上を向いて登ろう

つとむュー

上を向いて登ろう

「雨具、水筒、帽子、地図に懐中電灯。すべてチェックよし。忘れ物はないよな……」

 土曜日の午前九時。陽はすでに高い。

 廊下に荷物を並べながら、念のために俺はザックの中身を確認する。大丈夫、問題はなさそうだ。

「ふわぁぁぁ、今回も早いわね……」

 ゴソゴソと音がうるさかったのだろう。目をこすりながら妻が寝室から顔を出してきた。

 早いったって、もう九時だぜ。毎週毎週、何時まで寝てるんだよ。

「それで? 今日はどこに登るの?」

「赤城山だよ」

 ——赤城山。

 群馬県の中央部に位置する、最高標高が一八二八メートルの山だ。

「赤城山って、あれ? 先月も登らなかったっけ?」

「あそこの景色は最高だからね。何度登ってもいいものだよ」

 赤城山は日本百名山にも選ばれている。選者の深田久弥がプレイ・グラウンドと称するように、最高峰の黒檜山をはじめとして地蔵岳、鈴ヶ岳など、登るピークに事欠かない。そのことを妻に言ってもにわかには分からないと思い、景色の一言で片付けてしまった。

「へぇ~」

「お前も来るか?」

「嫌よ、山登りなんて。疲れるだけじゃない」

 いつもと同じ反応。だから期待なんかしてはいない。

 子供達は子供達で、週末は部活で忙しい。だから登山はいつも単独行だ。

「それじゃ、行ってくるよ」

「運転気をつけてね。無理しないでよね、年なんだから」

 年と行ってもまだ五十才だ。定年まではまだ十年以上もある。

 それに定年で時間が自由になったとしても、山に登れるだけの体力があるとは限らない。だから今のうちに、週一の山登りをこなして体を鍛えておくのだ。

「分かってるよ。無理なんてしないから」

 そう、最近の俺は無理はしない。

 無理をしなくても良い場所を見つけたから――


 ◇


「都会で山登り体験、してみませんかぁ~?」

 そんな呼びかけに反応してしまったのが三ヶ月前。

 ビラを配っている女性が可愛かったことも一理あるが、紙面に書かれている『最新のクライミングマシンでバーチャル登山が楽しめます』という文句に心を奪われてしまったことも事実。早速俺は、その店を訪れた。

 ——バーチャルクライミングクラブ『上を向いて登ろう』

 外から見える店内は、登山グッズが並ぶアウトドアショップという感じだ。クライミングクラブにはとても見えないが、その方が店内には入りやすい。俺はビラを片手に自動ドアの前に立った。

「いらっしゃいませ!」

 ドアが開くと一人の女性が近づいてくる。俺が手にするビラに気付いたのだろう。にこやかな笑顔で俺の興味のど真ん中を突いてきた。

「クライミングマシンにご興味がお有りですか?」

 まあ、当然だろう。俺は、ビラのクライミングマシンの写真を親指で抑えるように握りしめていたのだから。

「ああ」

 こちらの意向をわざわざ説明しなくてよいのは助かる。

「それでは、どうぞ、実物をご覧になって下さい。こちらです」

 促されるように店内に一歩踏み入れる。きっと、オープンしたばかりなのだろう。店内は清潔で明るかった。

 店員の後についてグッズ売り場の奥に行くと、ビラの写真と同じマシンが鎮座していた。俺は、そのマシンの大きさに圧倒される。

 幅は六十センチくらい、奥行きは二メートルくらい、高さに至っては一メートルくらいはあるだろうか。ランニングマシンのベルトの部分が、立体的なエスカレーターになっているという感じだ。そこは五段くらいの階段になっていて、両側に手すりが付けられていた。

「登ってみますか?」

「いいんですか?」

 とりあえず、俺は店員に訊いてみる。

 このマシンが目当てで来たのだから、試さずに帰るという選択肢は無いのだが。

「どうぞ、どうぞ。これはそのためのマシンですから」

 店員に促されるように、とりあえず俺はマシンの手すりを掴んでみる。間近で階段の部分を観察すると、全体が黒いゴムラバーに覆われており、エスカレーターのような硬いイメージはない。

