zenith blue nightmare

hiyu

zenith blue nightmare


 泣き止まないから。

 俺の手のひらがじんじんとしびれるような痛みを伴い、赤く熱くなっていたそれを見下ろしても、何の感情もわいてこなかった。

 どうして泣き止まない?

 何度も言い聞かせるように名前を呼び、抱き締め、その唇をふさいでも、お前は変わらず泣き続けていた。

 俺の手がお前の頬を叩く。一度、二度、三度。

 どうして泣きやまない?

 何度も、何度も。

 俺の手はいつの間にかじわりと汗ばんでいた。

 感覚がないことに気付いたのは、その汗でずるりと滑った俺の手が、お前の唇に爪を引っかけ、出血した時だった。滲んだその血を拭おうとして、自分の手が震え、まるで分厚い手袋でもしているかのように感触が鈍かったからだ。

 お前は俺を怯えたような目で見ていた。

 俺が唇に伸ばした手を、また殴るのかもしれないと思ったらしく、ひっと短く息を吸い込み、両手で頭を抱え込んで身体を小さく丸めた。

 その血を拭ってやろうとしただけだ。

 切れた唇が痛そうだから。

 そう思った。

 けれどお前は縮こまったまま小さくかたかたと震えていた。

 俺は自分の手を見下ろした。

 赤い。

 汗で湿ったその手のひらは、腫れている。驚くほど熱くなり、麻痺したかのようなかすかな痺れを持っている。

 どうして泣き止まない?

 俺はただ、お前に泣き止んで欲しかっただけだ。

 俺はゆっくりと手を下ろして、お前を見た。

 お前の声を聞きたいと思ったが、それは望めそうになかった。

 俺は何も言わずにお前に背を向けて部屋を出た。


 気持ちがよくなるくらいの青空は、まさに秋晴れだ。雲ひとつないそれを見上げて、俺は煙草をくわえる。安っぽいライターで火をつけると、二、三度、忙しなくふかした。ようやく人心地ついて、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 俺の手はまだわずかに熱を持っていたが、感覚は戻っていた。

 爪が伸びていた。前回爪を切ったのはいつだったか、思い出せない。この爪があいつの唇を傷つけ、血を流させたのだと気付いて、いらついた。

 マンションのエントランスを出た俺は、その入り口、ポーチの花壇に腰掛けている。

 ぽかんとアホ面で空を見上げる煙草片手の男に、通りすがりの人間がわずかに不審そうな目を向ける。

 秋晴れ。

 その澄んだ空を見上げて、何が悪い。

 俺はまだ長さの残る煙草を足元に落とし、踏み潰す。

 口げんかから泣き出すのはあいつの専売特許だった。始めはぎゃんぎゃんわめいているくせに、俺の意見が優勢になるやいなや、わっと泣き出す。泣いてごまかそうとしているのか、許してもらおうとしているのかのどちらかなのだろう。

 俺はあいつのそれが嫌いだった。

 泣いて、俺がひるむのを待っている。俺が根負けするのを、泣き続けて待っている。

 結局それでだらだらと流されてきた俺も悪いのだろう。

 けれど、最近はその泣き声がやたら俺の癇に障る。

 初めてあいつを殴ったとき、涙でいっぱいのその目を大きく丸くし、あいつはまるで呆けたように俺を見た。そして、その目からますます涙を溢れさせた。けれどそれ以上泣き喚くことはしなかった。だから、俺はそのあとで優しく抱き締めてやった。

