⑥
すべてが終わった時には、夕暮れになっていた。
レイが歩く路地には誰も居なかった。
灯りもなく、暗い。
雪が降っている。
寒い。
いつまで降るのだろう。
そんなことを思いながら、彼は足を引きずるようにして進んでいく。
足元に出来た靴裏の痕が、後ろにもずっと続いており、それが伸びていくたび、歩みが重くなるような気がした。
途方もない疲労と……のしかかってくる過去。
『No.ゼロ。お前の見た通りだ。だが、奴らの正体がなんであれ、戦争は継続する。これは決定事項だ』
『処分については、追って宣告する』
聞いたことも見たこともない、長い名前の部屋に呼び出され、モザイクみたいに変化する大きな顔に言われた言葉を思い出した。
『すごいよ、レイ。あなたのおかげだ』
『きっといなくなった細胞たちも、あなたを誇りに思っている』
部屋から出た時、自分を迎え入れた『彼ら』。
何も知らない、知らされていない彼らの無邪気な表情。ぞっとするほどに。
……彼は、直視できずに、逃げてきた。ここまで。
寒かった。
そして孤独だった。
両腕をかき抱いて、ガタガタと震える。
力が入らずに、路地の端、コンクリート壁にずるずると寄りかかりながら崩れていく。
吐く息がしろく、どこまでも白かった。
彼はただ、立ち上っていくそれを見つめ。
「何してるの、こんなところで。風邪引くよ」
――自転車から降りて、こちらを見下ろす小夜子と、目があった。
◇
ともに帰路について、部屋のドアを開けるまで、一切の会話がなかった。
それまで沈黙は決して不快なものではなかった。
しかし今は、違う。
部屋の隅に座って、学生服をハンガーにかけたりしている小夜子を見ながら、レイは言葉を発しようとした。
言うべきこと聞くべきことは山ほどあった。
「……あなたのせい」
しかし、早かったのは小夜子のほうだった。
「あなたのせいで、演奏がめちゃくちゃになった。決着はもっと早くにつくはずだったのに」
レイは、聞いていなかった。
「返事してよ。あなたの――」
「……知ってたのか」
彼は顔を上げて、小夜子を見る。
彼女はどきりと射すくめられたような表情になった。
「全部知ってたのか。お前」
その言葉の意味するところは、明白だった。
小夜子は動けなかった。
レイは、立ち上がり、彼女に近づいた。
正面から、顔と顔を合わせに行く。
「奴らの中に居たのは人間だ。俺たちと同じ。それだけじゃない。全部聞かされた。でも、そんなこと、お前は一度だって俺に言わなかった……なんでだ。なんでだ」
小夜子は目を見開いたまま何も言えず、後ろに引き下がる。
「大勢、死んだ。俺が、俺たちが殺してきたんだ。化け物と思ってた奴らを――」
そこで、バランスを崩して足を捻る。
彼女は、部屋の隅の本棚に身体をぶつけた。
その場で尻餅をつく。
とたんにホコリが舞い、収めてあった本がばさばさと落ちた。
レイは立ち止まる。
顔を俯ける彼女を見て、少し震える。
動揺。両手を見る。
「すまない、俺はただ……」
「そう、私が決めたこと」
震える語気にかぶせるように、小夜子が言った。
彼女は膝の内側に顔を突っ込んで、スカートの中でくぐもった声を出した。
まるでそれは、懺悔のように見えた。
「全部。言わなかったのは、私がそう決めたから」
「なんで……」
「……ねたましかった」
レイにとってその小夜子の言葉は、聞いたことのない響きをもっていた。
呆然としている彼に、彼女は続けた。
「遠くへ行きそうなあなたが。私よりずっと自由に飛べるあなたが許せなかった……それよりももっと、自分が許せなかった……だから黙ってようと思ってた。どう、これで満足」
彼女は笑おうとしているようだったが、失敗に終わったらしい。
顔を上げた彼女の顔は奇妙に歪んだ表情になっていた。
その顔が、レイに無遠慮にぶつけられる。
「弾くことも。殺すことも、私は全部中途半端。そんな奴の言葉、聞けて、満足」
何も。何も、答えられない。
「なんとか、言いなさいよ」
「俺は。俺はただ……」
「もうたくさん。あなたが来てから、全部おかしくなった。何も感じないままが一番だったのに。余計なものが見えるようになった。全部、あなたのせい」
レイは、小夜子が泣いていることに気づいた。
しゃがんで、指をさしだして拭おうとしたが、出来なかった。
立ち尽くすことしか。
小夜子はそこで楽譜の本を手足で散らしながら立ち上がり、足音を余計に立てながらドアに向かった。
……開く。冷たい風と雪が、真っ白に吹き込んでくる。