「これ、土足でもいいんですか?」

「ええ、構いませんよ。ここのマシンは、登山靴の試し履き用ですから」

 周囲を見渡すと、壁の棚にはびっしりと登山靴が陳列されていた。登山靴を買いに来たお客さんが、このマシンを登ってみて靴の履き心地や登り易さなどを試すのだろう。

 俺は意を決し、クライミングマシンの一段目に足をかけた。

 見た目通り、足裏の感触はそんなには硬くない。といっても、柔らかすぎるということもない。そして体重を一段目に乗せた足に移動する。しっかりと一段目を登ったという感覚だ。

 さらに二段目に足をかける――と、マシンに変化が起きた。ウィーンと小さく機械音がし始めたのだ。

 何だろうと足元を見ると、階段部分が下りエスカレーターのようにゆっくりと下がっている。

 そうか、こういう仕組みなら、何段でも登り続けることができる。

 俺は三段目、四段目と登ってみた。すると、登る速度に合わせて階段部分が下に動く。違和感がないのは、手すりの持ち手部分も同期して動いているからだろう。そして登るのを止めるとマシンの動きも止まった。

「いかがです? 意外と快適でしょう」

 確かにこれは上手く作られている。

 ただの下りエスカレーターであれば、歩みを止めた時にも下方へ動き続けるだろう。しかしこのマシンは、歩みに合せて階段の動きがコントロールされている。これなら自分のペースで登ったり休んだりすることができそうだ。

 しかしここで俺は、あることを疑問に思う。

 ——最新のクライミングマシンでバーチャル登山が楽しめます。

 ビラにはこう書かれていた。確かにこのマシンは最新型なのだろう。しかし、これでは登るだけだ。バーチャル登山をうたうのなら、下りや平坦な道にも対応していなくてはならないはず。

 だから俺は訊いてみた。

「あの、さっきのビラにはバーチャル登山ができるって書いてあったんですけど……」

 すると店員は、待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべた。

「その通りです。ぜひ体験してみて下さい、当クラブ自慢のバーチャル登山を! 隣にレクチャールームがありますから」


 ◇


 俺を案内してくれた店員は、登山靴売り場のさらに奥にある扉の前に立つ。

 ——ここから先は、会員専用のスペースです。

 扉にはそう書かれている。

「私はここで失礼いたします。ここから先は、専門のインストラクターがおりますので、何でもご質問下さい」

 ゆっくりと開くドア。

 それを見届けると、今まで案内してくれた店員さんは売り場へ戻って行った。

 俺はドアの向こう側に目を向ける。正面にはカウンターがあり、その奥にはガラスで仕切られた広いスペースが広がっていた。先ほど見たクライミングマシンが十台くらい並んでいる。

「ようこそ、バーチャルクライミングクラブ『上を向いて登ろう』へ」

 カウンターに立つ若い女性が丁寧にお辞儀をする。

 チェック柄の襟付きシャツは、正にこれから登山に出かけるかのような格好だ。

「私、当店のインストラクター、山麓美風と申します」

 年は二十五くらいだろうか。挨拶する美風さんは、笑顔がとても可愛らしい。俺はビラを示しながら早速質問する。

「えっと、ここに書かれているバーチャル登山って体験してみたいんですが……」

 すると美風さんはニコリと笑って説明を始める。

「ありがとうございます。バーチャル登山を体験される方には、会員の仮登録をしていただくことになっておりますが、よろしいでしょうか?」

 えっ、仮登録?

 それってお金がかかるんじゃ……。

「当店のバーチャル登山は、VRゴーグルを付けてクライミングマシンに乗っていただくことになります。慣れない方ですと、ご気分が悪くなられたり、足を挫いてしまう方もいらっしゃいますので、万が一のための保険に加入するために仮登録をお願いしております」

 そうなのか……。やはりVRゴーグルを付けることになるのか……。

 確かにゴーグルを付けてあのマシンに乗るのは、最初はちょっと恐いだろう。

 保険に加入するという話を聞いて、俺は納得した。

「仮登録までは無料ですので、ご安心下さい」

 無料だったら仮登録してもいいかな。俺はカウンターに近寄ると、置かれている用紙に目を向ける。そして氏名や連絡先など必要事項を記入した。

「丘田さんっていいお名前ですね」

 そう、俺の名前は丘田步高(おかだ ほたか)という。

「当店のバーチャル登山を、きっと気に入っていただけますよ」

 ニコリと笑う美風さんはとても素敵だった。


 登録作業が終わると、美風さんの後についてガラス戸をくぐる。その先は広くて明るいトレーニングルームだった。

 手前にはクライミングマシンが五台並んでおり、奥にも同じように五台のマシンが並んでいた。両者が大きく異なるのは、奥のマシンはそれぞれがガラスのスペースで区切られていることだ。