 俺にすがるように抱きついたあいつが、ごめんなさい、と言った。

 自分から折れて謝るのは初めてだった。

 その日から、俺はあいつが泣き出すと殴ってそれをやめさせた。簡単だった。あんなに苦労して、どうやってこいつを黙らせようかと考えていた頃が懐かしく思えるくらいに。

 大抵は一度、多くても二度。俺の手のひらがあいつの頬を打つ。

 そして、ごめんなさい、だ。

 別に暴力を振るいたいわけじゃない。ただ、泣き出すのだけは我慢ができなくて、それを止める方法だった。

 名前を呼ぶだけで、嬉しそうに笑うあいつの姿を、俺は思い出す。

 恥ずかしそうに俺に触れ、微笑む。俺はその頬に触れ、髪を撫で、キスを落とす。抱き締めて優しくささやく。

 幸せなのだと思っている。

 今だって。

 俺は二本目の煙草に火をつけた。

 紫煙が空へ向かって立ち上がり、俺はそれを目で追った。

 あいつと二人で空を見上げるのは、楽しかった。青い空に白い雲、くらいの認識しかない俺に対し、あいつはやたらと空に詳しかった。

 空の色を、いくつもいくつもあげていく。

 雲の名前を次々に答える。

 こんな秋晴れの日は、雲の名前を披露するチャンスはないけれど。

 筋雲、鰯雲、鱗雲、立ち雲、羊雲。

 ──空色。

 あいつが言った。

 ──きれいだね。

 俺は答える、

 ──スカイブルー。

 あいつが笑う。

 ──英語にしただけじゃん。

 おかしそうに。

 スカイブルーを表す言葉は他にも沢山ある、とあいつが教えてくれた。結構な量だったから、結局ほとんどを聞き流していた。けれど、その中で一つだけ、俺が気になった色がある。

 ゼニス・ブルー。

 聞いたことのないその響きが、興味を引いた。

 天頂の色なんだよ、とあいつが言った。

 ──空には沢山の色がある。ゼニスブルーはね、空の天辺の、

 あいつが空を指差す。俺たちの頭上、ずっと遠く、高い場所を。

 ──ずーっと上に見える、紫がかった青色なんだ。

 俺の目には空の青はただの青で、それに紫を感じることはできなかった。けれどあいつが嬉しそうに言うから、俺もなんだか嬉しくなった。

 そうか、と答えると、あいつは笑った。

 ──今度、雲ひとつなく晴れた日に、一緒に見に行こう。

 あいつは小指を俺に向けた。

 ──高いところで、二人で、もっと高い空を見よう。

 そんな約束一つで笑ってくれるなら、いくらでもしてやる。

 俺はあいつの小指に自分の小指を絡ませた。つながった指が、じんわりと熱を持つ。間近で目が合って、俺は笑った。

 それなのに──

 俺は、その約束を思い出し、舌打ちした。

 せっかくの秋晴れ、まさしく雲ひとつない晴天。あいつが言ったのは、こんな日のことなんじゃないのか?

 殴らないで、とあいつは言った。

 もう、殴らないで、と。

 お前が泣かなきゃ殴りはしない。

 俺の目は、面倒臭さいと思ったことを隠していなかった。多分、あいつはそれに気付いたのだろう。殴らないで、ともう一度言った。

 うるさい。

 だったら、殴られないようにすればいいだけだ。

 俺は溜め息をついて、適当な返事をした。

 あいつはそれで納得しなかった。俺の腕をつかみ、もう二度と殴らないでと、また言った。そう言いながら、その目はもううっすらと涙が滲んでいた。

 泣くな。

 俺は言った。

 その声は、自分でも驚くほど冷たかった。

 あいつがびくりと震える。そしてその目に恐怖が宿る。

 殴らないでよ。

 あいつの口から、同じ台詞が続く。

 殴らないで。殴らないで。殴らないで。殴らないで。

 殴りはしない。お前が泣かない限りは。

 俺はその口を塞ぐように、キスをした。黙らせる方法が他に思いつかなかった。けれどあいつは俺の腕から逃れようと暴れ、唇を離した。

 痛いのは嫌だ。殴らないで。痛いから。殴らないで。殴らないで。

 何度も同じことを繰り返す。そのくせ、もう泣かないからとは一切言わない。俺が聞きたいのはそっちだというのに。

 いつの間にか、あいつは泣き出していた。

 俺はあいつの名前を呼ぶ。冷静さを取り戻させるために、何度も。両手で俺を追い払おうとするのをやめさせるためにその身体を抱きこみ、殴らないでと繰り返す口を塞ぐためにキスをする。

 それでも、あいつは泣き止まなかった。

 もう、何をしても無駄だった。

 俺は右手であいつの頬を殴る。

 殴らないで、とつぶやいたあいつが、傷ついた目をして俺を見た。

 泣き止まない。

 俺は二度、三度、と続けて殴った。

 それでもあいつは泣き止まなかった。

 どうして泣き止まない?

