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第1話 ch1


「大家の話によれば、昨日夜に暴れていたそうです」

「直接聞いたんだろう?」

「大家さんが部屋に向かう間に、ぱったり音が止んだんです」後輩の鈴木は、残暑で汗ばんだスーツの上着を脱いだ。新調したばかりのスーツについては、相田の耳は都合よく無駄話を遮断した。

「日曜の朝だってのに、車が一台も止まっていないな」車を降りて、相田は目的の部屋へ入る前に、最後の一本を大事そうに扱う。タバコの煙は風下の鈴木へ向かう。二階建てのコーポが死体を発見した現場だ。早朝にたたき起こされて、当直の相田は彼らが務めるO市署から鈴木のマンションへ向かい、現場を訪れたという現状である。

「いい加減タバコを止めたらどうです」鈴木は手で煙を払いつつ、相田の乗用車を前から回って彼の右わきに足を落ち着けた。砂利よりも大きな石の塊が二人の足元、アパートの駐車場に敷き詰められている。

「昨日からだれも住んでいませんよ」鈴木は、斜め右へ一歩、うんと背を伸ばす。頭の寝ぐせは髪質の問題だと言わんばかりに、ごわついた硬い髪が頭皮の一列をまざまざ見せつける。

「騒音を訴えた奴は昨日限りで引っ越したとかいうなよ」

「冴えてますねえ、相田さん」指を建てて鈴木は振り返る。罵声を浴びせてやろうかと思ったが、まあいい、相田は片目をつぶって続きを求めた。

 半袖のワイシャツから伸びたなまっちょろい白く長い腕、人差し指が右端の部屋を指す。気温が高いことは重々承知している、それでも新調したスーツに袖を通さずにはられない。もうひと吸い、煙を肺に入れる。鼻から煙ともったいぶる鈴木へ催促の言葉をぶつけてやった。次にじらしたら、現場に置いていくつもりの相田である。

「深夜の、いいえ、午後11時12分に唸り声と壁を殴りつける音が聞こえたそうです。引っ越し業者を見送って、ここ、僕らが居るところからですよ、二階の階段傍の部屋から異音がしたんですって」

「律儀だな」

「お世話になったんでしょう」腕組みをした鈴木が言う。「ほら近くの薬学部のある大学に大学院に通う6年もの間この部屋にずーっと住んでましたから。菓子折りの一つを贈るよりも、変質者の行動を知らせてあげる。ずっと大家さん孝行です」

「部屋を貸すのは商売だ。それに家賃を支払ったのは学生の両親。学費を自前で用意する奴が大学卒業後に学びたいと思えないさ」

「相田さん、苦学生だったんですか?」やけに貧乏学生の方を持ちますね、鈴木は指をさしてフィルターに差し迫る火の勢いを教えた。

「俺は高卒」

「へえ、それは初耳です。てっきりいいとこのお坊ちゃんで大学へもすんなりすすいっと、入ったのかと。これまた失礼しました」

 二人は二階の一室に場所を移した。濡れた枯れ葉が赤さびのめだつ外階段に張り付いている。

 死体はすでに鑑識が回収した。隣町のS市が出張ってこちらの鑑識をせっついたため、O署の相田たちより先に署の鑑識が出動していたのだ。警察は各々の管轄で市民の安全と起こりうる危険の回避に努めることが仕事。境界をまたぐ事件・事故には該当する警察署が共同または単独で事件の捜査や処理を担当する決まりだ。だいたいは今後の関係を保てるように、相手の理解・了解を得て行動を起こすのがセオリーだ。ところが、S市は中央から大きな権限を与えられた北の警察署である。そのため近隣の警察署のテリトリーにも無断と独断で荒らしまわる横行がいつも行われている。その場合はs市署で調べている事件と、所管にまたいだ事件に関連を見出しているとみて間違いがない。傍若無人に境界に接しているから、という理由で操作を行うことはまれにではあるが、出くわしてはいた。

「珍しいですよね、これ」

 屈みこむ鈴木が見上げて言う。床に置かれた電話機のことだ。最近では端末を一人一台持つご時世である。若い女性ともなれば、連絡を取り合うためにどこでもつながる端末は必需品だろう。家庭を持つか、隠居暮らし、年金生活の老夫婦なら固定回線の引くのはわからなくもない。

「聴きます?留守番電話」淡いオレンジに光るボタンを、鈴木が押した。

「……どうしてこんなことを?」

「同感だ」

 二人の刑事は録音テープから流れる女性歌手の歌声を繰り返し聞いた。


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