 使用状況は、手前のマシンは二台が使われているだけだったが、奥のマシンは満室だった。きっとこのガラススペースに何か仕掛けがあって、人気があるのだろう。

「どうぞ、こちらのマシンにお願いします」

 手前のガラススペースに入ってないマシンに案内された俺は、じっくりと機械を観察する。基本的には先ほどの登山靴売り場のマシンと同じだったが、隣にコンソールパネルのような台が設置されており、そのテーブルの上にはVRゴーグルが置かれていた。

 きっと、このゴーグルを付けてマシンに乗るのだろう。そう思うと、なんだかワクワクしてきた。

「では丘田さんの会員証をスキャンします」

 そう言いながら美風さんはカードをコンソールパネルに挿入した。するとウィーンと音がして、マシンの階段部分が動き始める。

「先ほど入力していただいた身長や体重の情報を元に、登り幅などの設定を調整しています」

 確かにこれは重要なセッティングだ。身長の低い人が大きな段差を登るのは無理があるし、その逆も考えられるだろう。人には、それぞれ気持ちよく登れる高さが存在する。

「それでは、マシンの前のマークに合わせて立って下さい」

 俺はマシンの前に移動し、足跡マークに合わせて立った。

「これからゴーグルをお掛けします。画面に目の前のクライミングマシンが映りますので、まずは手すりを掴んで下さい。そうすれば位置情報の調整が終わります」

 美風さんが俺の前に回り、背伸びをしながらゴーグルを掛けてくれた。彼女の髪が肩に当たり、ちょっとドキドキする。

 実は俺は、バーチャルリアリティ体験はこれが初めてなのだ。

 装着したゴーグルの画像には、目の前のクライミングマシンが映し出されている。首を動かすと、それに合わせて画像も動く。きっとこの映像は、ゴーグルに付けられたカメラによるものなのだろう。俺は美風さんの言葉に従って、目の前の手すりを両手で掴んだ。

 すると、ゴーグルに付けられたスピーカーから声が聞こえてきた。

「あと三秒で設定が終わります。手すりから手を離さないで下さい」

 と同時に、隣に立つ美風さんが補足する。

「設定が終わると公園の映像に画面が切り替わります。今回は初回なので、手すりから決して両手を離さぬようお願いします」

 俺はゴーグルを付けたまま小さく頷いた。

 その時だ。

 俺の視界に、鮮やかな緑色と青色が飛び込んできた。どうやら公園の映像に切り替わったようだ。

 目の前にそびえる丘と、それを覆う芝生、そして丘の上に広がる快晴の空。耳元からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 思わず俺は、首を振って辺りを見回す。それはかなりのリアリティで、自分が公園の中に立っているとしか思えない。目の前の小高い丘には、上に向かって木製の階段が延びていた。

「それでは、目の前の丘に登っていただきます。一段目に足を乗せて下さい」

 俺は手すりにつかまりながら、右足を上げてみる。するとゴーグルの画像の右足も同時に上がった。そして画像の中の木製階段に右足をかける。足裏には階段の感覚。マシンの上に足が乗ったのだろう。

 その体験に俺は驚く。タイムラグや段差のずれは全く感じられない。どう見ても、公園の階段に足を乗せたとしか思えない。

「ではゆっくりと体重を右足に移して、一段登ってみて下さい」 

 俺は手すりを掴んだ右手で体を引き寄せるようにして、徐々に右足に体重を移して一段目を登ってみた。すると、動きに合わせてゴーグルの景色も移動する。これも全く違和感はない。本当に階段を登っているとしか思えない。

「慣れてきたら、一歩一歩自分のペースで登ってみて下さい」

 俺は今度は左手でより前方の手すりを掴み、左足を階段に乗せてゆっくりと登ってみる。完全に同期するゴーグルの画像。クライミングマシンの上に乗っていることは本当に忘れてしまいそうだ。