 俺は殴る。あいつが泣き止むまで、その手を止められそうになかった。

 そして、あいつの唇を、傷つけてしまった。

 ──俺は空を見上げたまま、目を細めた。真っ青な空は一面スカイブルーで、あいつの言うゼニスブルーは見つけられない。

 いつの間にか、吸い止しの煙草が、フィルター部分まで灰になっていた。俺はそれを地面に落とし、踏みつける。

 そろそろ、あいつは泣き止んでいるだろうか。

 俺は足元の吸殻二つを拾い上げ、花壇の土に埋め込んだ。管理人が見たら怒るだろうな、と思って苦笑した。

 エレベーターを降りて玄関のドアを開けると、室内からすうっと風が玄関に抜けた。

 部屋に入ると、ベランダにつながるガラス窓が開いていた。あいつはベランダの柵に身体を寄りかからせ、空を見上げていた。

 結局、俺もお前も同じ空を見ていたようだ。

 俺は声をかける。お前がゆっくりと振り返った。涙の滲む目をこちらに向けて、すぐにそらした。頬は真っ赤に腫れていたし、唇の端には固まった血がこびりついていた。

「空を見てた」

 俺は言った。そして黙っているお前の横に並んだ。

「快晴だ」

 お前は何も言わない。黙って空を見ている。

「約束、覚えてるか?」

 ──今度、雲ひとつなく晴れた日に、一緒に見に行こう。

 お前が言った言葉を、俺はちゃんと覚えている。

 ──高いところで、二人で、もっと高い空を見よう。

 あの、笑顔も。

「ゼニスブルー」

 お前がようやく口を開いた。

「──ああ」

 俺はうなずく。ほっとした。まだ怒って、口を聞いてくれないかと思っていた。

「どうせ、分からないでしょう?」

 感情のこもらない声が、そう言った。

 確かに俺はこの空を、どれも同じ色だと思う。けれど、お前がいれば、見られるような気がするのだ。

「天頂の空」

 お前が俺を見た。はれぼったい赤い目は、まだうっすらと潤んでいる。

「青紫の空」

 まるで呪文のように、抑揚のない声。

「見たかった。一緒に」

 なぜか、急に、不安になった。俺は戸惑い、お前の顔を見つめた。感情のないその瞳は、俺を見ているのか、自信がなかった。

「殴らないでって、言ったのに」

「──それは」

「殴らないで、って」

 お前はゆっくりと俺から視線をそらした。

「高いところで、もっと高い空を」

 お前の声が、ぽつりと聞こえた。

「ここも、高い」

 そう言って、空を仰ぐ。俺にはただのスカイブルー。けれど、お前の目にはもしかしたら、ゼニスブルーが見えているのかもしれない、と俺は思った。

「雲ひとつない晴れた日に──」

 お前の言葉が、あの日約束した言葉と重なる。

「高いところで──」

 お前が俺に向かって、微笑んだ。

 俺は、一瞬、言葉を失った。その笑みが、ふわりと、浮いた。

「一人で見に行って」

 そう言い残して、お前の姿が、消えた。

 あまりにも突然のことに、俺は身体が固まった。

 どこかで、悲鳴が聞こえた。

 ベランダから消えたお前の身体が、頼むから空へ舞い上がっていますように、と俺は願った。急激にがたがたと震える身体を支えていられなくて、その場に崩れ落ちた。

 ベランダの下では悲鳴。

 俺はそれを見ることができなかった。

 見下ろしたら、すべてが終わる。

 まるで悪夢。

 目の前で空中に消えたお前の、最後の顔が、声が、俺をこの先も縛るのだと思った。

 ゼニスブルーの空を見上げて、俺は、声にならない叫びを、あげた。



 了

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