「ごめん。ひとりにさせて」
それが通告だった。それ以上彼女にできることは何もなかった。
「っ……」
レイは足早に、彼女の姿を視界に入れないまま、ドアから出ていった。
そして、アパートから立ち去っていく。
夕暮れの薄暗がりのなか、ドアが開いたままの状態で、小夜子は部屋の隅で膝を抱えている。
その足元には、散らばった古い本。
片付けることもせず、ただじっとしていた。
まもなく、着信があった。小夜子は、耳に当てる。
いつもどおり、任務の連絡だ。
立ち上がって、事務的に準備をこなし、部屋をあとにした。
◇
一日が過ぎる。
小夜子は――レイが、当局により捕縛されたと知った。
◇
いつもの放課後、音楽室には、複数の生徒が居て、気弱な先生を問い詰めていた。
「どうしてですか。もうあの人には演奏なんて出来ないでしょう」
「あたしなら、もっとうまくできるはずです。替わるように、言ってください」
先生には答えられない。
当局の指示で小夜子になっているのだから、そこには従わなくちゃ。
そんな回答をしたところで、ぎらぎらした目の彼女たちには通じないだろう……。
……答えあぐねている時、後ろの扉が、開いた。
皆が振り返った。
そこに居たのは、小夜子だった。
彼女は頬に、手に、血がかかっていた。
視線に気づくと、手に持ったままだった拳銃をかばんにしまい込んで、前に歩いてきた。
それから、憑かれたような、ぼうっとした視線のままで、先生に対して言った。
「先生。練習させてください」
「何を、」
「オートコフィンを。殺すんです、レイを」
◇
やるべきことを知ったのは、彼が部屋を出て数時間後、まさに新たな『始末対象』を追いかけている最中だった。
小夜子は逆らわず、イエスと言った。
◇
レイは目を覚ました。
彼は、霞む視界の中で過去の記憶を遡る。
自分は小夜子の部屋を出た。
自分と彼女の中で共有しうるものがなにもないと知ったときに襲ってきた絶望から逃げるには、とにかく遠くへ行くしかなかった。
だから彼は走った、走った。
夕闇の中、入り組んだ街の構造体を逃げ惑った。
途中、貧しい人々の視線がいくつも交錯した。
それにも耐えられなかった。
とうとう立ち止まって、ちくしょうちくしょうとつぶやくばかりになった時、彼は後方の影が複数にわかれて、自分に覆いかぶさるのを感知した。
そこから意識が途切れたのだ。
それで今はどうなっている。
すぐに気づく。
四肢が生暖かいものに覆われている。
周囲を見る。自分の視界そのもの。
そしてここはどこだ。
……空の上、だった。
足元を見ると、眼下に灰色の基地が見える。
では、ここは――翔機の、なかだ。
瞬間的に、フラッシュバックが起きた。
先日の戦闘におけるなにもかもが、体全体で再生されたのを感じた。
散っていった同胞たち。
爆発、炎。血と肉――……死骸。
にんげんの。おなじ、すがたをした者の。
口から呼吸器をむしり取って、げえげえと嘔吐した。
透明な子宮のなかに、吐瀉物が広がって、きたならしい色が充満した。
彼は身体をコクピットから引き剥がすように暴れながら、何度も叫んだ。
嫌だ、嫌だ。おれはもう、乗りたくない。
しかし、びくともしなかった。
翔機は基地の上空を飛びながら、高度を上げて、どんどん遠くへ向かう。
こちらの操作を、受け付けない。オートパイロット機能が働いていることに気づいた。
◇
その日、人々が街角で、あるいは職場や食堂で見たものは、いつもと違った。
確かにアナウンスは、また兵士(メトセラ)たちの戦いが始まることを告げていた。
だが、内容が違っていたのだ。今回はこうだ。
――悲しいことに、我らが栄光ある
――その名はレイ。
――彼は皇国に叛意を示した上で翔機を奪い、逃走を開始した。
――この蛮行を許すわけにはいかない。
――兵士(メトセラ)達はこれより、彼を処刑するために飛び立つ。
――今まさに、悲しみの戦いが始まるのである。
人々は互いの顔を見合わせながら、口々に意見を戦わせあった。
それには、同士討ちに対する苦言や疑問も含まれていたが、彼らは知るはずもない。
そんな感情そのものも、今回の戦いが、また新たな演目として披露されるための要素に過ぎないのだということを。
しばらくすると、レイという一個人に対する哀れみは、『裏切り者は殺せ』の大合唱に、完全にのみこまれ、ひとつになった。
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