第10話森の向こうから
クラリッサが普段よりも集中して仕事に取り掛かったので、その日の夕方には帳簿の監査を終わらせることができた。
夜になり、本店に報告の通信を送る。
無事に東ウィックトンについたこと、新規採用がうまくいかない可能性があること、西ウィックトンに何かがあるかもしれないこと。
様子を見つつではあるが予定通り、ウィックトンの森を切り開き、領都ゴルへ街道をつなげる工事を明後日から開始するつもりであること。
東ウィックトン支店の監査と視察の結果、何の問題もなくむしろ理想的な支店として表彰できるくらいであったこと。
通信機は大量の魔力を消費する。この次に通信が出来るのは一週間後くらいだろうか、と思いつつ、クラリッサは届いた通信の内容を確認する。商品の価格表、優先して仕入れて欲しいという希望、通常通りの内容。それ以外に何も無いのは、本店でも他の旅に出ている家族にも、事故や事件もなく、無事でいるという知らせだ。
パオロからの報告によれば、皆が夕食を取っている間にも不審な煙は一回上がり、やはりすぐに消えたそうだ。
クラリッサは窓の外に見える柵を見つめながら、首にいつもかけているお守りに触れた。
「森の工事で事故のようなことが起きませんように」
気持ちよく整えられた寝台で休み、起き上がれば特売日の忙しさに追われることになる。クラリッサ自身はもう接客にはつかないけれど、帳票管理や鑑定、倉庫の整理や人員の把握調整などの形で職員の応援要員だ。この支店でも一番の売れ行きは、特売日だけは購入するのに上限を定められない塩、次によく売れたのはクラリッサが持ち込んだ新しい服の型紙だった。
特売で忙しく過ごした翌日、フランツ商会は森で木を十本ほど切り倒した。
特にトラブルは何も起きなかった。モンスターの数は予想していたものよりかなり少なく、時間の余裕もあることだから、もう数本切ってしまおう、という声が上がったほどだ。しかしクラリッサはその日の森での作業は予定通りにそこまで切り上げさせた。
神殿からわざわざ連れてきた神官に、これもわざわざ神殿から運んできた聖水をふりかけてもらう。皆できちんと祈りを捧げ、そこから一日、森の様子を見ることにした。
神殿にあった古い資料を参考にしてこの計画は動いているが、その資料には大地の魔力が揺らぐため、モンスターが大量に発生する可能性がある、と記録されていた。
計画はモンスターの存在のせいで難しいけれど、工程として難しいものではない。清められた木で杭を作り、それから柵を立て、モンスターの領域と区切っていけば街道のような比較的安全な区域が広がるというものだ。
切り倒した木の根を掘り、土を慣らして固めて馬車が通れるようにし、領都に繋がる街道を取り戻したいが、記録にはモンスターがどの程度現れるかまでは記載されていない。更にモンスターの巣と呼ばれる森の中では何が起きるのか予想がつきにくく、いろいろな事が手探りになる。
夜だった。
今回はかなりの人員を連れて来ていたため、護衛や従業員は相部屋になってしまっている。
さすがにクラリッサは立場や持ち物の都合で一室を使わせてもらっているのだが。
計画されていたその日の作業が短時間で片付いてしまったため、空いた時間で採用希望者との面談を行うことができた。そのうちの採用を決定した三人の書類を整えていたクラリッサは、そろそろ寝ようかと寝るための準備をしていた。そこにジャコモがやって来た。
「ニコラ、ちょっといいか」
「……『ニコラ』?」
『ニコラ』は確かにクラリッサの本名だけれど、クラリッサが『クラリッサ』を名乗るようになって、もう三か月は経っている。名前を言い間違えていると文句を言おうとして、言葉を飲んだ。
「何?どうしたの?」
少し顔色を悪くし、緊張しているのかこわばった顔つきのジャコモは、勝手にクラリッサの荷物から衣類と護身用の武器を取り出し、どんどんと着替えさせていく。
