風に祈る、果ての星で

冴草

風に祈る、果ての星で

 少年が目を覚ますと、肉桂色の瞳に顔を覗き込まれていた。瞳は少女のもので、彼は見知らぬこの娘の膝に抱かれていた。

 「大丈夫?どこから来たの?」

 「……ここは」

 少年の背中には地面の感触があり、顔には大気の気配があるが、故郷のそれらとは程遠いのが自然とわかる。

 自分の状態を確認する。どうやら全身怪我だらけで、もう身動きは取れそうにない。視線を真上へ戻し、ぐるりと見渡すと、空のずっと高いところでは黒、黄、緑、それから赤に着色された突風が筋になり、向こうへと流れていく。太陽はないか、或いは隠され、昼か夜かもわからなかった。

 「ここは貴方の目指した星よ。貴方が行けと命じられた場所。たぶんね」

 「そう……じゃあ僕、着けたんだね……」

 彼女の返答で、少年は安堵したようだった。ぼろぼろの彼に、少女はあやすように優しく触れながら、

 「こんなに傷ついて、ようやく辿り着いたんだものね。嬉しい?」

 少年は面食らったようだったが、「ううん。わかんない。僕は行けって言われただけだもの」とだけ答えた。

 それ以上会話が続かず、互いに押し黙っていたが、やがて少年がまた口を開いた。

 「友だち、見なかった。背が低くて足の速い奴」

 少女はかぶりを振る。

 「いいえ、私は見てないわ」

 それを聞くと、少年は残念そうに溜息をついた。

 「あいつ、ここに着き次第、あちこち見て回る予定だったんだ。僕は空を飛べるけれど、やつは飛べない。だからここまで連れてきた。かわりに陸だとあいつが速くて――だから現地の報告係をするんだって」

 彼のおしゃべりは得意げで、だが時々苦しそうな喘ぎが混じる。

 「でも僕、あいつが走ってるの、まだ見たことないんだ。ほんとに知らない?」

 「……ええ」

 星の上空を渡る風と同じ色の、いや色とすら呼べそうもない肌が、ほんの一瞬不穏な陰影を映し出した。日向にさっと鳥影の差すように。しかし少年が気づかないのは、既にあまり光を捉えられていないからだ。彼の頭を、少女の長い腕が絶えず撫でていた。風はときどき黄金の粒を巻き上げて、ある種の祝福じみて二人の周囲を賑やかした。

 「おねえさんは、どうして親切にしてくれるの」

 この質問に、不意を突かれて少女はひゅっと短く息を吸った。しかしややあって、努めて穏やかに答えることができた。

 「貴方があんまりひどいから。放っておけないわ」

 「……ありがとう。優しいね」

 彼ははにかんだようだった。少女もつられたふりをして、笑ってみようとした。うまくいかなかった。また沈黙。

 ぜいぜいという、痛々しい喘鳴の後で、みたび少年が口火を切る。その口調には先程までの、無邪気な様子はなかった。

 「ねえ、優しいおねえさん。僕、自分のとこへ帰れるかな」

 今度こそ、返事ができなかった。息すら忘れかけた。少年はなおも声を絞り出す。

 「帰れる気がしないんだ。あちこち失くなってるし、力が全然出ないよ」

 まるで、初めからそうなるべきだったみたいに。

 そこまで言うと、彼はひいひいと歪んだ軋みを上げ始めた。泣いているのだ。この幼く純朴な存在は、迫る不吉な予感に苛まれ、帰りたいよおと泣いていた。少女はただ唇を引き結び、膝の上に載せた少年の表情を見つめていたが、とうとう、抑えきれなくなって彼を胸に掻き抱いた。彼らは言葉もなく、ずっとそのままでいた。一人分の嗚咽と、もう一人分の押し殺したような呼吸のやり取りが続いた。奇妙な生物の番いの交感のようであり、また既に一個の活動のようでもあった。頭上を往く流れは憂鬱な赤銅色を帯び、二人を見下ろした。

 「神様の星へ連れて行ってあげる。貴方のような子のための星。すぐに治してくれる。そしたらきっとおうちへ帰れるわ」

 少女が囁いた。少年はまだ泣いたままだ。間を置いて、彼女は繰り返した。

 「貴方のように傷ついて、疲れきってしまった子のための星が、遠くにあるの。すぐに元気になるわ。実を言うと貴方のお友達も、先にそこへ行ったの」

 少年は銀色に潤む目を、自分を慈しむ肉桂色の眼に重ねた。

 「――本当に?あいつ、元気なんだね?」

 「ええ、ええ、彼、ちょっと怪我をしてしまっただけ。貴方を心配させたくなかった」

 「よかった、でも……そんな星があるの?知らないんだ」

 ひとまず泣き止んだ少年が、うく、うく、としゃくりあげながら尋ねると、知らなくて当たり前よと少女は笑う。甲高い鈴と竹製の打楽器を一緒に鳴らしたような不思議な音声には、どこか無理したような色がある。「秘密の星なの……善い人だけが行ける。ご覧、この星の極には大きな竜巻があるでしょう?――あそこからね、上ってゆくの。貴方を招待するわ」

