ところが羽柴様は、おぬしにも、耳元で何か囁いているようだ。となると、同じ餌で、二人を同時に釣っているかもしれない。羽柴様は、明らかに、前田様よりおぬしを寵愛している。そうなると、迂闊に羽柴様の誘いに乗る事が出来ないというわけだ」

「羽柴様のお言葉を信じないのか」

「前田様としては、そうそう簡単に信じるわけには行かないだろう、あの元草履取りの親父は、これまでにもチョコチョコとやらかしているらしいからな。それでどうなんだ。お前に能登をやるぞと、羽柴様から言われた事があるか」

 佐吉は思わず首を横に振っていた。

「いや、一度も無い」

「本当か」

「ああ。本当だ」

 佐吉の頭の中は違う話に固執していた。佐吉は一度これと定めて信じる事に決めた主君を、改めて疑った事は無かった。彼が絶対やると言えばそれは絶対やる事だと理解しているからだ。裏で主君の言葉を疑る人間がいる事が驚きである。

 もっとも、前田利家自身が平気で嘘をつく人間だから、他人も同じと思って言っているのかもしれない。嘘・誠実という面で二人は対立軸にある事を佐吉は改めて思い知った。

「……この私は、羽柴様を疑った事が無いから、おぬしの言い方には驚くしかない。私には主君を疑るという考えが無い。その考えは無駄だと思うからだ。羽柴様に限らず、人は出来る事は出来ると言い、出来ない事は出来ないと言えばいいし、皆がそうするべきであろう」

 鉢形はげらげら笑いながら、その野太い腕で佐吉の小柄な肩をバンバン叩いた。

「何だ、おぬしはちっとは変わったかと思うたのにちーーとも変わっとらん。相変わらず朴念仁だなあ」

「何か変な事を言っただろうか。実際その通りだろうと思うのだが」

 鉢形はヨイショと立ち上がった。

「これは大事な友垣に対する俺からの言葉だ。人間は嘘をつく生き物だ。嘘をつくから、人間なのだ。おぬしのような男は、たちの悪い女に騙されて痛い目に遭った方が良かろう。アハハハハ。ではこれにて御免。またいつかどこかで会おう」

 佐吉は風のように飛び込んできて風のように去って行った鉢形の後姿をいつまでも脳裏に残していた。

 口は悪いが、鉢形もまた、金銭感覚も含めて佐吉の考えを良く分かってくれる友だ。今まで自分が気付かなかっただけで、自分には大谷・増田以外の友がそれなりにいるのかもしれない。


 ひょっとして鉢形は、間者として様子を探るために自分に接してきたのではないかと、大分経ってから気が付いた。能登方面を自分に与える約束をしているのかどうかを探りたかったのではないかと。

本格的に陣取っていた前田利家が、鉢形が消えてしばらくしてから突然の撤退をした事で、閃いたのだ。

「そういう事だったのか」

 気付いた瞬間、難しい図形問題が一つの糸口から雪崩式に回答に向かっていくあの感覚が再現された。同時に、人間社会で生きる術というものが少しわかったような気がしたのだった。

-終-

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