waterproof

hiyu

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 息ができない。

 ゆらゆらとゆらぐ視界の隅で、きらりと何かが光って、消えた。一瞬の輝きはあぶくとなって弾け、爪先の動きに引きずられるようにそのあとを追う。

 ブルーの世界にゆっくりと、その泡が溶け込むのを、ただ見つめていた。

 水圧で押しつぶされる空っぽの肺。

 心臓が大きく音を立てて、限界を告げた。

 水を蹴る爪先、まるで見えない薄い隙間を抜けるように伸びた手の指先。

 遠くなっていくその姿に、見とれた。


 俺は水中から浮上し、ぶはっと息を継いだ。

 慌てて振り返ったら、くらりとめまいがした。酸欠で突然頭を動かしたせいだと分かっていた。プールサイドのへりに手をかけて、なんとか身体を支える。

 ──きれいだ、と思った。

 隣のレーン、それは音もなくターンして折り返してきた。俺の目の前を、まるで魚みたいに通り過ぎていく。

「あれ──誰?」

 プールサイドにしゃがみ込んでいた友人に訊ねると、隣のクラスの水泳部のやつ、と教えてくれた。

「名前も何か、水っぽい感じだったな……ええと、水野? 水谷? 水……水」

 友人がううむ、とうなる。

 クロールで50メートルのタイム測定。それが終わったらあとは自由行動、なんてやる気があるのかないのか分からない体育の授業。俺たちは適当に計測を終わらせ、一番端のレーンで水遊びをしていた。

 夏の日差しはじりじりと照り付け、濡れた身体も一瞬で乾きそうなくらいだ。大半の生徒たちは俺たち同様プールに浸かって涼んでいるだけだが、中には数名、中央から2つ3つのレーンをひたすら泳いでいるやつらがいた。

 よほど体力が有り余っているのか、まるで遠泳みたいにのらくらと平泳ぎや、2つのコースを陣取って競争しているやつらもいる。

 俺は、プールに潜り、空を見上げる。

 肺の中の空気を全部吐き出して、仰向けでゆっくりと身体がプールの底に落ちていく感覚がたまらなく好きだ。底についた背中は、時々揺れる水の抵抗でふわりと浮いた。地上の音が小さく、遠く、凝らした目に映るのは、ゆらゆら揺れる水面に反射する青い空と、まばゆい光。

 きれいだ。

 このままずっと、こうして沈んだままでいたい。

 どんなに頑張ってもほんの数分。肺と心臓が悲鳴を上げ、俺は浮上する。

 そんなことを繰り返していた。

 そして、何度目かの潜水の途中、その姿を見た

 隣のコース、クロールで進む、彼を。

 水泳部。

 体育教師がそろそろ上がれ、と声を上げ、プールにいた生徒たちはぞろぞろと更衣室の方へと移動した。

 プールからあがった彼が、スイムキャップを外して、軽く首を振った。まるで濡れた犬みたいに水を飛ばし、近くにいた友人らしき生徒が彼を呼んだ。

 逆三角形の身体は滑らかに、まるで弾くように水滴が肌を滑る。

 次の日、貼りだされたタイムの上位者の一番上に、彼の名前があった。

 彼の友人が呼んだ、その名前を、俺はしっかりと覚えていた。

 水、なんてついていなかった。

 彼の名前は、かみづか、といった。

 俺はその名にそっと触れてみた。

 上塚、の文字の上を、まるでなぞるように。


 放課後、水泳部が練習するプールをフェンス越しに眺めていたら、同じクラスの生徒が気付いて近付いてきた。入部希望? という問いに、ただの見学、と答えると、暑くないの? と訊ねてくる。

 大丈夫、と俺は答えて、そのままフェンス越しに練習風景を眺めていた。

 上塚は1人黙々と泳いでいた。

 どちらかというと、お気楽な雰囲気の部の中で、素人の俺が見ても明らかにレベルの高さが違う。

 しゅるりと前方へ伸びた腕は指の先までまっすぐで、薄い層の中を、迷うことなくここだ、と差し込むように進み、そのまま手のひらで水を捉えるように押しやる。後方へ向けられた手のひらが、まるで引き寄せられるように水をかく。そのままその水を後ろに押し出すようにしてスピードに乗る。

 水面から肘が出て、大きく肩から回した腕が、また再び爪先から水面に入り、伸びる。

 水面と水平に伸びた足は、まるでしなるように甲が水を蹴り、ストロークにさらにスピードを加える。

 こんなにきれいなフォームを、見たことがない。

 まるで魅入られるように、俺はその姿を見つめていた。

 それから毎日、俺は放課後にフェンス越しにプールを見るのが日課になった。

 時々廊下ですれ違うことも多くなった。と、いうよりも、隣のクラスなのだから、今までもそういうことはあったのだろう。ただ、その存在を知らなかった今までと違い、確実に俺はその姿を意識し始めていた。

