過去のゴルと今そこにある危機

 黒の都。


 石畳や建物に、艶のある、魔物避けの効果が高い石がふんだんに使われた、美しい街だった。

 人々が行き交い、馬車が走り、商店の軒先には色とりどりの、不可思議な商品が陳列され、食堂では笑顔の男女が楽しげに語らう。

 学園では貴賤を問わず、淑女や紳士のための教育が施され、王城では、優秀な人材が集められて働いていた。治安は良く、清潔な都市だった。


 巨大な都の北側と南側には暗い、深い森が広がっている。賢者や騎士、冒険者がモンスターを刈ったり、商人が素材を収集したりしていたと聞く。東側には爽やかな風の吹く草原と、それほど高くない山に、深い静かな湖があった。山からは清浄な水が流れ、王都をぐるりと回って南西に抜けていく。


 王都、クロウェルドの西側は、清浄な湿地帯だった。


 ゴル村は、クロウェルドの中心地からはさほど遠く無く、そのために移住希望者が多かったらしい。が、代々ゴル村を納めてきたコルベリ家は、それを制限し、小さな農村のままであり続けていた。

 しかし、コルベリ家のさほど大きくはなかった屋敷の裏側に広がる湿地帯、あの美しい、背の低い、丸っこい葉やオレンジ色の実を鈴なりにつけるような木や、白い、小さな花を少女がはにかんだようにちらほらと咲かせる草が、葉のほうは遠慮なんてするつもりは更々ないのだと、みっしりと繁った深い、どこまでも続く緑の絨毯よ。わずかにある隙間を、もしかして勿体無いと誰かが思ったとでもいうのか、小川や水溜まりが抜け目なく隙間を埋める、広大な、誰ひとり立ち入ろうとしなかったあの神聖なる湿地帯。

 昼間は青い碧い空が存在を誇示し、緑の間からは縦横無尽と流れる水がちらちらと輝いていた。一瞬たりとも目を離せない、むしろ騒々しいまでに目まぐるしく姿を変える、まるで貴婦人たちの集いの一幕ような夕刻を経て、夜になれば果てを知らない、静かで穏やかで、それでいて胸踊らせられる星空の下、月粒虫や黄幻花、碧輝草がほわほわと淡く無邪気に光るあの光景も、ゴル村の土地であった。


 いや、ばしゃばしゃと、容赦なくあの湿地帯に入っていった少女がひとり、いる。


 ここは美しいと言いながら、ここにいると心地が良いのだと言いながら、大胆に湿地帯を走っていったのは、まだ結婚する前の、妻だった。


 自分が眠りについている間に、湿地帯は干上がってしまったのだろう。テオの記憶にある湿地帯の上に、このゴルの城は建っている。あの湿地帯を流れた清浄な風はもう、吹いてはいない。


 こちらから少しずれた空間を渡り、誰にも姿を見せることなくテオはデータスと呼ばれていた少年の部屋に姿を現した。


「新手か」


 データスは、チラリとテオを見て、はっきりと顔を歪ませた。ちょうど、黒っぽい服に身を包んだ下働きらしい男と争っていたのか、揉み合っている最中に見える。


「いや、私は君に話があってきたんだよ」


 テオは指を動かすと魔法を行使し、薄汚い男の意識を昏倒させた。データスは手早くその男の手足を拘束しつつも、チラチラとテオの方を警戒するそぶりを見せている。


「疑うのは自由だけれど、そこまで警戒をあらわにしてはいけないよ。相手に簡単に対策を打たれてしまうからね」


 隠し部屋の類いなのだろう。こういう部屋はきっと書庫か書斎か、あるいは寝室に、分かりにくいように細工された入り口がある。そこは、ひどく狭い空間だ。


 くるりと見回し、テオはデータスへと微笑みかけてやる。


「実の親も、グエンドリンの目も欺き続けている君のことを、私はね、評価したいと考えているんだよ」


 ××××××××


 レオリールが規則正しく寝息をたてている。部屋にはテオが焚いていった香が仄かにだけ漂っていた。


 うららは静かに続きの部屋に続く扉を開いた。そちらでは、ヤニックと、バティストが寝ている筈だ。


「ちゃんと寝ないと、明日は眠くて大変じゃないの?」

「いえ、……はい。あと一時間だけ。そのあとはきちんと休ませていただきます」


 イスメールがそう答えると、うららはちょっとだけ四人を睨んだ。


「……んじゃ、ちょっとだけ、アタシ、グエンドリンさんと話をしてくるから。四人まとまってんならここでまとまってて。レオリールがいるあっちの部屋、今は入んない方がいいからね」