 だんだんと慣れてきた俺は、周囲の景色を眺める余裕が出てきた。一歩一歩高度が上がっていくにつれて、見える景色が良くなっていく。

「これ、本当に登っているみたいですね」

「みなさん、そう言われます。そこが当店のバーチャル登山のウリなんですけどね」

 ゴーグルの外側から美風さんの声が聞こえる。美風さんもこの公園内に登場してくれれば完璧なんだけどな。

 そんなことを考えていると、傾斜がだんだんとゆるくなってきた。どうやら丘の頂上に着いたようだ。いつしか俺は、平坦な丘の上を歩いていた。

 そこでふと気付く。

 俺はクライミングマシンに乗っていたんじゃないか——と。

「美風さん、丘の上に着いて平坦になったんですけど、それで自分も平坦な道を歩いているとしか思えないんです。一体どうなっているんです?」

 自分でも何を言っているのかわからない酷い質問だ。それだけ俺は混乱していた。

「当店のクライミングマシンは、形状を変えて平坦な道や下り坂にも対応できるようになっているんです。そろそろ下り階段が見えてきますよ。気をつけて下りて下さい」

 つまり、最初は上り坂だったマシンは、だんだんとその形状を変えて平坦な道になったってこと?

 これはすごい技術だ、と思っていると、美風さんの言う通り目の前に下り階段が見えてきた。

 俺はしっかりと手すりを掴みながら、一歩一歩階段を降りる。その度に、自分の膝に体重がかかる。本当に下り階段を下りているとしか思えない。

 違和感なく五段くらい降りてから、気が付いたように俺はクライミングマシンに乗っていることを思い出す。きっと下りの時は、マシンが上りエスカレーターのように動いていて、いつまでも下り続けられるようになっているのだろう。

「そろそろゴールですよ。画像の中の最後の階段の下に「ゴール」と書かれたマットが敷いてありますから、そこに両足で立って下さい」

 美風さんが言う通り、下り階段の先に何か赤いものが見えてくる。近づくと、その赤いマットには白文字で大きく「ゴール」と書かれていた。

 俺は手すりから手を離し、ゴールの上に両足で立つ。するとゴーグルの画像が公園からトレーニングコーナーに移り変わった。俺はクライミングマシンを乗り越えた先の床に立っていた。

「すいませんが、しばらくそのまま立ったままでお願いします。今、ゴーグルを外しますから」

 ゴーグルの画像に美風さんが映ったかと思うと、前方からゴーグルが外された。

 俺は現実の世界に戻ってきた。


「ご気分はいかがですか? 気持ち悪くなられませんでしたか?」

 気持ち悪くなるどころか、公園の丘の上の風景はとても清々しかった。これが景色の良い山だったら、さぞかし爽快だろう。

 何よりも、このクライミングマシンの性能とVRゴーグルとの親和性が素晴らしい。最新型とうたうだけのことはある。

「すごく良かったです! ぜひ会員になりたいと思います!」

 興奮気味に語る俺に、美風さんは満面の笑みになる。

「ありがとうございます。丘田さんは本日、仮登録していただきましたので、お試しチケットを十枚差し上げます。これを全て使われた際に、希望されれば本登録への移行となります。なお、チケット一枚につき、一時間のクライミングマシンのご利用が可能です」

 おおっ、それは有難い。

 それに十時間分のマシン利用が無料でできるなんて、かなりの大盤振る舞いじゃないか!?

「じゃあ、また来ます!」

「ご来店お待ちしております。クライミングマシンの空きをご確認いただき、ご予約されてからのご利用をお勧めします」

 こうして俺は、バーチャルクライミングクラブ『上を向いて登ろう』に毎週のように通うこととなった。


 ◇


「今日はチケットを一枚利用したいと思うんですが、どこか良い山はないですか?」

 一週間後、開店と同時に『上を向いて登ろう』に入店した俺は、美風さんにチケットを一枚差し出す。

 運良く、今日も彼女に対応してもらえることになった。

「一枚分を使われるいうことで一時間ですね。そうですね、一時間くらいで登れるところといえば……そうだ、赤城山はいかがですか?」

「ほぉ、赤城山ですか。それはいいですね」

 赤城山なら何度か登ったことがある。山頂近くまで道路が通っているので、一番標高の高い黒檜山でも駐車場から一時間ちょっとで登ることができる。

「じゃあ、赤城山の黒檜山で設定いたしますね。ちょっとお待ち下さい」

 そう言いながら、美風さんはクライミングマシンの隣のコンソールパネルを操作し始めた。

 彼女は今日も登山風の服装をしている。チェック柄のシャツに、ボトムはストレッチ性のあるカーキ色のロングパンツだ。

「設定が終わりました。次は個人設定をスキャンしますので、会員証をお願いします」

 俺が会員証を渡すと、美風さんは機械に挿入した。すると、前回と同じようにクライミングマシンがウィーンと音を立てて作動を開始した。いくらか段差が大きくなったような印象だ。