「すまない。けど、森の方から何かが来てるらしいんだ。それ以上のことはまだわからない」
着替えの最後に、ジャコモは申し訳なさそうに、心配そうに、優しい目をして大切な『クラリッサのお守り』をクラリッサの首にかけた。
彼が部屋を出るとき、気分を切り替えようとしたのか、一度大きく短い深呼吸をしていた。
「安全な屋内に居させてやりたいが、君は責任者だから。住人に姿を見せて、安心させてやってほしい」
そう言ったジャコモの顔は立派な支店長らしいもので、連れられて出た部屋の外にはパオロや旅の途中ずっと一緒だった護衛が十人ばかり待機していた。彼らとジャコモが話しているのを聞いて、クラリッサも状況を把握していく。
「森の中で灯りみたいのが動いているのは30分くらい前からだ」
「住人のが何人かが門の近くに集まっている」
「騒ぎになると面倒になるな」
「門の外のモンスターの姿は?」
「まだそんなに多くない。いつも通りの数みたいだ」
「これが、もしかしてモンスターの大量発生か?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「お守りがあるから大丈夫だろうが、お嬢の安全だけは守らないとな」
「……ありがとう」
クラリッサは彼らに向かって微笑みかけ、それから門に向かった。
町並からは明かりが消え、どこも寝静まっているように見える。
しっとりと湿度を含んだ空気が頬を撫でる。今夜の月は半分くらいに欠けていて、昼間は気にならない虫の鳴き声が、今はあちらこちらから聞こえる。護衛の持つ照明に照らされた石畳はてらてらと光っているようで、不思議な影を妙に濃くしている。鳥の鳴き声がしたような気がする。が、不安そうな顔をした住人がちらほらと集まってきているのも本当だった。
あちらではクラリッサを指さしながら、護衛の一人が住人に話しかけている。話しかけられた住人が帰宅していった。
「……なるほどね」
こちらで対応しますから、安心して自宅待機してください作戦でいくらしい、とクラリッサは門の方に進んでいった。
門の向こう、森の奥では確かにちらちらと光が揺れている。
じっと見ているうち、白い影がうっすらと見えてきた。
「……人かな」
「モンスターにしては遅い動きですね」
「しかし、夜だぞ」
視線をずらせば柵の向こう、今夜もモンスターの走る影が見える。
モンスターを弾く柵に触れ、門の内側に入ってきたのは白い服と黒い服を着た二つの人影。
小柄なのは特徴的な白い服を着た方で、女の子に見える。顔の前に布をかけているけれど、やはり女の子だろう。
黒い服の方は背の高い男性で、比較的落ち着いてはいるものの、やはり驚きを隠せないという表情でしきりに辺りを見回していた。
「……クラリッサ?」
少女らしい、高く澄んだ声が夜の闇に溶けて広がる。
クラリッサの周りに立つ護衛たちが不思議そうに、白い衣装の少女とクラリッサを見比べていた。
少女が歩くのに合わせて衣装が風をはらんでひらひらとなびく。
「……フランツさんのお店の看板だ」
少女が店舗を見上げて呟いたときには、クラリッサとの距離は、あと三歩で握手ができるほどになっていた。
「はじめまして。わたしはフランツ商会のクラリッサです。あなた様は?」
「アタシ?」
クラリッサの首からかけてあったモンスターよけのお守りが、す、と小さな手で持ち上げられた。護衛たちが殺気立って警戒を強めたのがクラリッサの肌にも伝わってくる。
それだけ近い距離になっても、向こうの景色が透けて見えるくらいに薄い布で隠された少女の顔は誰にも全く見えないのが不思議だ。けれど、少女がにこにこと笑っているのだけはなんとなくわかる。
「このお守りをクラリッサにあげたひと」
クラリッサのお守りがぽう、と光った。
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