 そう言い残すと、うららは一歩踏み出すように、パッと姿を消した。


 ××××××××


 ずいぶんと、綺麗な顔をしていやがる。


 データスは綺麗に微笑む男の後ろを歩いている。

 夜番の使用人くらいしか残っていない時間だ。明度を落とした廊下が普段よりも狭いような、いつもとは違う景色に見えた。


 データスは、別に領主になどなりたいと思ったことはない。ただ自由に楽に生きたくて、その為には少々の権力が必要だけだ。それなのに、周囲は期待を向けてくる。

 親世代やいとこを見る限り、女性に興味なんて持てそうにもない。結婚も無理だろう。


「妻はだいぶ、怒っていてね。グエンドリンと言ったかな? 彼女の代わりにこれからは君に頑張ってもらいたいと考えている」

「簡単に言ってくれるな」

「君ならできるだろう?」


 簡単に言ってくれるなよ。


 データスは心の中でもう一度つぶやく。グエンドリンとその取り巻き、配下の手腕で良くはなってきているが、この城の中はまだ、政治がぐちゃぐちゃだ。改善したと言っても前よりちょっとだけマシといった程度でしかない。グエンドリンには、グエンドリンなりの悪い面がある。


 こんな城の領主になるなんてまっぴらだ。


 だが、一族をああいう形で処分していったグエンドリンだ。データスは保身のため、まだまだ気が抜けそうにない。もういっそ従兄弟が上手くなんとかしてくれれば良いとデータスは心底願っている。理想は軟禁だ。死にたくはないが、働きたくもない。頼むから領主だの、後継ぎだの、そんな争いからは遠ざかりたい。頼むから誰か、俺をさっさと軟禁してくれ。


 テオと名乗った男は、どうやらグエンドリンの滞在している部屋に向かっているようだ。


 ××××××××


 グエンドリンの部屋にはいつも通り、取り巻きの中でも気安い数人、あと護衛と共にいた。


「それにしても、レオリールにはがっかりね」


 ほう、とグエンドリンは息を吐いた。


「データスの方が見所があるのではありませんか」


 取り巻きのうちのひとりが言えば、他のものもレオリールを貶し、そして口々にデータスのことを褒めだした。グエンドリンはふふ、と妖艶に微笑みながらそれを聞いていた。


「国王だなどと、ふざけたことを」

「領主という役職の大切さをわかっておられませんのよ」

「データス様はグエンドリン様を大事にしていて素晴らしい」

「それに引き換えレオリール様は、グエンドリン様の元に挨拶にさえなかなかいらっしゃられない」

「データス様の書類は良くまとまっていました。とても知的でいらっしゃる」

「見た目的にも、優秀さでも、データス様はグエンドリン様に似ておられるのではないか?」


 たおやかな手がグラスに伸び、真っ赤な唇で薔薇色の酒をグエンドリンは飲む。部屋にはグエンドリンが好む香が焚かれており、照明はかえって闇を深くする。香油を使ったマッサージを受ける為にさらされたのは膝より下の素肌だけだが、妙になまめかしさを感じるものであった。

 近頃、一番お気に入りの騎士に向かってグエンドリンは微笑みかける。一口大になっている、美しい見た目の料理を、青年はアルコールで濡れた唇に指で直接摘まみ、食べさせてやった。


「そうねぇ、息子に領主になってもらいたかったけれど、データスの方が言うことをよく聞いてくれそうだものね」


 ふぅ、と色っぽくため息を吐いたところで、タスッと何かの音がした。


 ××××××××


「ああ、やはり待てなかったらしい」


 テオの声で顔をあげると、廊下に、少女が立っていた。足元には城じゅうから集めてでも来たのか、大量の薔薇の切り花がある。少女の年の頃は自分と同じくらいだろうか?


 いや、あれは。彼女の顔を見たのは初めてだが、あの背格好、あの特徴的な衣装には見覚えがある。


「精霊、様……?」

「ああ、わかるのなら良かった。ここで君は見ているといい。彼女の恐ろしさを知れば、私たちに逆らうつもりなど起きないだろうからね」


 少女はダーツか何かのように、切り花をどこかに投げている。何をどうしたらそういう音がするのか、規則正しく投げる仕草にあわせてタスッ、タスッ、と硬い音がしている。

 テオが、美しい顔で綺麗に綺麗に笑っていた。


 ××××××××


 騎士のひとりが、扉を開いた。途端、その騎士の姿が消えた。バァン、ともダァン、ともつかない音が扉の向こう、廊下から響いた。


「あのさぁ」


 ひらひらと、動きに合わせて衣装がなびく。


「あなた、何様?」


 ムッとした顔の少女に、護衛が数人飛びかかり、そのまま少女に殴り飛ばされ、蹴り倒された。気づけば先ほど投げ込まれた花の茎が、モンスターのようにうねうねと伸びて何人かを拘束している。


