うえののぱんだ

 外に出て、ユウは右の掌を高く掲げた。

 森が風にざわめき、風虫が辺りを駆け抜ける。

「紡岐さん、なにしてるん?」

「ん? 眞森に探索かけてるだけですよー」

 領域に踏み込んだ者は直ぐに分かるなどと、とんでもない事をあっさりと言うユウに、ゆらが軽く引いていた。

「あ、慣れ足と一緒にいる」

「それは安心」

 未言関係者の慣れ足への信頼度は一体何処から来るのだろうか。

 ともあれ、慣れ足が件の『うえののぱんだ』なる人物をユウの元へ案内していると知り、一人と一匹は《魔女》の家の玄関先に腰を落ち着けた。

 やがてガサガサと茂みを掻き分けて、まず慣れ足の未言巫女がいつも通りのレディススーツ姿で現れた。枝葉の中を抜けてきた筈なのに、その装いにほつれもなければ、汚れも付いていない。

「やほー、母さん。お客さんよ」

 慣れ足の台詞を肯定するように、彼女の後ろではまだ茂みが揺らいでいた。

 のそり、と彼は茂みから出て来た。少し猫背になった体の重みを、太い後ろ足に通して地面を踏んで、不格好な二足歩行をしている。

 目の周りは黒い斑が大きく囲い、鼻筋がすうっと通って高く、中々の美形である。

 彼は徐に、【ストレージ】からペンを取り出し、笹を掴むのに特化した手で空中に文字を……いや、何故その手の形でペンが人間のように握れて文字まで書けるのだ?

 さらさらと、空中に書かれた文字はその場にインクを留まらせ、その筆跡を浮遊させて提示する。

 挨拶文らしきものを書き終えた彼は、カンフー宜しく、ポーズを取って自分の姿をユウとゆらに見せ付けた。

 その様を見ていたユウはぱちぱちと瞼を瞬かせて、こてんと小首を傾ける。

「生糸さん、文字が逆さまですよ?」

 ユウの宣告に、生糸と呼ばれたパンダは片足を上げ、大袈裟に驚愕のポーズを取った。

 そして、自分が書き記して空中に浮いた文字を掴み、勢いを付けて引っ繰り返した。

「あ、それ、掴めるんですね」

 先程書かれた『われこそは、うえののパンダ!』との文が読めるようになった事よりも、その文字が触れられるという事実にユウは気を引かれていた。仕方ないな、誰だってそうなる。