「この機械のすごいところなんですけど、前回のデータを用いてその人に合った登山ができるように毎回調整してくれるんです。手すりやゴーグルから心拍数や血圧値を測定していて、なるべく無理のない段差幅に変更されていると思います」

「えっ、それって、この間の公園の丘に登ったデータで……ですか?」

「そうです。これからどんどんこのマシンを使用していただければ、さらに丘田さんに合った登山が可能になりますよ」

 そいつはすごい。健康面も管理してくれるのは本当に助かる。これから年齢を重ねても、その時の体力に合った登山を提供してくれるのだろう。

「もちろん筋力アップのための負荷の高い登山も可能ですが、今日はどうされますか?」

「いやいや、快適な方でお願いします」

 気持ち良く登れる方がいいに決まっている。無理をして筋肉痛になるのも嫌だし。

 俺は、このクライミングマシンの性能を信じることにした。

「黒檜山登山口スタートで、設定終了いたしました。本日はチケットが一枚ということなので、登りだけでいいですね?」

「はい、それで構いません」

 登りだけで良いっていうのもバーチャル登山の特徴だろう。普通の登山だったら、登った以上は下山しないといけなくなる。若い頃は下りの方が楽だったが、年を重ねるにつれて膝に負担の大きな下りが苦手になってしまった。

「では、マシンの前にお立ち下さい」

 すると前回と同じように美風さんがゴーグルを掛けてくれる。そして手すりを握ることによって、最後の調整が完了した。

「どうぞ、黒檜山への登山をお楽しみ下さい」

 こうして俺は、一八二八メートルの山頂目指して、一歩一歩クライミングマシンを登り始めた。


 黒檜山への登山道は、火山岩である安山岩の岩塊がゴロゴロする尾根をひたすら登る。

 俺は、ゴーグルの画像を見ながら、安山岩の岩塊を何度も踏みしめた。前回の公園の丘の木の階段よりも、足の感覚が硬いような気もする。地面の様子も再現できているのであれば、これは本当にすごいマシンだ。

 やがて眺めの良い場所に出た。猫岩と呼ばれる場所だ。眼下にはカルデラ湖である大沼が広がっている。

 それにしても天気が良い。眺めといい、適度な疲労感といい、本当に猫岩まで登ってきたとしか思えない。これで気持ちの良い風が吹いてきたら最高なんだが、さすがにそこまでの再現は不可能だろう。

 でも、天候を気にせずに登れるのはバーチャル登山の良いところだ。登る前は晴れていても、山頂に着いたらガスっていて何も見えなかった、という悲劇も回避できる。

 猫岩を出発した俺は、再び岩塊がゴロゴロする尾根を登る。そして登り始めてから一時間後に黒檜山の山頂に到着した。心地よい疲労感と達成感に俺は満足する。都会の真ん中にいながら、ここまでリアルに登山体験ができるとは思わなかった。


「いかがでしたか、黒檜山?」

 マシンから降りてゴーグルを外してもらった俺は、汗をぬぐいながら美風さんに親指を立てた。

「最高です。こんなにもリアルだとは思いませんでした」

 すると美風さんはニコリと微笑む。

「ありがとうございます。有料になってしまいますが、奥に会員様専用のシャワールームがありますので、よろしければご利用下さい」

 これだけ有意義な時間を無料で過ごせたのだから、シャワーくらいはお金を払っても構わないだろう。

「それは良かった。シャワー、使わせてもらいます」

 オープンしたばかりのお店だけあって、シャワールームもとても綺麗だった。五百円を投入して、俺はシャワーブースに入る。


 シャワーを浴びなら俺は考える。

 この一時間分のチケットは、一枚いくらなんだろう——と。

 一枚千円だったら、安いと思う。それだけ今日は、充実した時間を過ごすことができた。

 一枚二千円だったらどうだろう。それでも俺は買ってしまうかな。

 一枚三千円だったら、ちょっと考えてしまうかもしれない。というのも、赤城山なら都内から三千円くらいで行けてしまうから。値段が同じなら、本物の方がいいに決まっている。