 あんなにきれいなフォームで泳げるのなら、きっと、とても気持ちいいに違いない。

 誰にも追いつけないそのスピードで、無駄な水しぶきも、音もなく、水面を進む。きらきらと光が落ちて輝くプールの中、俺は深く潜ってその姿を見つけた。

 視界の隅、まるで消えるのを名残惜しむようなあぶくをまとい。

 魚のように。

 制服姿の上塚は、よく見れば他の男子生徒とは明らかに見た目が違っていた。本人はいたって地味なタイプらしく、普段は友人らしい数名と穏やかに笑いながら話をしている姿ばかり目にしている。けれど、その日に焼けた肌や、髪や、明らかに他のスポーツとは違う筋肉のつき方は、嫌でも目を引いた。

 身長は俺と大して変わらないのに、姿勢がよく引き締まった上半身の筋肉は、ひらべったいだけの俺とは比べ物にならない。広い肩、厚い胸、すっと伸びた背筋。

 色の抜けた髪は少し痛んでいて、日に当たるときらきら光った。

 日差しの下で笑いながら友人と話す上塚を、俺は遠くから眺める。

 まるで魚だ、と俺は思ったが、あんなきれいに泳ぐ魚を、俺は知らない。


 ばしゃばしゃとのんびり平泳ぎで列をなす2つのレーン。もうひとつではタイム測定。そして、測定が終わった生徒から、また自由時間。

 上塚は教師に言われてお手本がわりに25メートルを泳ぎ切り、すぐさまタイム測定の列に回った。そしてまた、残り時間を延々とクロールで過ごすつもりらしく、第4レーンを使って、今、多分、200メートル目のターンを決めた。

 俺は第5レーンで前回と同じように沈む。

 きらきらと輝く光の粒が目の前に落ちてきて、目を細める。

 弾けるように跳ねるその粒を見つめていた俺の視界の端、隣のレーンを、上塚が泳いでいく。光の粒が急激にその数を増し、俺の周りを取り囲む。上塚が去って行った。その足の爪先に、あぶくの名残を連れて。

 飛び込んだあとの、けのびの姿勢は、長い両手足がまっ直ぐに伸びている。重なる手の先、わずかに内に寄って触れるか触れないかの距離でハの字になる足の先。流線型が水中を音もなく通過して、水面へと浮かぶ。

 授業中も、放課後の部活の時間も、俺は、そのきれいなフォームの虜だ。 

 ぶくぶくと、深く沈みながら、俺はその美しさに見とれる。

 水面を蹴る足。小さな泡がいくつも発生し、ぱちぱちと消えていく。

 コーナーを蹴って、ターンしてきた上塚が、再び俺の斜め上を通過していく。滑らかなストローク。ぼやける視界の中で、きらきらと光る光の粒。次々に生まれ、消えていく泡。

 一瞬、目が合った、と思った。

 水中の濁った視界の中、はっきりとは分からないはずなのに、なぜか。

 俺の胸がどくんと大きく音を立て、空っぽのはずの肺から、まるで逃げ出すように空気がこぼれた。ごぼごぼと音を立てて、俺は慌てて浮上する。

 そのままげほげほとむせかえり、酸欠だった俺の肺がきゅうと音を立て縮こまっていくような気がした。咳き込みながらなんとかタイミングを見計らって大きく息を吸い込もうとするが、うまくいかない。

 ふらりと、めまいがした。

 ちかちかと目の前で何かが光り、次の瞬間、俺の身体が水中に沈んだのが分かった。プールサイドから俺を呼ぶ声がしたけれど、水の中で、その声は小さく消えていく。

 あまりの息苦しさに水中で息をしようと大きく吸い込みたくなるのを、なんとか堪えた。

 光の粒が、浮かぶ。

 目を閉じて、ゆっくりと、沈む。

 ────────

 次の瞬間、俺の身体は水中から引き上げられ、大きく息を吸い込んだ。

「ゆっくり」

 繰り返し息を吸い込もうとしたとき、すぐ耳元で、声がした。

「まず、吐いて」

 俺は、目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。それから、再び、その空になった肺に行き渡るように大きく息を吸い込んだ。

「もう大丈夫」

 俺はゆっくり目を開ける。目の前にいたのは、上塚だった。

 プールサイドから、体育教師の声がした。上塚がそれ答える。俺は何度も呼吸を繰り返し、時々むせ、また息を吸い込んだ。

 上塚は俺の身体をプールサイドのクラスメイトに一旦預け、プールを上がった。まだふらつく俺を支えて、体育教師と言葉を交わす。フェンスに寄りかかるように座らせた俺に、自分のものらしいタオルを差し出す。

