あの店の珈琲の上で
新田涼
第1話
『ねえ、君は、どうやって珈琲を飲むの?』
大学を出て南に少し降りる。もうすぐ3月も終わりだというのに、今日は冬に戻ったかのように寒かった。
こんなことなら上着をもう一段厚手のものにするのだった。
そんなことを思っていると、トタン屋根の市電の駅舎が現れてきた。
この市電は、春には路線上に桜のトンネルができることで有名で、それ目当てに幾人もの人がやってくる。
僕も大学に入学して間もないころ目にしたが、確かにきれいで、これから始まる新生活への希望も相まっていたく感動したものだ。
駅舎の前では薄茶色の野良猫がむすっとした表情で佇んでいた。
このあたりはやたらと猫が多い。大学の構内にも棲みついており、きまぐれに人前に姿を見せては女の子たちに騒がれている。
そういえば彼女も猫は好きだったな。
もしかすると、猫が好きというのは女性全般に共通する特徴なのだろうか。
もっとも、彼女に向ってそんなことを言えば、
「そうやっていい加減なことを言うのはよしなさいよ。やんなっちゃうわ」
なんて呆れられてしまうだろうが。
駅の側には以前先輩が働いていたパチンコ屋と夜8時には閉店するスーパー、それからレンガを模した赤い外装のイタリアンのレストランがある。
その店は学生街の中に暖簾を構える割にはずいぶんと――それは、僕のような貧乏な学生にとっては、ということになるのだが――高級志向で、決して気軽に立ち寄れるようなお店ではなかった。
彼女の誕生日のお祝いに、と一度だけ行ったことがあるが、
「ワインの良し悪しなんて庶民の私には分からないのよ。もちろん、料理はどれも美味しいけれど。それよりも、少し値の張る珈琲豆を渡されたほうがよっぽど嬉しいわ」
と、あまりお気に召してはもらえなかったのだが。
駅を横目に、大通りを東へ折れる。
地方銀行の支店、魚介出汁のラーメン屋、それからこじんまりとした花屋が目に映る。
そうえいばあの花屋の店員さんは元気だろうか。いつだったか、彼女に一輪挿しを贈った時、相談に乗ってもらったな。
うん、明日は花を買ってみるのも素敵だ。
きっと、いい気分転換になる。
ほんの少し歩調を早め、道を進む。
すれ違うのは外国人、浴衣姿の女性たち、年配の団体客。相変わらず、観光客が多い。
このあたりには有名な神社がいくつかと、老舗の和菓子屋がある。彼らの目当てはきっとそれだろう。
僕はその手のものにとんと興味がなくて、そのせいでよく彼女にはなじられていた。
ついこの間も、
「君はこっちに残るんでしょう? なら、これからはお寺なんかにも行ってみなさいよ。教養としてではなくて案外面白いものよ」と、溜息交じりに言われたのを思い出した。
『私はね、ミルクだけ入れる。砂糖は使わないわ。ブラックも嫌いじゃないけど、苦すぎるの。だから、ミルクだけ』
大きな鳥井を横目に、さらに歩けば旧い商店街へと繋がった細い通りが見えてくる。妖怪横丁、なんて馬鹿馬鹿しい名前の付いた商店街だ。
懐かしい雰囲気のする鮮魚店、肉屋、青果店といった店もあれば、若者向けの洒落たカフェやちょっとしたギャラリーもあり、行きかう人の数は少なくはない。
居酒屋なんかも何軒かあるため、夜になれば学生やサラリーマンたちで賑わうのだ。
かくいう僕も、そういったうちの一人になるのだが。
ホール、という名前のショットバーがその商店街の中にはあって、小さな店の中、カウンターの奥で髭をたくわえたマスターがいつも退屈そうにしている。
「忙しそうにしているお店って、嫌でしょう? だから私はあえて閑古鳥を飼っているんですよ」とは彼の談だが、単純に疲れるのが嫌いなのだろう。
薄暗く、狭い店内は秘密基地のようで、初めて行ったときは年甲斐もなくわくわくしたことを覚えている。
生まれて初めて、ちゃんとしたカクテルを飲んだのは、あの店だ。
背伸びをして本で覚えた名前を呟いた。
今夜、飲みに行こう。ジントニックだ。
それで、マスターに話を聞いてもらおう。