「でも、下山しなくていいのは楽だし……」

 このはバーチャル登山の良いところだ。

 それに交通費だって、往復を考えれば赤城山でも六千円くらいはかかる。

 俺の心は激しく揺れ動いていた。


「美風さん、このチケットって、一枚いくらするんですか?」

 気になった俺は、着替えが終わると早速美風さんに訊いてみた。

 すると驚きの答えが返ってくる。

「正会員になっていただけますと、一枚千円で購入できます。ただし、年会費が別途、五千円かかってしまうのですが」

 ええっ、一枚千円だって?

 それは安い。年会費の五千円はちょっと高いけど、頻繁にここに通えばすぐに元が取れるだろう。

「年会費の方は、大変申し訳ありませんが、これ以上はお安くできないんです。お客様の個人データの管理や調整に必要となりますので」

 まあ、それは仕方がない。

 登る度にその人に合った登山が調整可能というのなら、それはとても画期的なシステムだし、データの管理にお金がかかることも理解できる。

 そんなすごいシステムを一時間千円で利用できる方が、本当に信じられない。

「チケットを追加していただくことで色々なオプションを楽しめますので、チケットの単価はお安くなっているんです」

 ほお、そんなシステムになっているのか。

「オプションって、例えばどんなものがあるんですか?」

 気になった俺は美風さんに訊いてみる。

「そうですね。まずは全天候対応のクライミングマシンです。奥の方に、ガラス張りの個室に入ったクライミングマシンがあるのをご覧いただけますか?」

 あれか。初日に気になっていたけど、クライミングマシンがガラススペースに入っているやつだ。あの個室にはそんな仕掛けがあったんだ。

「全天候対応のマシンは、チケットを一枚追加していただくことでご利用いただけます。季節や天候、風速や気圧なども設定することができるんですよ。例えば、夏の天気の良い日に登り始めると、高度が上がるにつれてだんだんと気温や気圧が下がっていって、山頂に着いたら心地よい風が吹いている、という本物に近い体験をすることができます」

 それだよ、俺が先程ちょっと物足りないと感じていた要素は!

 やっぱり補完する方法がちゃんと考えられていたんだ。

「もちろん、強風や豪雨の中で登るという体験も可能ですよ」

 いやいや、そんなのを望むのは、ごく一部の人だけだろう。

「さらにチケットを追加していただけると、季節や場所に合ったエフェクトを追加することもできます。例えば、花の香りなどですね。ヤマユリの季節を選んでいただけると、本当に素晴らしい香り体験ができますよ」

 それは素晴らしい。が、チケット二枚追加となると、ちょっと考えてしまう。

「プロの方用に、極寒や酸素濃度を低くした条件にすることも可能です。ただしこれは安全面を考えて専属トレーナーが付きますので、かなりお高くなりますが」

 まあ、ヒマラヤなんかに登る人なら、こんなトレーニングも必要となるに違いない。俺には全く関係ないが。

「その他に、オプションってないんですか?」

 全天候対応マシンは一度試してみたい。もしその他にオプションがないのであれば。

「そうですね、丘田さんにお勧めなのは、バーチャルサポーターのオプションでしょうか」

「バーチャルサポーター?」

「簡単に言うと登山ガイドです。ガイドが先行して、その人に合ったペースを作ってくれるので、皆様からご好評をいただいています。と言っても、サポーターのモデルは私なので、ちょっと恥ずかしいんですが……」

 ええっ、それって……?

 美風さんと一緒に登れるってこと!?