「水の中は好き?」

 俺の隣に座った上塚が、なぜかそんなことを訊ねる。

 教師も、クラスメイトたりも、またプールでのお遊びのような授業に戻っていた。

「いつも君は、水中にいる」

 俺はぐるりとタオルをまとって、上塚を見る。

「初めて見たときは、溺れているのかと思ってた」

 俺のことなんて、視界に入っていないとばかり思っていた。

 だって、上塚は、いつも、まっすぐに泳ぐ。あの見とれるくらいきれいなフォームで、水をかき、水を蹴り、まるで魚のように水中を進む。

「プールの底で、ゆらゆらと揺れる君は、まるで水に溶けてしまうんじゃないかと感じてた」

 外したスイムキャップ。濡れた髪が貼りつき、雫を落とす。

「弾けて消える泡みたいに、その姿をなくしてしまうんじゃないかって」

 日に焼けた浅黒い肌に、その水滴が落ちる。滑るように──

「きれいで」

 俺はつぶやく。

「──すごく、きれいで」

 上塚が俺を見つめる。少し寄せられた眉は、怪訝さの表れか、不快の表れか。

「どんな魚よりも、すごく」

「俺が?」

 それがどちらでもない、と気付いた。上塚に浮かぶのは、戸惑いだった。

「水中で、初めて上塚を見たとき、あまりにきれいで見とれた」

 驚いたように俺を見たまま、上塚は言葉を継げずにいる。

「まるで魚みたいだって思ったのに、上塚みたいにきれいに泳ぐ魚を、俺は知らないって気付いたんだ」

「──俺の名前、知ってるの?」

「それまで存在すら知らなかったのに、急に知りたくなったんだ。それで、クラスメイトに聞いてみたんだけど、あまりあてにならなかったかな。隣のクラスの水泳部だってことは教えてくれたけど、名前もなんだか水っぽい、って言われて」

 上塚が首を傾げる。

「でも、ちっとも水っぽくない名前だった。耳で聞いたときは、確かに水だと思ったのに」

 プールサイドで、友人らしき生徒が呼んだ。

 ──かみづか。

 その音は確かに、水を連想させたはずなのに、貼りだされたクロールのタイム、その一番上に書かれた文字は、全く違ったものだった。

 ──上塚。

 一瞬、ぽかんとした上塚が、次の瞬間、おかしそうに笑った。

「ねえ、水瀬」

 俺の名前を知っていたことに、驚いた。

「水が入っているのは、君の方だね」

 俺も笑う。そう言われればそうだ、と思った。

「放課後、フェンスの向こうでこちらを見てる君が、とても気になってたんだ」

 あんなに毎日、ただひたすらに泳ぎ続ける上塚を、俺はずっと見つめていた。乱れることなく、あの美しいフォームで泳ぎ続ける姿を。

「俺を見ていたらいい、と思ってた」

 水泳部はゆるやかに、自由気ままにプールを泳ぐ。黙々と、ただまっすぐに泳ぐのは上塚ただ1人。

 俺に気付いているなんて、思いもしなかった。

 だって、上塚は、一度もこちらを見なかった。

 水面を滑るように、ただ前だけを見て。

 伸ばされた指先が、あまりにきれいで。

「さっき、君と目が合った」

 気のせいなんかじゃなかった。プールの底で、俺は、確かに、上塚を見つめていた。

「俺を見ていたらいい──それが、現実になった気がして」

 タオルの端から覗く俺の指先。そこに、上塚の指が、触れた。まるで偶然みたいに、ほんのわずか、かすめるように。

 俺はその指先を、そっと絡ませる。

 上塚が俺を見つめ、浅黒い肌がわずかに赤く染まるのを見た。身体をくるんだタオルを引っ張って、絡んだ指先を覆う。

「水中に沈む君が、溶けてしまわなくてよかった」

 指先に力が入り、上塚が、小さくつぶやいた。

 きらきらと光る水中から見つめた上塚の姿は、溜め息が出るくらいにきれいだった。

 緩やかに、大きなストローク。伸ばした指先も、水を蹴り進む足先も、その先で弾ける泡も、みんな。

 沈んだ俺の視界には、うっとりするほど美しい流線型。

 水の中の層に滑り込むように、滑らかに。

 上塚が、俺を見て、ふっと笑った。

 色の抜けた髪から落ちる雫は焼けた肌を滑り、プールサイドに落ちていく。

 タオルの下の手はいつの間にか握りしめられていた。

 息ができない。

 ゆらゆらとゆらぐ視界の隅、きらりと光り、消えていく光の粒。

 ブルーの世界にゆっくりと溶け込む泡。

 水圧で押しつぶされる空っぽの肺。

 まるで魚。

 けれど、あんなきれいに泳ぐ魚を、俺は知らない。

 ──でも、俺は、その人の名前を、知っている。

 まっすぐに伸びた指先。水の中を自由に、まっすぐに、進む。

 俺は、その名を呼んだ。

 クラスメイトが大声をあげてはしゃぐようにプールに飛び込み、まるで弾けるように水しぶきが上がり、それはきらきらと光って消えた。


 了

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