はらはらするわ
ユウの眼球に、イネ科の穂の芒が触れ掛けている。あと少しで、その尖った先端はユウの水晶体を擽り、傷付けただろう。
だが、その接触の瞬間は永遠に訪れない。
ユウの弛緩した足の、踵の窪みを、魔女の箒が楡の柄で引っ掻けていて、それだけで彼女は〈無限飛翔〉のスキルに引っ掛かり、慣性にも重力にも縛られずに宙に浮かんでいられるのだ。
ぱちぱちとユウが瞬きをすると、その瞳は澄んだ空の碧から元の緑味の見える黒へと戻った。
コメント欄までもが、数秒の沈黙に止まり。
[こっえええええええええええ!!!!!???]
[うう……ユウちゃん、もうやめて……いのちをだいじにして……]
[心臓止まるわ、こんなん!!?]
幾つもの堪えきれないと言った絶叫が、コメント欄に木霊した。
しかしまたもユウはその膨大なコメントを一切視界にも意識にも入れず、《異端魔箒》は無感情に無機質に、ユウの体をゆっくりと空の上へと運んで行く。
[もしかして、またやんのか、今の!?]
[……もう三十回くらい繰り返してるかな]
[ねぇ、なんで最初から見てる解析くんは未だに正気度を保ってるんだい?]
[ところで、これなんのためにやってるの?]
[未言を作っているらしいよ?]
[未言……?]
ゆるゆると魔女の箒で上昇して行く中で、ユウは踵だけが乗っていた楡の柄を滑らせて両の膝の裏で保持していた。
それから腹筋を使って上下逆様だった上半身を持ち上げ、両手で箒を掴む。鉄棒の前回りの要領で腰を浮かすと、楡の柄の箒はすすと位置を動かし、その上にユウが横座りの体勢に戻った。
[この投身自殺ごっこと未言になんの関係が……?]
[産まれそうな未言があるんだけど、もやもやしてて形にならないから、実際にやってみようと言ってたよ]
[どういうこと!? どこに未言があるの!?]
[自由落下に近い意味なんだって]
[それ、自由落下だから!?]
コメントの方はユウの思考が余りに奇妙過ぎて、理解不能だと沸き立っている。全く以て同意だが、余人に理解され得ぬからこそ、未だ言になきものを、未言として体現出来るのも確かな訳で、この暴挙を止め難い。
ユウはまた先程と同じ高度に至ると、瞳を碧く変えて、下を覗き込んだ。
眼下に散らばる落下物を全て、その瞳は映しているのだ。
[うわぁぁぁぁ。おちるー、おーちーるー]
[ユウちゃん、やーめーてー]
[お前ら、紡岐さんが俺らの声で止まると思ってんのか?]
[あ、ぜったいむりっすわ]
[はは……そうだね]
絶望と諦観に埋め尽くされた視聴者達の目の前で、ユウがまた体を滑らせて地上へと投げ出した。
[おーちーたー!?]
[うぎゃあああっ!!??]
[やーめーてー!?]
世界がユウに置き去りにされて、離れて行く。
雲の見え方が線となり、太陽は小さくなって行く。
飛び込んだ大気の抵抗が、ユウの黒髪とローブの裾や袖を扇いで、ばたばたと煩く鳴る。
僅かな間の自由な感覚と、死が迫る恐怖でユウの脳波は滅茶苦茶になっている。
そんな中でも、彼女の思考は、たった一つの未だこの世にあらざる
「命の解放……広がる視野、感覚……とおくまで……全能成る……わたしは、いきて……」
呟きは、何回繰り返しても風に拐われて消えて行く。
捉えようの無いものを、まだ誰もその実態を掴んでいないものを目指して、ユウは不毛にも思える思考の試行を続けてる。
「腕が飛んでいくような……ちぎれるような……」
[ちぎれちゃだめぇぇぇえ!!??]
[とってもサイコパス]
[いあいあ、みことや、ふたぐん]
[洒落にならんから宇宙的恐怖やめい]
順調に視聴者の正気度が低下して行くな。それなのに、視聴を打ち切る者が殆どいないとか、実は猛者の集まりなんじゃなかろうか。
「バラバラに散らばる……ほどける……命は自由に……死に囚われ、体に囚われ、しかして心は自由に……重力に引かれて、解放された魂……」
[どこぞのエースパイロット達みたいなこと言い出したぞ]
[人類の革新か]
[紡岐さんがそっち側でもなにも驚かないわ]
常緑の老いて濃くなった色合いが、ユウの視界に徐々に広がって来る。今回の落下地点は森か。
「落ちれば死ぬ高度……なのに、何事もなかったように軽やかに着地する……」
ユウの碧い瞳が、はっきりと一枚の葉に走る葉脈を目視した。
落下は止まらない。ユウのローブの裾が、梢に引っ掛かって枝を揺らし、何枚もの葉が落ちる。
その反動がユウにも伝わって来て、彼女は目を見開いた。
[ぶつかる……!?]
[遥ちゃん!!]
[だめっ!?]
視聴者達も息を飲み、思わず目を瞑っただろう。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
ユウの心臓が激しく動悸して、半開きになった口から喘ぐような息が吐き出される。
大樹の幹を目の前に、逆さまの頭の下には数メートル下に根が隆起した地面があった。
そんなユウを、魔女の箒が追突の寸でで、右足の甲だけを引っ掛かけて宙に浮かべていた。
[い、い~き~て~る~]
[よかった……ほんとうによかった……]
[こわっ…]
視聴者がユウの無事に安堵しているのにも目をくれず、ユウは動悸と呼吸を徐々に落ち着けて行く。
そんなユウの目線の先、大きな木の枝に、一羽の小鳥が停まっていた。
ユウの意識が、その小鳥に焦点を合わせる。
首を傾げるように顔の横にある目で、ユウと目を合わせたその小鳥は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
そして前触れも無く、地面に向かって落ちた。
「ひゅっ」
ユウが息を飲んだ。
小鳥は翼を開かず、重力に引かれて落ちている。
その姿をユウの視線が追った。
秒もかからず、小鳥と地面の距離は零になる。
その直前に、小鳥は素早く翼を打ち、重力なんてなかったかのように、なんの衝撃も受けずに、すとんと地面に降り立った。
そして小鳥は首を右左に交互に回して地面を探り、つつく。餌でも探しているのだろう。
「はらはら、した……」
つい思わずと言った様子で、そんな言葉がユウの口を吐いた。
[いや、俺らはさっきからあなたにそう思ってます]
[遥ちゃん、自分には無頓着だから……]
ユウはまだ視聴者のコメントが目に入ってないようで、ぼんやりとした眼差しで小鳥を見ていた。
「はらはらさせる……?」
[ええ、させられました]
[なんだろう、なんか言い方が今までと違うような?]
ユウの虹彩が光を見付けた瞬間のようにきゅっと窄まった。
ごくりと喉を鳴らし、口が声も出さずに開け閉めされる。
ユウが深く息を吸い込み。瞼を強く閉じて。口の中ではその舌が飴を転がすように蠢いた。
「はら、はる……」
ユウが遂にその胸に泡ぐんだ音を声に託して言とした。
「はらはる……」
その語感を、意義を、口当たりを、心障りを確かめるように、繰り返す。
「はらはるっ!」
ユウが歓喜で跳ねるように、声を上げた。
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