 選ぶなら、絶対そっちの方がいい。

「じゃあ、今度来た時は、そのバーチャルサポーターを試してみます!」

「わかりました。覚えておきますね。今日はお疲れ様でした」

 また来週末も来よう。

 そう誓いながら、俺は店を後にした。


 ◇


 翌週末。

 俺は再び、『上を向いて登ろう』を訪れた。気になっているオプションを試すためだ。

 今回はちゃんと登山の格好をして、ザックも背負って来た。やはり、本物と同じくらいの重量を背負わないとトレーニングにはなりそうもない。妻にも「登山」と伝えてある。

「今日はバーチャルサポーターをお願いします。チケットは、一枚の追加でいいんですよね?」

 今回も美風さんが対応してくれた。俺は彼女にチケットを二枚差し出す。

「はい。一時間のご利用でしたらチケット二枚でOKですよ」

 美風さんは、今日もやっぱり登山風のファッションだった。バーチャルとはいえ、こんな美風さんと一緒に登れると思うとドキドキする。

「今日はどの山にされますか?」

「前回と同じ赤城山でお願いします」

 俺は比較してみたかった。バーチャルサポーターがいる時といない時で、どれほど感覚が異なるのかを。

「了解しました。それでは黒檜山登山口スタートで設定いたします」

 さあ、美風さんはどんな服装で現れるんだろう。

 やっぱり今日のような、チェック柄のシャツにカーキ色のストレッチパンツかな?

 もしかしたら、もう少しセクシーな格好だったりして。

 そんな妄想に浸っていたら、美風さんの声が聞こえてくる。

「バーチャルサポーターのペースはどうされますか?」

 ペースって?

 もしかして登山のスピードのことなのか?

「それってどんな設定ができるんですか?」

 逆に俺は訊いてみる。

「基本設定は、会員様と同じペースとなります。その他にも少し速くしたり、逆に遅くしたりすることもできますよ。百名山一筆書きをする方のような超ハイペースっていうのもありますけど」

 ほお、美風さんとのんびり登山を楽しむというのも悪くない。

 ていうか、超ハイペースって何だよ。某放送局のカメラマンの気持ちを味わえってか?

 まあ今回は初めてだから、自分と同じペースにしておくか。

「じゃあ、基本設定でお願いします」

「わかりました。前回の登山のデータを基にして、丘田様に最も適したペースで登るように設定しておきますね」

 そいつは助かる。

 バーチャル画面に理想的なペースメーカーが現れるなんて、地味にすごいことかもしれない。

「それではクライミングマシンの前にお立ち下さい」

 俺がマシンの前に立つと、いつものように美風さんがゴーグルを掛けてくれた。

 手すりを握って最終設定が終わると、画面が登山口の風景に切り替わる。すると、目の前では、登山ファッションに身を包んだ美風さんが準備運動を終えてこちらを振り向くところだった。その格好は、今日の美風さんとほとんど一緒だ。

 そして、俺に向かってニコリと微笑む。

「さあ、一緒に登りましょ!」

 うわぁ、これはイイ。最高にイイ!

 バーチャルとはいえ、サポーターがいるといないとではモチベーションにかなりの差が生まれることを俺は知る。

 俺は美風さんの後ろについて、登山道を登り始める。確かにペースは速くもなく、遅くもなく、自分にピッタリだ。

 それにしても、ペースメーカーがいるというのは、こんなにも心強いものなのかと思う。一人で登っている時は、まだ着かないのかとか、苦しくなってきたとか、どうしてもネガティブなことばかり考えてしまう。今は、美風さんの後をしっかりとついて行くことだけを考えれば良い。

 猫岩のような景色の良いところでは、美風さんは立ち止まってちゃんと休憩を入れてくれる。光る汗を拭く美風さんも可愛らしい。「はい、お茶です」と差し入れをしてくれれば最高だが、さすがにバーチャル登山ではそれは無理だ。

 休憩が終わると、また美風さんの後ろについて黙々と登る。だんだん慣れてくると、たまには何か話をしてくれればいいのにと思うようになった。しかしバーチャルな美風さんは黙々と黒檜山への急坂を登っていくだけだった。

 仕方がないので、俺は美風さんの後ろ姿ばかり見るようになる。これまた仕方がないことなのだが、黒檜山への岩塊尾根は傾斜が急なので、美風さんのお尻が俺の目の前に迫ることが多い。

 ——ストレッチ性の高いロングパンツに包まれた形の良い美風さんのお尻。

 それをずっと追いかけることができるというのは、別の意味で興味深い体験だった。

 結局俺は、美風さんのお尻を眺めているうちに、山頂に到着してしまった。


「いかがでしたか?」

 クライミングマシンを降りると、美風さんがゴーグルを外してくれる。

 いつものように感想を尋ねてくる美風さんだったが、今回はなんだか恥ずかしくて彼女の顔を見ることができない。素敵なお尻でした、なんて言うこともできないし。

 だから俺は、違う言葉を並べてなんとか誤魔化した。

「ペースを作ってくれるのはとてもいいんですが、黙々と登るのはちょっと物足りないというか、なんというか……」

 登山中に何か話をしてくれれば、お尻ばかりに気をとられるということも少なくなるだろう。

 すると美風さんはニコリと笑ってこう言った。

「実は、そういうオプションもあるんです。チケットを一枚追加していただくと、その山の景色や花や地質の解説を聞きながら登ることもできます。その他にも、その地域の歴史や昔話、民間伝承の朗読というプランもありますよ。今はまだ実装されていませんが、ミュージカル風に唄を歌いながら登るというサービスも準備中です」