「ナっ何者だっ!?」

「へーそう、何回もお会いしてんのにわかんないんだ」


 取り巻きのひとりがまた、素早い回し蹴りで壁際にすっ飛んだ。


「グエンドリン様、お逃げくださいっ!」


 誰かが、グエンドリンの腕を引っ張り、逃げてくれようとして、少女が投げた椅子に当たって昏倒した。


「この……っバケモノっ!」


 誰かが魔法を行使しようとして、失敗したのがわかる。ダスッと少女が投げた薔薇の切り花が、取り巻きのなかでも魔法を特に得意とする者の頬をかすっていた。

 廊下から、壁際から、一度は吹っ飛ばされた者たちが一斉に少女に飛びかかる。が、ふわっと少女は一瞬姿を薄くし、彼らの腕をすり抜けてしまった。


「こっちはねぇ、人間やめてもう、何年どころか何十年もたってんの。人間ごときがアタシに叶うと思わないで」


 ひたり、と少女はグエンドリンの目の前に立った。どこから取り出したのかはわからないが、大きな扇子のようなものを持っている。


「全員、そこに座んなさい!!!!」


 ××××××××


 バシッ、バシッ、バシッ。


「ほら、うちの奥さんは、怖いんだ。君もあれに加わるかい?」


 優しげにテオが話しかけてくるが、データスは逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。強ばる首をなんとか横に振る事には、成功した。


 バシッ、バシッ、バシッ。


「この世界はね、アタシたち精霊がおーさまを決めるって、むかーしっから、ずっと、そう、決まってんの!」

「すみませんでした!」


 バシッ、バシッ、バシッ。


「領主だってね、おーさまがアタシら精霊に承認受けないと決めちゃダメなのっ!」

「すみませんでした!」


 バシッ、バシッ、バシッ。


「王族とか、領主とかは、お祈りを広めるのが仕事なのっ!」

「すみませんでした!」


 データスは顔を蒼白にしている。室内で、グエンドリンと残念な仲間たちは正座をさせられ、ハリセン、という武器で叩かれまくっている。肉体的ダメージは少なそうだが、かれこれもう、三十分は過ぎている。彼らは精霊様の剣幕に、怯えながら涙目で謝罪する以上の行動を許されていない。


 バシッ、バシッ、バシッ。

 バシッ、バシッ、バシッ。

 バシッ、バシッ、バシッ。


 データスは、心底、このテオという男に匿われたことを感謝した。


 少しでも動こうものなら、棘のある薔薇の弦で拘束される。あれは恐ろしい。そして、きっと痛い。


 バシッ、バシッ、バシッ。

 バシッ、バシッ、バシッ。

 バシッ、バシッ、バシッ。


 どうやら、あの精霊様の能力か何かにより、あの場では魔法を打つことも出来ないようだ。


「そもそもね!なんでレオリールにあんなに泣きそうな顔させてんのよ!?あなた、あの子の母親でしょ!?」


 ビタァン!


 この時だけ、少女は直接グエンドリンに平手打ちをした。


 データスも、昼間、応接室でチラリと自分を見たレオリールの表情を見て、泣きそうな顔してやがる、とは思っていた。正直どうでも良いと思っていたので、今の今まで忘れていたが。


「レイ。少しは気が済んだかい?」


 同じく、そんなことはどうでも良いと考えているらしいグエンドリンの表情を、少女が見ることが無かったのはきっと幸運だったのだろう。テオはきっと、世界を救ったのだ。


「テオ……むー、まだ、イライラするけど、テオがなんとかしてくれるっていうなら、ここでやめておく」

「そうしてくれると嬉しいな。そうだ。レイ。改めてこの子を紹介しておくよ。この子はデータス。今後はレオリールの部下になってもらって、ヨヌイールチとの外交を担当してもらうから」


 聞いてねぇ!と叫びたいのをデータスは必死に我慢した。

 あの、恐ろしい少女がじいっと自分を見ている。グエンドリンは確かに恐ろしい女性であったが、この、怒りのあまりに目のすわった少女はもっと恐ろしい。


「……その子、信用できるの?」

「出来ると、私は考えているよ。……ね?」


 データスはこくこくとうなずく。データスはこの時、はっきりと理解した。

 グエンドリンと残念な仲間たちは恐ろしい集団だが、この精霊の少女はもっと恐ろしい存在だ。そして、この少女をある程度コントロールできるであろうテオは、もっと、ずっと、はるかに恐ろしい存在だ。


「逆らいません。精霊様に従います。精霊様がレオリール……様に従えと言うのであれば、レオリール様に粉骨砕身尽くします!」

「ふぅん。じゃ、データス、頑張って。レオリールの部屋にも侵入者がでてるから、アタシ、そっち行ってくる」

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