「いい? 昔ながらのジントニックはライムを絞らないんだからね。ジン多めで、トニックウォーターだけ入れていっぱいかき混ぜるの。それが正しいジントニックの作り方なの」なんて、赤くなった顔で嘯く彼女が可笑しくて可愛くて、今でも思い出すと笑ってしまう。
『ミルクといってもフレッシュは駄目ね。あれは偽物よ。ちゃんとしたのじゃないと』
気がつけばもう目的の場所まで寸前、というところだった。
そこそこの距離を、なんてことのない思い出に浸りながら歩いていたのか。こんなことじゃまた彼女に小言を言われてしまうな、とたまらず苦笑する。
僕が初めて煙草を買った店が見えた。小柄なおばあちゃんがいつも新聞を読んでいる小さな煙草屋だ。
あの時、何を買ったんだっけ。赤マルか、マイセンだったか。名前だけは知っていた、そのどっちかだったはずだ。
彼女はしきりに煙草をやめるよう言ってきたが、結局、僕は手放せずにいる。
「わざわざお金を出してまで自分の肺を真っ黒にするなんて信じられないわ」と、そんなことを言う彼女は、言葉こそ冗談めいているがきっと本当にやめてほしかったのだろう。
今になってようやくその事実に気づくだなんて、僕は鈍感にもほどがあるな、と自嘲する。
『いつだったか、東京の有名な喫茶店に行ったことがあるのだけれど、ミルクじゃなくてフレッシュが出てきたの。コーヒーカップとかティースプーンとか、小物の一つ一つにこだわりが見えてすごく素敵だったのにそこだけ残念で、もう頭に来ちゃって。苦いのを我慢してブラックのまま飲んでやったわ』
足繁く通った道だからあまり気にしていなかったが、大学からはそれなりに離れていることに気づいた。
いや、今までは二人だったから気にならなかったのだろう。
他愛もない話を目一杯広げて、笑いあっていたから、距離なんてどうでもよかったのだ。
ふと後ろを振り返る。
そこには道がある。なんてことのない、コンクリートで舗装された道だ。バス停が並ぶ、どこにでもある道。
けれど、その道には思い出が積もっている。
雪のように少しづつ、自分の足跡に積み重なっていく。積み重なるたび、ありふれた道が特別に変わっていく。
そしてあるとき振り返れば、思い出に飾られて元のかたちも色も分からなくなっているのだ。
彼女の言葉を思い出す。
どこか詩的で、けれど彼女の匂いとでも言うべき生活感を纏ったそれらは、不思議な魅力にあふれていた。
僕はそんな美しい言葉たちに、なによりそれを生み出す彼女自身に、恋をしたのだ。
店の前に着いた。
塗装の禿げた看板に、しづか、と書かれている。
扉を開けると、カラン、と軽やかな鈴の音がした。
「こっちよ」と声のするほうに目を向ければ、店の一番奥、その小さな二人掛けのテーブルに彼女はいる。
いつもの席だ。
僕たちの、特等席だ。
「いらっしゃい」
いたずらっぽい声音に、図々しいな、と返して席に着く。
上着を脱ぎ、煙草をテーブルに置く。
すると、待ってましたと言わんばかりのタイミングで、珈琲が運ばれてきた。
向かいの彼女を見れば当然でしょ、とでも言いたげな表情をしている。
煙草に火をつけ、ゆっくりと一口目を吸う。
話さなければならないこと、聞かなければならないことが一杯ある。同じ数だけ、話したくないこと、聞きたくないこともある。
きっと、とても悲しい気持ちになるはずだ。
けれど、いや、だからこそ、ここを選んだ。僕と彼女が、珈琲の上で、何度も何度も言葉を交わしあったこの店を。
彼女の、その美しい言葉を最後に聞くならば、ここ以外ありえない。
「いよいよ、明日だね」
紫煙がくるくると珈琲のうえで舞っている。
「――あのさ」
「待って」
「ううん、違うの、先延ばしにしたいわけじゃないんだけれど…… その前にさ、聞いておきたいことがあるの。だから、ね?」
彼女はミルクの注がれた珈琲を一口飲んで、それから、こう言った。
「ねえ、君は、どうやって珈琲を飲むの?」
あの店の珈琲の上で 新田涼 @lei4248
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