 いやいや、山に来てまで歌はないだろう。ドレミの歌じゃあるまいし。

 でも花や地質を解説してくれるのは助かる。昔話を聞きながら登るというもの面白そうだ。

「では、今度はそういうオプションも試してみます」

 

 次週からは、俺はいろいろなオプションを試してみた。

 花や地質の解説は、本当にためになった。周囲の木々や花や岩石に目を配るようになって、お尻ばかり見ていることも少なくなったし。

 美風さんのペースを上げることもやってみた。あのお尻に追いつこうと思うと、少し速いペースでも登れることがわかった。が、さすがに超ハイペースはダメだった。ぴょんぴょんと岩塊尾根を登っていく美風さんに「遅いなぁ。もっと頑張ってよ」と言われた時は、登山とは別な感動を覚えたけど。

 そうこうしているうちに、あっという間に俺は、サービスのチケット十枚を使い切ってしまった。


 ◇


「次回からご利用になられる際は、正会員への登録が必要となりますが、いかがされますか?」

 リアルの美風さんが俺の顔を覗き込む。

 ——正会員への登録。

 ついにこの時が来たかと、俺の心は身構える。登録料の五千円は、やはり大きい。

「正会員になられますと、いろいろな特典をご利用できますよ。個人的にお勧めなのが、背負式登山ビューカメラの無料貸し出しです」

 背負式登山ビューカメラ? なんだそれ?

 不思議そうな顔をする俺に、美風さんは説明してくれる。

「当店のバーチャル登山に用いている画像は、その登山ビューカメラで実際に撮影されたものなんです。現在は、スタッフが撮影したデータがほとんどなのですが、会員様からのデータ提供も受け付けていて、バーチャル登山として体験することができるんですよ」

 へえ~、会員が撮影したデータで、会員がバーチャル登山を楽しむ。これはなかなか面白そうなシステムだ。高評価が得られれば、撮影に対するやりがいも生まれてくるに違いない。

「それで、たくさんの方が楽しまれているデータを撮影された会員様には、月末にボーナスが支給されることになっているんです」

 それはすごい。でもお金がもらえるという訳ではないのだろう。

「ボーナスって?」

「無料チケット十枚分、もしくはサポーター撮影会の参加券です。後者を選ばれますと、背負式登山ビューカメラを装着して、サポーターと一緒に実際の山に登っていただけます」

 ええっ、それって……?

 リアルな美風さんとリアルな山に登って、リアルなお尻を眺めながら撮影できるということ!?

「他にも正会員様への特典はあります。これは、個人的にはあまりお勧めしたくはないのですが、ぜひ勧めろという会社の方針なので……」

 急にもじもじし始めた美風さん。

 先ほどのサポーター撮影会も魅力的だったが、さらに美風さんに関連するオプションがあるというのだろうか?

「チケットを何枚か追加していただくことで、バーチャルサポーターの服装を変えることができるんです。OL風のタイトスカートとかメイド服や水着など、実際の登山では絶対にありえ無いような服装にしていただくことも可能です。今のところの一番人気は、女子高生風の制服なのですが……」

 な、なんだってぇぇぇッ!?

 恥ずかしそうに顔を赤く染めて俯く美風さんを見ながら、俺は激しく逡巡する。

 見てみたい、でも彼女に申し訳ない、だがやっぱり見てみたい——



 即座に入会を決めた俺は、毎週のように『上を向いて登ろう』に通っている。そしてバーチャル登山で汗を流す、一時間あたり五千円くらいを支払って。

 どんなオプションを選択しているのかは内緒だ。

 今日も俺は、上を向いて登っている。




 了


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どちらかというと技術系の仕事をしています。 お題小説を書くのが好きで、超短篇を『500文字の心臓』に投稿しています。 科学っぽい短編を書くのも好きで、『ライトノベル作法研究所』の企画に参加しています。もっと見る

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