「パンダアヴァターは喋れんの?」

「いや。アヴァターをどんな姿にしても、それこそ声帯がなくても会話は出来る」

 万年筆猫の自分を棚に上げたゆらの疑問に、私は即座に訂正を差し込んだ。会話不能な仕様があるとか、プレイヤーが離れていくのが必至なバグを作るものか。

 だから、生糸と呼ばれた彼が筆談を嗜むのは、単にロールプレイでしかない。

 生糸は、またしても空中に文字を描き、くるりと反転して此方に正位置を向ける。これは毎回書いては引っ繰り返すつもりなのか。

『パンダが喋れないのはお家芸ですからね!』

「あー、放蕩親父ね……」

 お前等、またしてもそんな平成初期に放送された古いアニメのネタを出してくるな。

『看板出すのは、大変すぎて諦めました。かなしい』

「あのパンダ、何気に質量保存の法則無視してますからねぇ」

 そしてその古いアニメのネタを掘り下げるな。まだ動画を配信してなかったのが幸いか。

『ところで、すぐに私と気付くなんて流石紡岐さんですね!!』

「え? あ、そいや、キャラネームに変換されませんね?」

 今更ながら、現実と同じ呼び名がそのまま口から出ているのに、ユウは疑問を抱いたようだ。

「本名ではないからだろう」

 もっとも、その疑問への返答は簡単なものなので、直ぐに私から答えを告げる。

 と言うか、キミもセムから色々な渾名で呼ばれているだろうが。

 生糸というのも短歌の筆名らしいので、本名と違ってキャラクターネームに自動変換される事はない。

「マジで未言荘になりつつあるな」

 ゆらが欠伸をしながら、そんな感想を述べた。

『ふっふっふっ。ところで、未言荘での会津おいしいもの巡りをまだ体験してないんですが、紡岐さん』

「うにゃ」

 小説でのイベントを実践させろと脅され、ユウは顔を背けて俯いた。まぁ、東京の住人に、会津若松市内の美味しい店巡りを要求されれば困りもするだろう。

「そ、それはそれとして! 生糸さんも、かしこの動画配信に顔だしおーけーです?」

 相変わらず話題の反らし方が頗る下手だな、こやつは。

 しかし、生糸も先程の問い詰めは全く本気でない軽口だったようで、二つ返事で動画の配信とパーティ参加を了承した。

「とりあえず、中でお茶でもしましょうか」

『わーい!』

 ユウのお菓子の美味しさを知っている生糸は、自分で書いた文字を両手で掲げて小躍りした。

 ユウの背中に飛び乗ったゆらも、尻尾を大きく揺らしてインクを飛び散らせている。

「あ、母さん、あたしホットケーキが食べたいわ。蜂蜜たっぷりで」

「紡岐さんのホットケーキとか、期待するしかない」

『ホットケーキ、いいですね!』

「はいはい、ホットケーキですね」

 ユウ達は順番に《魔女》の家の扉を潜る。

 ユウは身長の足りない〈化け猫〉のアヴァターから、【魔女】のアヴァターに切り替えて台所に立つ。それでも、女性の平均身長を大きく下回るので、頭上の棚には手が届かず、魔力を使ってボウルや撹拌器等の道具を引き寄せていた。

 カチャカチャと道具を鳴かせながら、ユウはホットケーキのタネを混ぜていく。

「えーと、かけるのは蜂蜜と……?」

 ホットケーキの味付けに何が必要なのか、ユウはテーブルに腰掛けるメンバーに振り替えって首を傾げた。

「蜂蜜ー」

「ジャムー」

 慣れ足とゆらが、欲しい物の名を上げて、ユウは棚下収納から其々の詰まった小瓶を取り出した。

 それから、文字を書いていて、やっとくるりと回した生糸に目を戻す。

『私はバターを所望します!』

 その文字を目で追って、ユウはこてんと首を倒した。

「バター?」

『熱々ホットケーキにバターを乗せて溶かすの最高じゃないですか』

「バター……」

 ユウが口許に手を当てて、悩む。

 然もありなん、このルネッサンス期ヨーロッパレベルの文明である地域で、バターの流通がある訳もなく、セムが供給する『バベルの塔』でのドロップ物資の中でも、バターは存在していなかった。

 だが、ユウは要求されたからには、何とかしてそれに応えようとする性格だ。

 そしてユウが非常識を実現する時の手段は二つに一つしかない。

 一つは、ユウが産み出した新たな言葉、未発見の事象の名義付け、未言とユウが呼び慈しむもの。

 そしてもう一つは、このゲームのラストコンテンツとしてデザインされた、所謂ラスボスである《魔女》ニクェから取得したレリックである。

 ユウは、牛乳の入ったガロン瓶を【ストレージ】から地面に出して、《異端魔箒ニクェ》を構えた。

「よっこいせ、と」

 ユウが楡の箒の柄で、ガロン瓶の蓋を叩き、釣竿を引き上げるようにぐっ、と魔女の箒を振り上げた。その仕草に従って、中の牛乳が空中に飛び出してくる。

「ぐるぐるぐるぐーる」

 いっそ清々しい程の棒読みで、ユウが掲げた箒で空気を掻き混ぜると、牛乳が渦を巻いた。

 次第に、生成り色の固体が渦の動きの中で取り残されていく。遠心分離による単純なバターと乳清の生成である。

 単純なだけに非常識であるが、魔女の箒が持つ〈秘薬概念〉は不条理を実現する為のスキルだ。

「生糸さん、出来立てバターですよ!」

『おー! 流石紡岐さん、料理上手!』

「……いや、料理の腕関係なくね、これ?」

 意気揚々と生糸にバターを差し出すユウと、望んだトッピングが目の前で作られた事に燥ぐ生糸を、ゆらだけが冷静に横合いから突っ込んでいた。

 ユウはそれも気にせず、生糸の前に焼きたてのホットケーキを差し出し、出来立てのバターを乗せた。ホットケーキの熱でとろりとバターが溶けて絡まる。

 生糸はそれを頬張り、美味しいと主張するように、フォークを高く掲げた。

 慣れ足も、自分とゆらの分のホットケーキを持っていき、各々にお好みのトッピングをして食べ始める。

 ゆらは尻尾を振り回し、慣れ足はうっとりと頬に手を当てていた。

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