 彼女の指し示すほうに、この星に存在する両極の一方はある。五色のヴェールがかかったその地平線上に、あらゆる地形的、気象的、磁気的な条件により現出した奇跡のような渦が、玉虫色の閃光を放ちながら、天高く積み重ねられていたのだった。塔の如くそびえているが、弱った目を凝らすと内外が絶えず変化しているのがよくわかる。自分はあそこに行くんだ、と少年はぼんやり考えた。あの圧倒的なエネルギーの中心に飛び込んでいくことを想像した。少女が一緒だと思えば、それほど怖くはなかった。掠れる声で、お願い、と相手に言った。

 あまりにも唐突に、何もかもが遠のいた。脳の内側で火花が散ったようだ。ありえないほど荒れた惑星の風、遥か天上で轟々と鳴る息吹が、突如として故郷の柔らかさを帯び、その柔らかさを知ってはいても感じたことのない彼に、実を持って語りかける。そこに、自分を抱く肉体が生み出す揺らぎが融け合って、別の二つの位相の波となって彼の意識を占め、急速に奪い去ってゆく。去ってゆく。寄せては返し、徐々に絡め取ってゆく……。

 眠いの、と問う声が、微かに聞こえた気がした。いいのよ、気が抜けちゃったのね。安心して、今は休みなさい。どうかゆっくりと。

 ――僕、帰れるよね、僕の友だちも?

 急速に霞む意識の中、少年はあらん限りの意思を、意思だと言われたものを使い切って訊いた。訊いたと思った。

 「大丈夫よ。全部大丈夫」

 振り絞るようにして、鈴と竹の音が応えた。声は今度こそ明確な動揺と悲哀の響きを孕んでいたけれど、既に最期の熱を失った彼の集音機構が、その差分を検知することはなかった。


 少女は小高い丘の上に立っている。胸には少年の遺骸が抱かれている。風はますます強まったが、節をもつ根のような無数の細かい足はしっかりと赤茶けた地面に食い込み、平衡を保つ。彼女は勇敢な旅人に敬意を表して、この星のやり方で弔い、葬ろうとしている。その口から、これまで何度となく繰り返された嘆きが漏れた。少女はこの星の司祭だった。

 彼女は左右三対の長い触腕のうちの一対で、襞状になった懐から乳白色の繭のようなものを取り出すと、残りの二対、四本の触腕でもって内部の空洞へ、散々に蹂躙された金銀の亡骸をそっと納める。つい最近もこうして葬られた子がいた。『背が低くて、足の速い男の子』。坂で浮いた拍子に、突風に煽られたらしい。打ちどころが悪かったそうだ。見つけた者によれば、ほぼ即死だった。

 司祭の少女は最後にもう一度だけ、繭を覗き込んだ。安らかな寝顔だった。こんな幼いうちから、行き着いた果てで命が費えるだろうことまで計算ずくで虚空の只中に放り出した親たちを、恨みもせずにその命を終えた顔。

 繭の中の亡骸のような、使い捨てられる惑星探査機の類は、これまでも数多くやってきた。その死に立ち会う度、あまりに軽んじられた死を私は悼んできた。

 唯一の救いは、彼らが心の底から達成した喜びを感じて朽ちてゆくことだった。使命の意味を知らずとも、彼らの大半は満ち足りた表情を浮かべて最期を迎える。たとえその喜びすら植え付けられたものであっても。

 でも、この少年は違った。帰りたいと言った。不安に震え、友だちと一緒に生まれた星へ戻りたいという意志を、はっきり表出させたのだ。そして泣いてさえ見せた。最後こそ安らかだったけれど、こんな子は今までいなかった。

 被造物は心を持たない、などという馬鹿げた考えは、いつになったら改められるのだろう、と少女は憂う。造物主に限りなく似せた精神構造を与えられたと思しき彼らは、反して造物主と等価の命を認められることはなかった。代わりにみな等しく、生命や心といった要素を無視され、酷使され、見放されて、死んだ。多分、それは造った側にとれば「紛い物」だからだ。

 けれどその紛い物はいよいよ、どうしようもなく本物に肉薄し始めた。少年たちが故郷を離れ、ここへ到達するまでの距離と期間を考えれば、彼らの本星ではますます本物に近い偽物が、次々に生み出されていることだろう。当然他の星でも。それでも尚、造り手たちは素知らぬふりを続けて、私たちの元へ送り込んでくるつもりなのだろうか?造られた者も、甘んじて無謀な使命を受け続けるのか。或いは……?

 蓋を下ろした時、一際激しい風が吹いた。歪んだ球形の棺は、わずかに震える六本の触腕をふわりと離れ、見る間に彼方へ運ばれていった。

 ところで繭の中には骸だけでなく、古より伝わる祈りの言葉が封じ込めてある。

 『大いなる流れの中に果てた子よ、次の世では汝自身を運ぶ、一陣の風となりますよう』

 この星では、全ての終わりは遍く風に乗って一つ所に集う。渦を巻く極地の嵐、万物を限りなく無に近い原初へと還し、彼方へ巻き上げる営みの深奥へ。そうして生じた混沌はしかし、流転する無数の生命の集合であり、いつか再び個々の形を得るその時まで、煌めきに満ちた虚ろの海を旅するのだと、星の祭祀書には記されてある。

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